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2017年2月26日
つらさの原因



 ある方が、揉め事が起こり、その揉め事に勝利したのに、平安がないと言って相談に来られたことがありました。その方は、長年ある人と戦ってきて、ようやくその戦いに勝利したが、少しも心が晴れないという内容の相談でした。つらい思いをされ、解決の道を進んでおられるのに、なおそのつらさがなくならないというのです。そこで、その方と一緒に神の戒めについて考えてみました。その方が「神の戒めは、神を愛し、人を愛することです。」と答えられたので、私が、「あなたはこの戒めに従っていますか。その相手の方を、今愛せますか。」と尋ねると、しばらくの沈黙の後、「従っていないですね。」と答えられました。その方は、自分のつらさの原因は、神の戒めに従わず、人を愛せないところにあったのだと気づかれました。
 私達がつらいと感じる原因の多くは、人からどう思われるかにあるのではなく、相手を愛せないところにあります。私達は、自分がつらくなると、相手のせいだと思うものですが、実はそうではありません。相手が自分をどう思うかは、相手の問題であり、あなたの仕事ではありません。この線引きができない限り、問題は解決しません。自分がなすべき仕事、神様があなたに命じておられる仕事の第一は、愛しなさいということです。ですから、愛することができないと、神のことばに従えないというつらさを感じます。それは、相手の問題ではなく、自分の問題です。つらくなるたびに人のせいにしていたのでは、いつまでたってもつらさはなくなりません。

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27)

 私達は皆キリストの体の一部であり、互いに助け合う横の関係でつながれています。もし、自分の体の一部を愛せないとしたら、それは、たいへんつらい状態です。人を愛せない時につらさを感じるのは、私達が互いにキリストの器官としてつながっている存在だからです。

『もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一       12:26)

   これが体です。「きれいだね」と言われて、顔だけが喜び、手や足がいらだつようなことはありません。足を怪我すれば、全身でその痛みを感じ、怪我をした足の働きをカバーして生活をします。この体のように、私達はこの世に存在しているのです。
 つらさの原因は、自分の体の一部を受け入れられていないせいです。ですから、相手を愛することができるようになることでしか、問題は解決しません。心につらさを感じたら、相手が何を言ったかではなく、自分が愛せないせいだと気づきましょう。
 自分の仕事と人の仕事を分けて考えましょう。この世の中には、あなたが何をしてもあなたを嫌いだと思う人が1割いると言われています。(その反対に、あなたが何をしてもあなたが好きという人も1割いるそうです。)ですから、あなたを嫌いだという人にターゲットを絞っても、疲れるだけです。その人がどう感じるかは、その人の自由であり、私達が関与できることではありません。そうではなく、自分の仕事に集中しましょう。私達の仕事は愛することです。愛するならば、つらさから解放されるのです。

どうすれば人を愛せるのか

何か心がつらい時は、人を愛せないせいだと気づいて、すぐに対処しましょう。風邪をひいたら薬を飲むのと同じです。次のことに取り組んでみましょう。
 
1. 人を仲間だと思う
 人というものは、無意識のうちに、人を仲間か敵かに分類して見ています。相手を仲間だと思えば受け入れることができますが、敵だと思うと愛せません。ですから、全ての人を仲間だと思うことで愛せるようになります。
 体の器官同士は、決して敵対関係ではなく、ひとつの仲間です。キリストの体の器官として造られている私達は、常に仲間の関係なのです。相手は敵ではないと言い聞かせましょう。
 
「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:27-28)

2. 互いに尊敬する
 尊敬とは、心理学の定義では、ありのままを受け入れるということです。あこがれ・崇拝を意味するものではありません。
 多くの場合、私達は、人に対して「○○でなければいけない」等の条件をつけています。しかし、尊敬する人に対しては、そのありのままを受け入れるものであり、あれこれ注文をつけたり、条件をつけたりはしないものです。
 人は三位一体の神の関係の延長に造られています。それは、互いを尊敬し、互いを必要とする関係です。ですから、私達人間同士も、互いに尊敬し合えなければ、つらさを感じるのです。

『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。』(新約聖書 ピリピ人ヘの手紙 2:3〜5)

  人が最も励まされ、勇気づけられるのは、ありのままの自分を受け入れてもらった時です。一生懸命頑張って認められるのは嬉しいことではありますが、同時に、次はもっと頑張らなければ認められないんだと、かえってつらさが増し加わります。親と子の関係であっても、上司と部下の関係であっても、相手をありのままで受け入れることで、励まし、勇気を与え、力づけることができるのです。
 自分がいつどのように神様に受け入れられたのかを思い起こしてみましょう。すべての人が、何の条件も出されず、差別なく、無償で受け入れられました。神様があなたをありのまま受け入れているということは、あなたを尊敬しているということです。このことに気づくなら、それはあなたにとって素晴らしい力になります。自分が尊敬されていることがわかれば、周りの人を尊敬できるようになります。私達が人を尊敬することができないのは、自分が尊敬されている自覚がないからです。

『すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人ヘの手紙 3:22〜24)

『もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。』(新約聖書 ローマ人ヘの手紙 6:5)

   私達は、ただ神に心を向けるだけで、何の差別もなく、値なしに、キリストに継ぎ合わされました。キリストに継ぎ合わされたとは、神様に受け入れられたということです。イエス様は私達を無条件で受け入れてくださったことを忘れてはなりません。つまり、イエス様はあなたを尊敬しておられるのです。尊敬とは、条件を付けず、相手をありのままで受け入れることです。尊敬し受け入れるとは、裁かないという行動につながります。イエス様は、私達を尊敬し受け入れているので、私は決してあなたを裁かず、何があってもあなたを助けるとおっしゃいました。もし、あなたが、人に条件を付けるなら、それは尊敬していないことであると同時に、その人を受け入れず、裁くことでもあります。

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)

   イエス・キリストは、私達を尊敬してやまず、何があっても寄り添うと自ら示してくださいました。
 たとえば、姦淫の現場で捕らえられた女性を石打ちにしようとする人々に対して、イエス様は「この中で罪を犯したことのない者から石を投げなさい。」と言われました。すると、人々はすべてその場から去っていきましたが、イエス様だけは最後まで彼女のそばに留まられました。イエス様は、どんな場面にも、決して見捨てることなく、病の人と寄り添い、皆が見捨てた人と共に過ごされます。イエス様の行動は、すべて私達への尊敬の表れです。イエス様は、互いに尊敬し合うことを教えるために、弟子の足を洗われました。それは、私達は互いを必要とする体の器官であるからです。体の器官は、ありのままで互いを受け入れ、それによって体は機能しています。相手をありのままで受け入れることが尊敬であり、この関係を互いの間で持つように教えておられます。私達も、ありのままで相手を受け入れましょう。
 
3. あなたは神にとって必要な人
 人を愛するためには、相手を仲間だと思うことと、尊敬することが必要なわけですが、これがわかっていてもなかなか実践することができません。どうすれば実践できるのか、考えてみましょう。
 
 私達は、どのような時に自分は幸福だと感じるでしょうか。それは、自分が役に立っていると感じられる時だと言われます。人間は、もともと一つの体の器官として互いに助け合う関係に造られていますから、互いの役に立つときに喜びを感じるものなのです。
 では、あなたは、自分が役に立っていることに気づいているでしょうか。神様の目から見ると、あなたは今すでに役に立っている者であり、必要な存在です。あなたは、神様にとって必要なので、存在しているのです。このことに気づくなら、人を仲間だと思えるになり、尊敬できるようになり、愛することができるようになります。
 私達が、自分が何の役に立っているのかわからないのは、全体の中の自分を見ることなく、自分だけを見てしまうからです。たとえば、歯は、食べたり、話したりするために大切な器官ですが、自分自身だけを見ていたら、ただ堅いだけの小さな器官です。自分が噛み砕いたものがどうなるのか、体に吸収された栄養がどのように使われるのか、その体がどんな働きをするのか、歯の間を通り抜ける空気がどんな言葉になるのか、それを聞いた人々が何を感じ何をするのか、自分だけを見ていたのでは、いったい何の役に立っているのか、気づくことはできません。あるいは、指同士が体全体を見ることなく、互いに比較し合ったとしたら、5本もあるのだから、一番小さく細い小指は、自分などいなくてもあまり変わらないのではないかと思うかもしれません。しかし、スポーツでも、演奏でも、あらゆる活動の場面で、小指は大切な役割を果たしています。
 人は、お互いが器官なのだということを理解できないと、自分なんか役に立たないという結論に至ってしまいます。自分を受け入れたり、愛したりすることができず、自分をダメだと思うようになると、自分を隠そうとするようになり、それが私達をつらくさせ、人を愛せない原因となっているのです。

『さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、「なぜそんなことをするのか。」と言う人があったら、「主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。」と言いなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 11:1〜3)

「主がお入り用なのです。」というイエス様の言葉には、あなたがどう思おうと神様はあなたを必要としているというメッセージが込められています。あなたは人と自分を比べて、自分など役に立たない、どうしようもないと思っているかもしれませんが、人の目には小さく役に立たないものとしてつながれていたろばの子が、神様にとっては必要な存在であったように、神様の目には、あなたは役に立っており、必要な存在なのです。
 この事実に気づくことが、実は、私達が人を愛せるかどうかのカギになります。

『すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』(新約聖書 マタイの福音書 25:40)

   王とは神様のことです。神様は、この世で役に立たないと言われている人や、皆が嫌っている人に対して、あなたが接する態度は、神様ご自身への態度だとご覧になります。それは、彼らが神様にとって役に立っている大切な存在だからです。彼らもまた、キリストの体を造っている大切な器官であり、なければ困るパーツなのです。
 この世界はキリストの体です。一人一人に大切な役割があり、その存在によって、現在の姿が出来上がっているのです。これが、存在にこそ価値があるということです。
 すべての人が神様にとって必要だということは、それぞれにできることがあるということでもあります。自分が神様の役に立っていること、主は自分を必要としておられることに気づきましょう。私達は、自分が何に用いられているのか、どんな働きをしているのか、わからないことも多いのですが、神はすでにあなたを用いておられるのです。
 新約聖書の中の多くの書簡を書いたパウロは、宣教の途中、何度も捕らえられ、処刑されそうになりました。この時、パウロを牢から逃がした人々がいます。そのロープを握っていた人々は、一人の人を牢から助け出したことが、世界に対して、未来に対して、何を意味するか、まったく気づいていなかったことでしょう。しかし、彼らがいたからこそ、今日の聖書が存在します。たとえ自分が何の働きをしているか自覚がなくても、私達は神様の役に立っているのです。
 このことに気づかない限り、幸福はわかりません。私達は、キリストの体の器官であるため、キリストの体の役に立っていることを知り、初めて本当の幸福を知ることができるのです。
 神様はあなたを愛してやまず、あなたを尊敬し、すでに用いておられます。そのことにあなたが気づく時、人を仲間だと思うことができるようになり、人を尊敬することができるようになります。それがあなたのつらさを解決するのです。つらさの原因は相手にあるのではなく、愛せない自分の中にあります。それは、人を仲間だと思えず、尊敬できないため、愛せないことが原因です。その根本原因を取り除くには、あなたがどれだけ神に愛されているか、神の役に立っているかに気づくことが必要なのです。