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2017年2月12日
劣等感

   ジョージ・ワシントンは、当時の最先端の医学によって、間違った治療を施されて命を落としました。治療法を間違えてしまうと、治る病気も治りません。
 聖書は、罪は病気だと教えています。罪という病気に対して、私達は正しい治療法を行っているでしょうか。
 人は、反省させるために罰を与えたり、自ら修行を課したりして、なんとか罪を良くしようとします。それは、人が持っている罪を犯す性質を変えることで、罪を犯さなくさせようと考えているからです。そのために、罰やほうびを与えて教育する方法が、世界中で行われています。
 しかし、この治療は神の目から見ると間違いです。罪という病気を探り、聖書が教える正しい治療法を選びましょう。

罪とは私達の劣等感である

 罪というと、一般的には悪い行いを指しますが、聖書は、罪とは神のことばに逆らうことだと教えています。悪い行いをしてしまうのは、神のことばを食べないせいです。そして、神のことばを食べないようにさせているものの筆頭としてイエス様が挙げているのが、この世の心遣いです。これが、罪の実体です。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   この世の心遣いとは、ほめられたいという願望です。この願望のことを、心理学では「承認欲求」と言います。すべての人が生まれながらに持っている「人から認めてもらいたい」という欲求です。心理学では、この承認欲求の原因は劣等感であるとされています。劣等感とは、自分は人より劣っていると感じ、自分を恥ずかしいと思うことです。劣等感から承認欲求が生まれ、それが様々な人間関係の問題を生み出しています。
 劣等感によって、私達は、人と自分を比べ、嫉妬したり、落ち込んだりします。誰もが自分を人と比較した経験を持っていることでしょう。それは、自分に劣等感がある表れです。そして、その結果、人が自分をどう見るか、人の目が気になるようになります。
 ペテロは人の目が気になり、ついにはイエス様を裏切ってしまいます。すなわち、イエス様を裏切った罪は、劣等感から生まれたのです。アダムの子カインは、嫉妬によって弟アベルを殺しました。この殺人事件の背後にあったのは、弟が自分よりも高く評価されたことに対する劣等感です。さらに、劣等感は、「○○だったら幸せになれるのに」という思いも生み出します。イエス様の弟子のユダは、イエス様にあこがれていましたが、イエス様のようにはなれない自分に気づき、イエス様を裏切りました。人を裏切る思いの根底には、いつも劣等感が横たわっています。自分自身を苦しめる罪の底には劣等感があるのです。
 劣等感は、嫉妬や、人の目が気になる、何かにあこがれを抱くという思いになり、それが、嘘をついたり、自分を正しいと主張したりする行いになっていきます。自分を正しいと主張し相手を裁く時、私達は怒りを使います。ですから、怒りも劣等感の表れです。また、人より劣っている自分を隠そうとして、私達は美しく装い、立派な行いをし、立派な肩書や富を持とうとします。これも劣等感の表れです。
 つまり、私達を支配している罪の実体であるこの世の心遣いは、劣等感から生まれているのです。自分に劣等感があることを認識し、劣等感が様々な悪を引き起こしていることに気づくことが、罪に対する正しい治療につながります。

劣等感を克服するには

   病気を正しく治療するには、その原因を正しく見極めなければなりません。罪を正しく治療するために、劣等感の原因を知りましょう。劣等感はいつどのように生まれたのでしょうか。

『人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。』(旧約聖書 創世記 2:25)

   神が人を造った時、人は恥ずかしいという思いを持っていませんでした。それは、ありのままの姿で神に受け入れられていることを理解していたからです。劣等感を持っていないため、人は何かで自分を隠そうとはしませんでした。
 人が自分を隠そうとするようになったのは、蛇に騙されて、神様が食べてはいけないとお命じになった木の実を食べた後のことです。この時、神と異なる思いを持ったことによって、神と一つであった関係が壊れてしまいました。神との関係を失うことは、いのちを失うことを意味します。この時、人類に死が入ったのです。聖書が教える死とは、神との関係を失うことです。
 
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(創世記3:5〜7)

 神との関係を失って、神に愛されている自分が見えなくなった途端、人は自分自身を見るようになり、自分が裸であることを知り、恥ずかしいと思うようになりました。これが劣等感の起源です。人は、神の愛が見えなくなった結果、自分を隠すようになったのです。
 
すると、(神が)仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(創世記3:11〜13)
 
 さらに、二人は、神様に対して、自分は悪くないと主張し始めました。ここに、私達が自分は正しいと主張するようになった原型があります。恥ずかしいという思いを覆い隠すため、必死に自分は正しいと主張するのです。
 このように、聖書からわかることは、劣等感は神の愛が見えなくなったことから発症したということです。愛されている自分が見えなくなり、今の自分はダメだと強い劣等感を抱き、愛されようとして、自分を隠し、自分は悪くないと主張する生き方が始まったのです。
 つまり、劣等感の起源は、死、すなわち、神との結びつきを失ったことにあります。人間は、初めから罪を犯す性質があったわけではありません。神様は、人を悪いものとして造られたのでもなく、不良品が生まれたわけでもないのです。

『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』(旧約聖書 創世記 1:31)

神は人を良いものとして造りましたが、悪魔によって欺かれた結果、神が見えなくなり、神に愛されている自分が見えなくなり、自分の価値が見えなくなり、劣等感を抱くようになりました。つまり、自分は良いものではないと思うようになってしまったのです。この時から、私達は、自分は良いものではないから、努力して良くならなければならないという生き方をするようになりました。しかし、この考え方では、人から責められないように、良くない自分を隠すようになり、良くなるどころかますます悪くなってしまいます。この状態に耐えられなくなることを、人間関係によるストレスなどと呼ぶわけですが、要は良く思われたいのにうまくいかないということです。結局は、ありのままで愛されない欲求不満が私達を苦しめているのです。
 劣等感は、自分を隠し、あなたが悪いからこうなったのだと人を責め、もっと良くならなければならないと自分を責める社会を作りました。良い行いを成し遂げるために努力してがんばれと互いにむち打ち、できてもいないのにできたふりをしてしまうようになったのです。
 つまり、今の社会は、罪に対して、正しい治療が行われていないのです。劣等感の起源である、死(神との関係を失うこと)を解決しない限り、劣等感から解放されません。神との関係を回復するためには、イエス様を信じるしか道はありません。そうしない限り、劣等感など絶対に克服できないのです。

劣等感からの回復

   しかし、イエス様を信じれば、すぐに劣等感から回復するかといえば、そうではありません。私達は、神様との関係を回復しても、なかなか古い習慣をやめられず、見えるもので心を満たそうとしてしまうからです。

『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』(旧約聖書 創世記 1:31)

   神との関係で心を満たそうとしつつ、見えるものでコンプレックスを解消しようとする生き方では、劣等感をなくすことはできません。私達は、この世の何かを得ることで、劣等感によるコンプレックスを克服しようとして生きてきました。その象徴が富に仕える生き方です。この生き方をやめないと、イエス様に愛されることでコンプレックスが癒されても、また新たなコンプレックスを作り出すことを繰り返してしまいます。
 どうすれば、このような自分を苦しめる生き方をやめることができるのでしょうか。
 
1.他人の人生を生きるのはやめる
 人の目を気にして、人からほめられようとして生きるのは、他人の人生を生きることです。自分を生きなければ、やがて苦しくなります。相手に気に入られようとしてうまくいかないと、その思いは怒りや憎しみに変わり、うまくいったらいったで、それを愛だと勘違いし、初めのうちは良くても、やがて相手の要求が大きくなると、これもまた憎しみに変わります。このように、他人の人生を生きようとすると、ストレスをためては新たな人間関係を求めることを繰り返すヤドカリ式生き方になります。そのような生き方をやめて、あなたはあなたの人生を生きなさいと聖書は教えています。

『人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。』(新約聖書 マタイの福音書 6:1〜2)

2.他人の人生を支配するのはやめる
 自分は価値ある者だと感じようとして、他人を支配しようとすることもよくあります。人によって様々な方法がありますが、人を支配するためにもっともよく使われる道具は怒りです。あるいは、自分の不幸をアピールして、同情を引くことで、人を支配しようとする人もいます。このようにして、人の歓心を買って、人を支配しようとするのです。

『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1〜2)

   さばくとは、その人を支配しようとしているということです。しかし、さばけばさばくほど、その人が気になり、その人のために生きるようになってしまうのです。劣等感が減るどころか、かえって増し加わることになり、劣等感を克服することはできません。
 
3.今ある自分に感謝する
 「○○できればいいな」という思いは、すでに劣等感です。そうではなく、今の自分を感謝し、今あるもので満足し、今自分は何が出来るかを考えましょう。明日のことを心配するのはやめましょう。

『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(新約聖書 マタイの福音書 6:31〜34)

   イエス様は、心配するのはやめなさい、神を信頼しなさいと語っておられます。劣等感をなんとかしようとして続けてきた習慣を断ち切り、神と富という二人の主人に仕える生き方をやめない限り、劣等感を克服することはありません。劣等感は、神の愛が見えなくなったことで生まれたのですから、神との関わりを回復することでしか、解消しないのです。
 ですから、つらいと感じたら、とにかく神に祈り、神との関係を築きましょう。人に答えを求めてはいけません。つらさを感じている兄弟姉妹に対して私達ができることは、神様に祈れるように、祈ってあげることです。つらさは、神様との関わりの中でしか解決できません。
 
 聖書は、あなたの罪がいやされるために、罪を言い表すように教えています。私達が罪を隠すのは、そのような自分は愛されない、人から変な目で見られると思っているからです。しかし、イエス様は、あなたがどんな罪を告白しても、そんなものは無視してあなたを愛し続けると言っておられます。放蕩息子のたとえの中で、父は息子の懺悔など無視して抱きしめました。この愛が、自分をダメだと思う劣等感をいやすのです。
 この神の愛を確認するために、あなたが隠している罪を告白するように語られているのです。罪を言い表わせば赦されるとは、どんな罪を犯していても愛されていることを知って、いやされるという意味です。ありのままの自分が愛されていることを知れば、私達は劣等感から解放され、他人の人生を生きることも、他人の人生を支配することもやめられます。今の人生を感謝できるようになります。
 私達は、罪に対して正しい治療をしているでしょうか。「そんなことをしたら神様に怒られる」とか「行いが悪いから罰が当たったのだ」などと思ってしまうことはないでしょうか。このような考え方では罪を治療できず、かえって悪くなってしまいます。人を責めても、ただ罪を隠そうとするようになるだけで、内側から良くなることはありません。行いを良くすることを追求して生きているパリサイ人に対して、イエス様は、うわべは美しいがその内側は墓のようだと言われました。いくら行いを変えても、自分を苦しめる劣等感は、神の愛が見えない限り、解決することはありません。お互いに裁かず、ほめられるために何かをするのでもなく、神の赦しを受け取って愛されていることを知って癒されるよう、正しい治療をしていきましょう。