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2017年3月26日
心の向きが大事

●自分の利益を求めない

『すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。 だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。』
(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:23〜24)


 私達は、どのような罪も赦されていますから、何をしてもかまいません。しかし同時に、有益ではない行いや徳を高めない行いがあるのも事実です。すると、つい、クリスチャンとして何をすべきか、何をしてはいけないのかと、どうしても行いに目を向けがちです。けれど、何をしたら良いか悪いかという発想そのものが神様にとってはナンセンスなのです。神は、私達の行いではなく心をごらんになります。大切なことは、自分の利益を求めないことです。あなたの心は、自分の利益に向いていないでしょうか。

●マルタのもてなし

『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 』
(新約聖書 ルカの福音書 10:38〜42)


 マルタは、イエス様をもてなすために一生懸命働いていましたが、誰も手伝ってくれないので、イライラしていました。それに対して、イエス様は、「あなたはこの世の心づかいによって、ほめられようとしているから、腹が立つのですよ」とおっしゃったのです。
 もしこの時、イエス様が一言「ありがとう」と言ってくれさえすれば、マルタは満足したはずです。ところが、自分に見向きもせず、一生懸命マリヤに話しておられるイエス様の様子を見て、マルタは腹が立ってきました。マルタはイエス様に「マリヤを寄越してください」と文句を言いましたが、そこに込められた本当のメッセージは、「私を見てほしい、認めてほしい」というものであり、それに対してイエス様はノーと言われたのです。つまり、接待することに問題があったのではなく、自分を認めてもらいたい、ほめてもらいたいという見返りを求める思いが問題だったわけです。
 人の苦しみの入り口は、ほめられたいと願うところにあります。ほめてほしい、愛してほしい、認めてほしいと願うと、どうしても人と争うことになります。私達は、一生懸命がんばっても認めてもらえないと、腹を立て、人を裁くものです。それは、無意識に相手からの見返りを求めて行動しているからです。奥さんがご主人に対して「一生懸命作ったご飯に感謝もしない」「おかずを残した」と腹を立てたり、ご主人はご主人で「家族のために必死に働いているのに感謝もしない」と腹を立てたりと、相手から認めてもらえないことに腹を立てることを繰り返すのは、見返りを求めていることの表れです。
 イエス様は、この思いのことを「世の心づかい」と言われました。パウロが、益にならないと言ったのも、このことです。見返りを求めるとは、つまりは自分のために行なっていることであり、益にならないばかりか、人をさばき、妬みを生じさせ、自分につらさをもたらします。

●マリヤのもてなし

『イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油の入った石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。
 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなこと(直訳:良いこと)をしてくれたのです。 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」 』
(新約聖書 マルコの福音書 14:3〜9)


 マルタには、「そのような接待はやめなさい」と言われたイエス様でしたが、香油を注いだ女性に対しては「良いことだから、そのままにしておきなさい」と、言っておられます。つまり、イエス様は、接待してはいけないと教えているわけではないのです。
 この時この女性に対してイエス様は「できることをした」と言われました。「できる限り」ではありません。高価な香油をイエス様に注ぐことは、彼女にとってできることをしたに過ぎないと、イエス様にはわかっていました。つまり、彼女には、ほめられたい、認めてもらいたいという思いがまったく存在しなかったため、イエス様は、このもてなしに感動なさったのです。
 人は、これをしても良いのか、あれをしてはいけないのかと、行いの良し悪しを判断しようとしますが、その発想は間違いです。イエス様が教えておられるのは、私達の心が、神に向いているのか、自分に向いているのか、心の向きが問題だということです。
 ほめられたい、認められたい、愛してほしいという動機は、すべて自分の利益のためです。つまり、見返りを求めています。心が自分に向き、見返りを求めていると、腹を立てたり嫉妬したりすることを繰り返してしまいます。もし見返りを求めなければ、人に対して腹を立てる必要はありません。見返りを求めているから、人に対して腹が立ってしまうのです。
 実は、この女性は、マルタの妹のマリヤです。なぜマリヤは、ほめられたいという願望がなかったのでしょうか。その背景となる出来事があったのです。

●マリヤはなぜ見返りを求めずにいられたのか

 何かを行う見返りに、ほめられたい、愛されたいと願うのは、自分は愛されていないという不安があるからです。つまり、マリヤが見返りを求めなかったのは、自分が無条件で愛されていると知る体験をしたからなのです。その出来事について、聖書は次のように語っています。

 マルタとマリヤは、兄ラザロが病に倒れた時、すぐイエス様に来てほしいと使いを出しました。ところが、イエス様はそれを聞いても、いっこうに出発なさいません。それは、ラザロは死んだ後よみがえることを知っておられたからです。このことは弟子達に説明されましたが、誰もまったく理解できませんでした。そうこうしているうちに、ラザロが死んだという連絡が入り、ようやくイエス様は出発なさいました。

『マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」 』(新約聖書 ヨハネの福音書 11:20〜27)


 マルタは、イエス様が来てくれなかったせいでラザロは死んでしまったとつぶやきますが、それでもなんとか信仰を告白します。しかし、イエス様に「ラザロはよみがえる」と言われても、何を言われているのか理解することも信じることもできず、それは終わりの日のことだろうとイエス様の言葉に勝手に解釈を加えました。するとイエス様は、「私を信じる者は決して死なない」と、さらにはっきりと語られたのです。ここでイエス様が言われたのは、肉体の死を通過してもそのまま天国で生きているから、たとえ死んだ人でも生き返ることができる、とうことです。しかし、マルタの答えは、まったく的外れなもので、イエス様の言葉を信じるとは答えられませんでした。

『こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます」とそっと言った。マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた。 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。 』(新約聖書 ヨハネの福音書 11:28〜35)


 マリヤは、あんなに熱心に御言葉を聞いていたのに、何の信仰も持つことができず、「イエス様がもっと早く来てくれていたら」と泣くばかりで、周りも同情して泣いています。誰もイエス様に助けを求めることもなく、「ラザロはよみがえる」と言っても信じません。イエス様は信仰のないマリヤに対して、語りかけることすらしておられません。
 この時、イエス様が感じた霊の憤りとは、信じようとしない不信仰に対する悲しみのことです。イエス様が流した涙は、私達の不信仰に対する悲しみの涙です。決してラザロの死を悲しんで泣いていたわけではありません。不信仰とつぶやき、それがイエス様が涙するほど大きな罪であることに、人々は気づいていません。人をだます取税人にも、姦淫する女にも、弟子の裏切りにすら、涙しないイエス様が、不信仰に対しては涙を流されるのです。

そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
(新約聖書 ヨハネの福音書 11:36〜44)


 人々は、イエス様はラザロの死を悲しんで泣いているとか、あれだけの奇跡を行なったのになぜラザロをいやさなかったのか、とつぶやいたりしています。それを聞きながら墓まで来たイエス様は、墓の入り口を開けるように命じます。ところが、ここでもマルタはまだ信じることができず、「主よ、もう無駄です」と答えるのです。すると、イエス様は、「私がよみがえると言ったのに、なぜ信じないのか。」と言われました。
 私達も、現実を見て、「どんなに祈っても奇跡は起きない。絶対無理。」と思うことはないでしょうか。もしあなたが神につぶやくなら、神様は同じことを言われます。「なぜ信じないのか。なぜ疑うのか。」と。
 ラザロがよみがえったのを目の当たりにしたマルタとマリヤは、自分はなんという不信仰なことを言ってしまったのか、この罪を赦してほしい、いや自分はイエス様に愛される資格はない、イエス様についていく資格などないという思いに駆られていたことでしょう。ふたりが、自分はイエス様に責められ、叱られて当然だと思っていると、イエス様は、ただ「ほどいてやって帰らせなさい」とだけ言われました。

●愛されていることを知る

 「ほどいてやって、帰らせなさい」というイエス様の言葉が、二人にとってどのようなものだったのか、それは、このあとの二人の行動からわかります。

『イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。』
(新約聖書 ヨハネの福音書 12:1〜3)


 この時、マルタはまったく文句を言っていません。マルタは、感謝する心で主に仕えるように変わったのです。そのため、この時のイエス様はマルタのもてなしに対して、何も語っておられません。また、マリヤは非常に高価な香油をイエス様に捧げています。これが、マルコの福音書で「できることをした」と言われている出来事です。
 なぜマリヤはこれができたのでしょうか。それは、自分の罪の大きさを知り、その罪が一言も責められることなく赦され、無条件で愛される喜びを体験したからです。「ほどいてやって、帰らせなさい」とイエス様から言われた時、ふたりは、イエスが涙するほどの罪を犯したにもかかわらず、主に愛されており、自分達の罪が無条件で罪が赦され、これからもイエスに仕えることを許されたことを知ったのです。イエス様はふたりをとがめることなく、優しい愛の言葉をかけられたのです。こうして、マルタとマリヤは、自分が愛されていることを知り、人からほめられようとする生き方をしなくなりました。その感謝から生まれた接待を、イエス様はよしとされたのです。

●心の向きを確認する

 大切なことは、自分の利益を求めるのではなく、感謝することです。人は皆、神と離れた瞬間から、愛されたいと願って自分に心が向いています。しかし、愛されたいと願って、ほめられようとして生きると、必ず、「自分はこんなにやったのに」と、嫉妬や争いが起こり、結局自分を苦しめるだけです。私達がほめられたいと願うのは、愛されていることを知らないからです。ですから、神に愛されている自分を知らなければ、それは決して変わりません。そのためには、自分の犯した罪に気づき、赦される経験が必要なのです。
 マルタとマリヤは、神が涙するほどの罪を犯しましたが、イエス様は責めることなく優しく迎え入れました。イエス様を裏切ったペテロもまた、無条件に赦され、愛される体験によって、変わりました。私達も同様です。人は、罪を赦される経験によってのみ、変わることができるのです。こんな罪深い自分を愛してくれる人などいないと思っても、神様はあなたをそのままで愛し、受け入れてくださっています。このことに気づき、イエス様こそ自分の居場所だと気づくことが、私達の問題を解決する唯一の道なのです。

 自分に心が向いている時の特徴は、次のようなものです。

1. さばく(怒る、ねたむ、争う)
 さばいたり争ったりするのは、自分の優位や賞賛を勝ち取るためであり、自分に心が向いていることを表します。

2. 誇る。同情・歓心を買おうとする
 自慢するのも、悪いことをするのも、人の歓心や同情を買おうとするのも、すべて人の気を引くためで、自分の利益に心が向いている表れです。

3. 人の目を恐れる
 人からどう思われているか、人の目が気になります。
これらは、すべて愛に気づかず、愛されようとしてもがいていることの表れです。こんなことをしても、ただ自分を苦しめるだけだから、やめなさいと神様は言っておられるのです。この世界には、あなたを無条件で愛してくれる人など一人もいません。ただひとり、あなたを造られた神様だけが、無条件であなたを愛してくださいます。自分のこのような態度に気づいたら、やめるために戦い、自分の罪に気づき、神の無条件の赦しを受け入れましょう。

 これを体験できれば、あなたは、自分の居場所がイエス様であることに気づき、キリストが私の内に生きておられるという喜びに気づき、人の中に居場所を求めなくなります。人に感謝ができるようになり、自分にできることをするようになります。人がどう思うかではなく、愛することが喜びになります。これが苦しみを解決する唯一の道です。
 大切なことは何をしたらいいかではなく、あなたの心が自分の利益を求めず、神に愛されていることを知る方向に向くことです。何かができるから愛されるのではなく、愛するがゆえに神はあなたを造ったのです。あなたはその存在ですでに価値あるものなのですから、人と比べるのは愚かなことです。このことを知り、神に愛されていることに気づくなら、自分の利益を求めるのではなく、神に心が向くようになります。