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2017年1月15日
イエスの戦い

   昔の人は、地球が丸いということを知らなかったために、船で沖に漕ぎ出したら大きな滝に落ちてしまうなど、恐れなくていいことを恐れていました。実は、現代の私達も同じです。正しい事実を知らないために、間違った思いにしばられ、恐れなくてよいものを恐れて生きています。なぜなら、この地上では、すべての人の心に覆いがかかっていて、そのために間違った価値観が作られ、物事を判断する基準そのものが間違っているからです。
   神様はこの覆いを取り除いて、私達が価値観を変え、物事が正しく見えるようになって、恐れから解放されてほしいと願っておられます。そのために来られたのが、イエス・キリストです。イエス様は、私達が持っている間違った価値観を壊すために、戦われました。その価値観には、次のような特徴があります。

1.何ができるかという能力で人の価値を判断し、才能を評価する。

イエス様は、能力で人を判断しません。人は能力の基準として学歴を見たりしますが、イエス様ご自身、なんの学歴もなく、イエス様の弟子達もほとんどが無学な者達でした。

2.何を持っているかで判断する。

私達は、その人が持っている車や家、あるいは身に着けているものを見て、人を判断します。しかし、イエス様はこの世の富をまったく持ちませんでした。

3.行いで判断する。

イエス様の時代には、守るべき良い行いが細かく規定されていました。しかし、イエス様は、そのような決まりにとらわれることなく、安息日に病の人をいやし、取税人や罪人や遊女と交流なさいました。イエス様は、行いで人の価値を判断なさいませんでした。

4.容貌で人を判断する。

人は、美しいとか、たくましいとか、人の容貌を評価します。イエス様ご自身の容貌は、ヨハネ8:57によると、30歳の時に50歳近くに見えたらしいことがわかり、イザヤ書には、人が慕うような美しさはなかったとあります。イエス様は人から評価されるような容貌ではなかったようです。

5.比較する。

人は、人と比較して、どちらがより価値があるかを比べます。イエス様は、比較で人の価値を決めたりはなさいません。

   このような価値観のことを、イエス様は、「うわべ」と表現なさいました。この世は、常にうわべで価値を判断する仕組みで成り立っています。そのため、私達はこの価値観に縛られ、うわべが良くないと、自分はダメだと思い込んでしまいます。しかし、イエス様はこのような価値観を修正するために戦われたのです。
   それは、間違った価値観が、私達を苦しめる原因を作っているからです。自分がつらいと感じていること、重荷だと思っているものは、確かにこの世では、良くないものだと思われているでしょう。けれど、それらはこの世の間違った物差しで測った結論であり、神様から見ると、むしろそれらは宝です。あなたにとっての欠点や人より劣っていると思う部分、障害、重荷……そこには、すべて神の宝が隠されています。私達は、この世で180度間違ったものの見方をしてしまっているのです。イエス様がその生涯を通して私達に教えようとしておられることを学んでいきましょう。

イエス様のエルサレム入城

『さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村にはいるとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか。』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます。』と言いなさい。」そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。』(新約聖書 マルコの福音書 11:1〜7)

   イエス様がろばの子に乗って、エルサレムの神殿に入る場面です。神の子であるイエス様が神殿に入るということは、神殿に本来の主人が帰ってくることを意味します。つまり、王が城に帰還してこられるのです。この世界を造られた王が自分の城に帰ってくるとき、どのような入城がふさわしいでしょうか。
   たとえば、当時の最高権力者であるローマ皇帝が城に凱旋する場合、立派な馬車に乗り、何頭もの馬と大勢の兵士を従えて大パレードをするのがふさわしいと考えるのが、この世の価値観です。ところがイエス様は、小さなろばの子に乗って入城なさいました。
   私達は、偉い人はうわべを立派にするものだという価値観を持っています。皇帝がろばに乗って入城するなど考えられません。日本でも、天皇陛下が出かける際には、車が何台も連なり、大勢の人々が集まるものです。ローマ皇帝よりもさらに偉い王の王、神の子が凱旋する晴れ舞台に、なぜイエス様はろばに乗られたのでしょうか。
   これは、ゼカリヤ書の預言に従ったものだと解釈するのが一般的ですが、ここにも神様の深い意図があります。この晴れ舞台に、神様が指定なさったのは、ろばの中でも子どものろばです。当時の社会では、子どもは価値のない者の象徴です。誰も乗ったことのない子どものろばというのは、使い道も価値もないろばということなのです。
   つまり、イエス様が「誰も乗ったことのないろばの子」と指示なさったのは、「私は、この世で最も価値のないものに乗って入城する」と言っているのと同じことなのです。
   これは、この世の価値観と真っ向から対立する価値観です。イエス様はここで、神にとって大切なもの、必要なものは、自分を高くするものではなく、自分を低くするものだと伝えておられるのです。人々がバカにしたり、蔑んだりしている相手こそ、実はすばらしい人なのだというメッセージが込められているのです。

『しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:27〜29)

   神様は私達が素晴らしいと思うものを排除し、私達がダメだと思うものを高く上げられます。知恵ある者、強い者をはずかしめるとは、私達が持っている価値観をはずかしめるということであり、それは、私達が持っている価値観が間違っていることを教えるために、あえてそうなさるのです。

『そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。』(新約聖書 ルカの福音書 1:50〜53)

   この世の人々は、立派なことをしたら神様に愛されるとか、神様からほうびがいただけるとか考えがちですが、そうではありません。自分は何もできないと知った者こそ、神に近いのです。神様は、そういう人達のそばにいて、引き上げてくださいます。ところが私達は、何もできない人は価値がないと言って排除しようとします。
   しかし、人は皆、小さきもので、神なしでは生きられません。
   私達は自分で自分を生かすことができず、時間が来れば滅びる存在です。生きるには神の助けが必要なのです。そのことに気づいた人を、神様は心貧しき者と呼ばれました。そのような人を神様は引き上げてくださいます。自分は神など必要ない、立派だと思っている人たちは、自分は死ぬものであり、すべては死に飲み込まれてしまうことに気づいていないのです。
   「神を恐れかしこむ」とは、神様に畏敬の念を抱くということです。「恐れる」という言葉には、怖いという意味と、畏敬(偉大なものをかしこまり敬う)という二つの意味があります。聖書が教える恐れとは、畏敬の念を抱いて、神に信頼し、拠り頼むことです。神様は、そのような者を代々にわたって助けることができます。ですから、自らを「低い者=助けを必要とする者」という認識を持っている者は幸いなのです。
   イエス様が人々の前にろばに乗って現れたのは、これらのことを教えるためだったのです。

   イエス様は入城後、何をしたか

『それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮にはいり、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 11:15〜17)

   イエス様は、宮の前にならぶ出店を次々にひっくり返して、商売人達に「出ていけ」と命じました。どんな人にも優しく愛をもって接するイエス様の生涯の中で、イエス様自らが戦っておられるシーンはここだけです。あの優しいイエス様がこんな乱闘を繰り広げるとは、どれほど周りの人々は驚いたことでしょうか。
   このことは、私達に強烈なメッセージを伝えています。「ここは私の宮だ。神と交わる場所だ。私の宮で何をするのか。」と。
   いったいイエス様は、何と戦っておられるのでしょうか。今、神の宮はどこにあるのでしょうか。

『あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 6:19)

   今、神様は、あなたの中に住んでおられます。神の宮は私達の中にあるのです。その宮が間違った使い方をされ、汚されている時、神様はそれを打ち壊そうとなさいます。あなたが富に仕え、神ではなく、富に目が向いている時、神様はそれを打ち壊そうとなさるのです。
   私達の目が富に向く理由は、肉の価値観によります。私達が持っている価値観は、うわべで判断しますから、少しでもうわべを良くするために、富を得ようとするわけです。こうして、神に仕え神と交わるのではなく、富に仕えるようになります。
   聖書が教える富には、二つあります。それは、人の賞賛とお金です。人の言葉で心を満たそうとするのも、賞賛を得るために富を得ようとするのも同じことです。私達がこの価値観を持っている限り、神が共にいても見えず、神と交わることができません。神を知ろうと思っても知ることすらできないのです。
   結局、あなたを苦しめているのはあなたの価値観であって、それが神を見えなくさせているというのが、神様が伝えたいメッセージです。イエス様はそれを壊そうとなさったのです。私達はうわべを一生懸命良くしようとしますが、人の価値はうわべでなく、その人の存在そのものにあるのです。
   人の美しさ、人の輝きは、星の輝きに似ています。私達は月を見て、美しく輝いていると思います。あるいは、宇宙から見た地球は、青く輝く美しい星です。しかし、月も地球も自分で光っているのではありません。太陽の光を反射しているだけです。つまり、太陽の栄光を輝かせているのです。人間も同様です。なぜ人間に価値があるのかというと、神の光を受けて、神の栄光を反射させ、輝かせる存在だからです。一人一人の能力ではなく、神の栄光を映し出す存在だということが、私達の価値なのです。
   人は神に似せて造られ、神の栄光を表す存在です。ですから、人が人を差別したり、排除したりするのは間違っています。人が持っているうわべに価値があるのではなく、神の栄光を映し出すところに価値があるのです。なぜなら、私達の魂は、神のいのちによって造られているからです。
   人は、自分が神に似せて造られたものだということを知らず、自分の素晴らしい価値に気づかず、神の栄光を表していることに気づかずに生きています。そのために、この世でやがて滅んでしまうような、全く価値のないものに自分の価値を映し出そうとしています。もともと素晴らしい価値を映し出しているのに、それに気づかず、価値のないもので着飾って、価値ある者になろうとする……。自分を高くするとはそういうことです。
   イエス・キリストは言われました。

『しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。』(新約聖書 マタイの福音書 6:29)

   どれほどの財産を持っていようとも、神様が与えた価値のほうがよっぽどすばらしいということです。でも私達はそのことに気づかず、価値のない物に自分をゆだね、自分をダメだと思って自分を苦しめています。それはちょうど、地球が平らだと思って、その先に行くことをあきらめ、一歩を踏み出す勇気を持てずにいた人類のようです。
   神様は、あなたの価値はそんなものではない、なぜ自分の価値を別のもので覆い隠そうとするのか、なぜ自分の価値ではないものを見て落ち込むのかと、語り続けておられます。私達は、弱ければ弱いほど、神に拠り頼むことができ、神の光を輝かせることができるようになります。ですから、神を恐れる者は祝福されるというのです。自分は何もできない弱い者であり、神なしでは生きられないということに気づくなら、あなたの心は神に向き、神のほうを向いて神を恐れるほどに、神を拠り頼めば頼むほどに、神の光をより美しく輝かせることができるようになります。これが、聖書が教えている福音なのです。
   神様は、私達に次のことを教えておられます。

1.うわべにあざむかれてはいけいない。

   あなたは私の栄光を表している存在である。あなたの価値はうわべではなく、その存在にあり、神の栄光を映し出す器なのだ。このことに気づきなさい。だから、自分をダメな者だと言って落ち込むのはやめなさい。あなたは素晴らしい者である。

2.うわべにだまされてはいけない。

   あなたは何があっても私に愛されている。確かに世の中で賞賛を得るためには、何ができるかが愛される理由となるから、多くの人がその基準で神を見て、こんな自分は救われない、愛されないと思い込んでいるが、そうではない。私はあなたを神の栄光を映し出す器として造った。私は絶対にあなたを手放さないで愛し続ける。うわべは関係ない。あなたは何があっても愛される存在だ。

3.あなたはなくてはならない存在だ。

   この世界でもっとも価値がないと思われるろばを引き上げたことが意味しているのは、あなたは私にはなくてはならないものだということ。自分なんか神にとって必要でないと思うのは間違っている。

   私達がこのような間違った思いを抱いてしまうのは、私達の根本の価値観が間違っているからです。この世は、うわべに人の価値があると思い込んでいます。イエス様が宮で戦った相手は、その価値観です。富に仕えることは、まさに私達のこの価値観を象徴しています。
   神様は、あなたが神の愛が見えるようになることを願って、今もあなたの誤った価値観を排除しようと、日々あなたの内で戦っておられます。イエス様が宮で戦っている様子は、まさに私達の中で日々起こっている様子だと悟ることができれば幸いです。