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2017年2月5日
人間の問題は何?

幸せはあなたの選択次第

   私達はよく過去を振り返って、「もし○○でなかったら、今頃△△だっただろう」と考えるものです。それは、今の不幸の原因を、過去の出来事に結びつけて考えているからです。しかし、もし、過去の出来事によって今の幸せが決まるのであれば、過去、不幸に決まった人は、一生幸せになれないことになってしまいます。決してそんなことはありません。聖書は、繰り返し、後ろを振り向くなと教えています。それは、過去に原因がないからです。大切なことは、今何を選択するかということです。過去に何があったかではなく、今何を選択するかが、今のあなたを決めるのです。

『兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:13〜14)

   私達は、子どもの頃から、何かを手に入れることが幸せだと思ってきました。その結果、多くの人が、自分が手にしているものには興味を持たず、手にしていないものを得ようとして生きています。しかし、聖書は、今自分に与えられているものを知り、それを生かすことを教えています

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27)
『しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:20)


   神様は、私達がこの世界で生きるにあたって、一人一人に、キリストの体の器官として働きを与えておられます。その働きに気づき、それを生かせば、幸せになれるのですが、私達は、つい他の人をうらやましく思い、自分に与えられている働きではなく、別の働きを手に入れたら幸せになれると思ってしまうのです。これでは、いつまでたっても幸せに気づけません。
 また、「からだは一つ」とあるのは、すべての人がキリストにつながる者として造られているということです。一人一人に与えられている働きは、キリストと共に生き、キリストのために生きるためのものです。神と共にどのように生きるのか、神のために何ができるのかを考え、実行する時、幸せになれるのです。この世は、キリストという本体を無視して、自分だけで幸せになろうとしていますが、それでは、たとえ自分の働きを見出しても、幸せになれるはずがありません。
 つまり、もし、今、幸せを得られていないなら、その原因は、過去の出来事のせいではなく、キリストを選択して共に生きていないところにあるのです。
 今、あなたは、あなたの人生を、どうやって幸せにしようとしているでしょうか。何につながり、何に生きようとしているでしょうか。私達はキリストの体ですから、キリストにつながり、キリストと共に生きていかなければ、何をやっても、不幸になってしまいます。そんな時、私達は、自分に起きた出来事のどこかに自分が幸せでない原因があるはずだと思い込んで、過去に原因をなすりつけようとしがちです。しかし、不幸の原因は過去にあるわけではありませんから、その原因を何かに見出そうとしても、それはただ愚痴を言うことにしかなりません。そうではなく、自分に与えられたものを感謝して、キリストにつながり、キリストの一部として、キリストと共に生きていこうと決め、キリストのために何ができるかを考えて生きていくなら、幸せを手にすることができるのです。
 幸せはあなたの選択次第です。だから聖書は、後ろを見るなと教えているのです。

人は愛を求めている

  人間は何を目指して生きているのか、心理学では、その立場によって、「愛を求めている」「理想の自分を追及している」「向上心」などと言われます。ここに共通しているのは、「今よりも良い自分になって愛されようとしている」ということです。私達は、愛を求めて生きていて、愛されるためにどうすればいいかを選択をして生きているのです。では、なぜ人は愛を求めて生きているのでしょうか。心理学は、現象の面から人間の意識や行動の原点を探ることはできますが、その原因までを探ることはできません。その原因を教えているのは聖書です。
 すべての人間が愛を求めているということは、すべての人間が、すでに愛される喜びを知っているということになります。アイスクリームの味を知った子どもが、その後もアイスクリームを求め続けるように、人間の脳は、一度インプットされた情報が残るようにできています。
 神様は、私達をご自分に似せて造り、ご自分の一部として愛しておられます。私達は皆、神に愛される喜びを知っているのです。ところが、この地上で、私達は神の姿を見ることができなくなってしまいました。そのため、神に愛されている自分が見えなくなって不安になり、愛されたいという願望が生まれたのです。
 こうして、人は、常に愛されることを求めるようになったわけですが、問題は、その願望を何によって満たすかということです。

『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:1〜3)

   聖書は、愛をどこから手に入れようとするかで、クリスチャンの生き方を二つに分けています。肉に属する人は、人との関わりの中で愛されたいという欲求を満たそうとするクリスチャンです。もうひとつは、神とのつながりを回復したのだから、神に愛されていることを、より深く知ることで愛されたいという欲求を満たそうとするクリスチャンです。聖書はこれを、御霊に属するクリスチャンと呼びます。
 イエス・キリストを知るまでは、誰もが人との関わりの中で、愛されたいという欲求を満たそうとしてきました。しかし、愛されたいという願望は、もともと神に愛される喜びを知っているから生まれたものです。ですから、人に愛されても、私達の心は満足できません。神に出会い、再び神の愛に気づかない限り、心が安らぐことはないのです。この世に妬みや争いがあるのは、人々の心が安らがず、満足していないからです。
 私達の中には、必ず愛されたいという願望があります。その願望を満たすには、二つの選択肢があります。人との関わりで満たすか、神との関わりで満たすかです。人との関わりの中で満たそうとすると妬みや争いが絶えず、結局心は満たされません。しかし、神との関わりで満たすと平安が満ちあふれます。あなたは、どちらの方法で愛されようとしているでしょうか。

人との関わりで愛されるとは

   愛されるとは、相手の歓心を買うこと、あるいは、相手を支配することです。
 愛とは、関わりです。私達は、愛されたいという願望をかなえるために、まず自分に目を向けてもらおうとします。もちろん、一番良いのは賞賛されることですが、それが得られなければ、けんかでも非難でも、とにかく人から特別だと思われれば、何でもよいのです。そこで、人の歓心を買うために、次のような生き方をするようになります。
 
1. 不幸な自分を選択する
 あなたは、「私の気持ちなど、どうせわかってもらえない」と思ったことはありませんか。これが、自分で不幸を選択しているということです。
 自分で不幸を選択することで、同情やあわれみによって、人の歓心を買い、まわりの人々を支配し、人の上に立ち、特別な自分になろうとしているのです。
 
2. 怒りを選択する
 多くの人は、怒りは感情であって、選択できるものではないと思っていますが、そうではありません。たとえば、けんかしている最中に電話がかかってくると、途端によそゆきの声音に変わったりします。これは、怒りは自分でコントロールできることの良い例です。
 怒りという感情は、自分の選択であり、人の歓心を買うための道具です。人々は、怒る人に対しても、はれ物に触るような接し方になります。怒り、裁くことで、自分は立派なえらい人間であることを示し、人の上に立とうとしているのです。
 
3. 自慢を選択する
 自分の何かをほめてもらうために、服装や見た目を飾ったり、有名人の知り合いであることを自慢したり、学歴を誇ったりして、自分で自分の権威づけをします。こうして、人の歓心を買い、愛されたい願望を満たそうとしているのです。
 
 その他にもいくつかのパターンがありますが、人の歓心を買い、人を支配して、満たされようとするのは、妬みや争いが絶えず、健全な方法ではありません。聖書はそのような生き方をやめ、イエス・キリストとの関わりによって愛されていることを体験するように教えています。

神の愛を知るために必要なこと

1. 御言葉を食べる
 人からの言葉で心を満たそうとすることを止めて、御言葉で心を満たす習慣を身に着けると、魂が満たされることに気づきます。聖書は、神のことばはキリストご自身であると教えています。御言葉を知ることで、キリストに結びつき、キリストに愛されていることを知ることができます。
 聖書を本として手に入れることができなかった旧約時代は、御言葉を覚えやすいように、多くの御言葉がリズムよく歌のフレーズのように暗記しやすいものになっていました。現代は、聖書はいくらでも手に入り、ただでダウンロードもできます。
 なかなか皆さん聖書を読まないようですが、聖書に親しまない限り、キリストに愛されていることに気づくことはできません。まずは聖書を読み、御言葉を覚えましょう。

2. 罪を言い表す
 罪を言い表すと、無条件で赦される体験をします。このことによって、理屈抜きで愛されていることを知ることができるのです。
 イエス様は、放蕩息子の話を通してそれを教えておられます。父親の大切な財産を湯水のように使い果たして帰ってきた放蕩息子に対して、彼の父親は、走り寄ってきて抱きしめ、最高の衣類と装飾品、最上の食事を用意して迎え入れます。息子は、自分の罪深さを悟り、罰を受けることを覚悟して帰ってきたわけですが、かえって、自分がどれほど愛されているかを体験する結果になりました。
 私達も同様です。神の前に罪を言い表す時、神の愛を知ることができます。あなたが求めている愛はここにあるのです。
 人は皆、無条件で愛されることを求めています。しかし、この世界にある愛は、○○ができたらほめてあげよう等、常に条件がつけられます。その条件をクリアしようと頑張ってもできないと、自分はダメだと思い、また、自分ができないことを誰かができると、嫉妬や怒りを覚えます。
 しかし、神の愛は、一切条件を付けません。神様は、罪人も、行いが立派な人も、まったく同じように愛されます。そのことを知りたければ、試しに自分の罪を言い表してみるように、聖書は教えています。ところが、多くの人は、私は大丈夫、もっと良くなるように自分で頑張ると言って、罪と向き合おうとしません。だから、神の愛が見えないのです。
 自分の罪を言い表してみましょう。理屈抜きに神に愛されている自分を知ることができます。その時、神の愛は、人の愛とは比べ物にならないと気づきます。

3. 弱さを誇る
 私達は、自分の弱さを何かで覆い隠して、自分を良く見せようとして生きています。それは、人から愛されたいからです。自分の弱さを隠して強く見せることで、人の歓心を買い、人を支配しようとしているのです。それでは、神の歓心を買うことも、神を支配することもできません。
 この世で一番人を支配することができるのは赤ちゃんです。赤ちゃんは、自分では何もできないので、必要なん時に泣いて訴え、人々をコントロールします。赤ちゃんの武器は自分の弱さです。
 もし、あなたが自分の弱さを正しく理解し、その弱さを誇れるようになると、神の愛を知り、神を支配できるようになるのです。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:9)

   聖書が、私達はキリストの器官だと教えているのは、手は手の働きしかできない弱い存在であるという意味もあります。器官は、キリストとつながらない限り、生きていくことができません。弱さは、キリストと私達を結びつける接着剤なのです。ところが、人はそれを切り離し、弱さを隠して強く見せようとし、神ではなく人とつながろうとしています。ここに問題があるのです。
 「愛されたい」という願望は、神の愛が見えなくなった時に生まれたものですから、神に愛されている自分を見出さない限り、本当の幸せを手にすることはできません。神に愛されている自分に気づく唯一の道は、自分の弱さを知ることです。自分の弱さを知ると、必死に神にしがみつき、祈るようになります。すると、イエス様の助けを受けることができるのです。これが、イエス様の歓心を買い、イエス様を支配するということなのです。私達の考え方とは、真逆です。
 人は皆、愛されたいという願いを持っています。その願望を、人から愛されることで満たそうとすると、自分の弱さを隠して強く見せようとする生き方になるため、怒りを選択したり、自分は不幸だと思ったり、妬み争いが絶えなかったりします。そうすると、今度は、仕方なく快楽でつらさから目をそらそうとするようになります。
 そうではなく、愛されたいという願望は、神の愛が見えなくなったことから生じたものであることに気づき、神に愛されていることを知って満たされようとするならば、あなたの問題はすべて解決されます。イエス様を信じ、御言葉を食べ、罪を言い表し、神に愛されている自分を知り、自分の弱さをそのまま受け入れればよいのです。つまりあなたは自分をそのまま受ければよいのです。そうすれば、神に愛されている自分が見えるようになり、人を愛せるように変わります。これが、聖書が教える福音です。私達の弱さは、キリストと私達をつなぐ宝です。