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2017年4月30日
幸せになる道


いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
(新約聖書 テサロニケ人への手紙第一 5:16〜18)


●「いつも喜んでいなさい」

 「いつも喜んでいなさい」と言われても、なかなか難しいものですが、聖書は、ただ命じるだけでなく、どうすれば喜ぶことができるのかを教えてくれています。
 そもそも私達の中に喜びがないのは、ひとりひとり、いろいろなものにしばられて生きているために、自由がないからです。その始まりは、創世記にさかのぼります。
 人は神によって造られ、神に愛され、神と共に生きるように造られました。ところが、悪魔が神と人との関係を壊したために、人は、神の姿を見たり、声を聞いたりすることができなくなってしまったのです。このような神との関係が壊れた状態のことを死といいます。永遠なる神との関係が壊れたことによって、私達の体は永遠に生きることができなくなり、やがて朽ちるものとなってしまいました。そして、何よりも、神に愛されている自分が見えなくなってしまったのです。これを聖書は、「死の恐怖の奴隷」と呼んでいます。
 神との関わりがないことによる死の恐怖の最大の不安は、体が死ぬことに対する恐怖ではなく、自分が愛されていることがわからない不安です。神と離れたことによって、自分は何者なのか、何のために生きているのかがわからなくなり、自分の価値がわからなくなってしまったのです。そこで、人は、その不安を解消するために、人から愛され認められようとするようになりました。しかし、人から愛されるためには、相手の期待に応えなければなりません。これが、「ねばならない」と私達をしばり、自由をうばっているのです。
 「ねばならない」という規定を、聖書は「律法」と呼び、人の期待に応えなければならないと思って生きることを「律法に仕える生き方」と言います。イエス様は、人の期待に応えようとする生き方を「世の心遣い」と呼び、これが私達をしばりつけていると教えています。私達は、愛されようとすればするほど、自由を失い、かえって喜びを失ってしまいます。
 イエス・キリストは、自らが十字架にかかることで、私達に喜びを取り戻させてくださったのです。イエス様はあなたの受ける死を背負って十字架に架かり、あなたの死を滅ぼしてくださいました。イエス・キリストの十字架が示しているのは、神がこれほどまでにあなたを愛しているという愛です。この愛を知った時、私達は、「愛されたい」という生き方から、「愛したい」という生き方に変わります。これが、神様が用意しておられる律法から解放される道です。「私は愛されているから大丈夫」とわかっていれば、いつも喜んでいられるようになります。
 もし、今、その喜びが失われているならば、それは、人に愛されようとして、人の期待に応えようとする生き方に戻ってしまったからなのです。

それなのに、あなたがたのあの喜びは、今どこにあるのですか。私はあなたがたのためにあかししますが、あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。
(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 4:15)


 自分が救われたときの気持ちを思い出してみてください。神様のためなら、なんでもしたいと思ったはずです。ところが、日々の生活の中で、ついこのことを忘れ、再び「人から認められなければならない」「愛されるために期待に応えなければならない」という、律法に仕える生き方に戻ってしまったために、その思いが自分を苦しめてつらくなり、喜びを失ってしまったのです。
 つまり、「いつも喜んでいなさい」とは、人から愛されようとして、人の中に自分の居場所を求めるのは、やめなさいという意味なのです。救われた喜びを忘れてはいけないという意味なのです。
 私達の居場所は、イエス・キリストです。この世の中の誰が無条件で愛してくれるでしょうか。人の愛は、常に見返りを期待します。愛すると言いながら、思っていたような反応がないと腹が立つものです。これは、愛ではありません。自分のためです。
 しかし、イエス様は、何の見返りも求めず、あばたを一方的に愛しておられます。イエス様が私達の居場所です。「いつも喜んでいなさい」とは、イエス・キリストという居場所に戻った喜びを忘れてはいけないということです。人の中に居場所を見つけようとすると、苦しくなってしまいます。

●「絶えず祈りなさい」

 祈りとは、神との交わりです。ですから、「絶えず祈りなさい」とは、いつもイエス様と交わりなさいということです。イエス・キリストこそが、私達の居場所であり、喜びの源です。ですから、イエス様と熱心に交わってほしいのです。
 あなたが苦しい時やつらい時、真っ先に相談するのは誰でしょうか。それが、あなたにとって一番大切にしている相手です。神があなたの居場所であるなら、まず神に祈ります。人の言葉を求めることは、人の歓心を買って同情を引こうとすることであり、それは、人の中に居場所を求めているということです。
 イエス様は私達を愛し、「私はあなたの友だ」と言って、つらい時には祈るように、語りかけておられます。祈りこそ、私達にとって力となります。人は、交わる相手に影響を受けて、変えられていきます。神と交わるなら、神の影響を受け、神に似た者になります。しかし、もしあなたが他のものに目を向けるなら、他の色に染まってしまうのです。
 神様は、私達を守ってくださる方ですから、日々守られるように祈りましょう。どんなことでも祈れば良いのですが、なかなかそれが難しい場合には、イエス様は次のように祈れば良いと、一つのサンプルを示してくださいました。

だから、こう祈りなさい。
『天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
(新約聖書 マタイの福音書 6:9〜13)


1.救いのため

 イエス様が教えてくださった祈りは、自分のためではなく、まず人々のために祈ることから始まっています。
 御名とは、イエス・キリストのことです。この地に、イエスの御名が広がり、一人でも多くの人が救われ、自分の中に神の国を持つことできるようにと、神様は願っておられます。
 神と交わるとは、神の思いに染まっていくことです。ですから、神様が願っておられることを共に祈りましょう。自分の必要のための祈りはそれからです。

2.人を愛せるように祈る

 負いめとは罪のことです。自分の罪の赦しを願い、人を赦せるように求めましょう。なぜなら、私達を最も苦しめている感情は、憎しみや怒りなどの人を愛せない思いだからです。罪とは不道徳の事だと思われがちですが、神様が教えている罪とは、神の律法に逆らうことです。そして、神の律法は「愛しなさい」という一言に集約されます。不道徳等の罪は、愛せないことの延長にあります。ですから、人を愛せない思いと戦うことが罪との戦いです。神様の赦しとは、いやしです。人を愛せない罪をいやしていただき、愛せるように助けてくださいと祈ればよいのです。

3.守られるように祈る

 試みに会わせないでというのは、助け守られますようにということです。その日その日、神様に守られるよう、祈ればよいのです。

●「すべてのことを感謝しなさい」

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

 楽しいこと、嬉しいことならだれでも感謝できます。しかし、つらいこと、苦しいこと、失敗やアクシデントも感謝しましょう。それは、神様がすべてのことを益としてくださるからです。この経験が、未来への希望となります。
 この手紙を書いたパウロは、もともとイエス・キリストを迫害し、クリスチャンを迫害する者でした。それは、パウロにとってつらい過去と言えるでしょう。しかし、神様はその事実を益と変えてくださいました。「あのパウロがクリスチャンになった。」と、人々は驚きをもって神をあがめ、また、パウロが持っていたローマ市民権が役に立ち、キリスト教が全世界に広がっていく基盤が作られたのです。パウロの失敗は、神様によって益とされたのです。
 このように、神様はすべてを益にしてくださいます。無駄な経験は何一つありません。ですから、失敗してもつぶやかず、感謝しましょう。過去を気にしないで、未来を見てください。「私がどんな過去でもプラスに変えてあげるから」と、神様はあなたを励ましておられます。つらい経験も、後から振り返れば、神様に助けられたことがわかるようになります。

 神様が私達に望んでいらっしゃるのは、次の3つです。「いつも喜びなさい。私があなたの居場所だから。」「絶えず祈りなさい。私があなたの友として、いつもいっしょにいるから。」「どんなことも感謝しなさい。私がすべてを益としてあげるから。」
 神様が約束してくださっていることを信じて、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝して生きましょう。