ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2017年1月8日
礼拝メッセージ

   私達は、ずるいイメージがある人に対しては、何かたくらんでいるのではないかと疑い、良いイメージがある人に対しては、この人は嘘などつかないと思い込んでしまうものです。これは、神様に対して正しいイメージを持たないと、神様のメッセージを正しく理解できないということにつながります。
   神様の正しいイメージを知るためには、人間がどのような存在かを知ることが助けになります。それは、神様は、人間をすでに死んだ存在だと見ておられるということです。聖書では、生まれながらの人間は、死人と呼ばれているのです。この言葉の意味がわかると、神様がどのような方かがわかります。

人は皆死んでいる

『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』(新約聖書 エペソ人への手紙 2:1〜2)

   人は、神に似せて造られ、さらに神のいのちの息が吹き込まれた存在です。つまり、神の命が分け与えられて、神と同じ思いを共有し、神との関わりの中で生きるように造られたのです。神とは、父なる神、子なるキリスト、御霊なる聖霊の三位一体の神です。三位一体とは、それぞれ人格を持った神様が、一つの思いで何をするにも協力して行うため、人間の側から見た時、お一人にしか見えない方であるということです。
   神様は、人に「善悪の知識の木の実を取って食べてはならない。それを食べると死ぬ。」とおっしゃいました。善悪の知識とは、神と異なる思いのことです。もし人が神と異なる思いを持ったら、神と一つの思いを共有する関係は崩壊してしまいます。聖書が教える死とは、神との結びつきを失うことです。神様は、神との関わりを保つために、神と異なる思いを信じてはならないと言われたのです。
   ところが、人は悪魔の言葉にだまされて神と異なる思いを信じ、「この実を食べても死なない」と思うようになりました。この思いのために、人は神との結びつきを失って「死」に、体も死ぬものとなったのです。

『また、人に仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。……あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』(旧約聖書 創世記 3:17,19)

   神と異なる思いを信じて実を食べた人間は、神との関係が壊れて、土に帰る存在になりました。今の私達は生きているように見えますが、全ての人は必ず死を迎えます。つまり、生まれながらの人間は皆死人だということです。
   聖書は、神様と私達の関係を、木と枝の関係で説明しています。枝は、木から切り離されてもしばらくは生きていますが、やがて土に帰ります。つまり私達は折れた枝と同じで、神とのつながりがないために、やがて滅ぶ存在です。アジアでは、死後生まれ変わる輪廻の思想や、死者は天から現世を見守るという先祖崇拝の思想があり、ヨーロッパでは、死によって魂が解放されて自由にされるなどの思想がありますが、聖書はそのようなことを教えていません。中世、このような霊魂不滅説の影響を受け、今もその説に立つ考え方が残っていますが、本来聖書が教えていることは、死とは人が土に帰る時だということです。聖書は、私達は皆生まれながらに死んでおり、イエス・キリストに結びつかない限り、誰も生きることはできないことを一貫して教えています。
   このことがわかると、神がどのような方かがわかります。死人に罰を与えることも、ほうびを与えることも、何の意味もないことです。神様が死んだ人間にできることは、その人を生き返らせることだけです。神様は、死んだ私達をただ生かしたいのです。
   聖書は、立派な人など一人もいない、私達は皆罪人だと教えています。私達は皆、本来の姿を失った障がい者であると言えるでしょう。世の中で障がい者というと、本来の体の機能がうまく働かない方のことを指しますが、それは間違った使い方です。神と結びついて生きるという本来の機能を失った状態こそ障がいであり、私達は皆神のあわれみにすがるしかない人間です。

神は死人を救う

   人間は生まれながらに死んだ状態であることを知らないと、神様に対して間違ったイメージを抱いてしまい、神様との関係が間違った方向に進んでしまうことがあります。 たとえば、ノアの箱舟の話を聞いても、罪人を洪水で滅ぼすとは、なんと残酷な神様だと誤解してしまうと、自分も悪いことをしたら罰を受けるかもしれないという恐れが生まれます。こうして、救いを受けるには良い行いをしなくてはいけないという律法主義の考え方が生まれたのです。
   しかし、人間が生まれながらに死んだ存在だとわかると、神様は誰ひとり滅ぼしていないことがわかります。神は死んでいた者を助けようとして福音を届けましたが、彼らは今のままで良い、神など必要ないと言って拒否したために、神様は彼らを助けることができなかったのです。こう言うと、神はなんでもできるのだから、彼らがいやだと言っても無理やり救えばいいじゃないかと反論する方もいらっしゃいます。確かに神様は何でもおできになりますが、一つだけできないことがあります。それは、罪を犯すことです。罪とは、愛に反する行為です。そして、愛とは相手を受け入れることです。相手が自分と違う考えを持っていたとしても、相手を尊重し、相手が望まないことはしないことが愛なのです。神はすべての人に御手を差し伸べ、その思いを知ってくださいます。しかし、助けを拒む人を無理やり船に乗せることはできません。
   神様にとって、人の意志で重要なのは、神に助けを乞うかどうかだけです。人間は皆、死の状態にあり、いのちを望まない限り、何も望んでいないのと同じです。死んでいる中でどんな願いをかなえても、意味はありません。人には生きることが必要です。そのためにできることは、神様に助けを乞うことだけです。神様は人が望まない限り、助けられません。ですから、神様はこの手につかまりなさいと、御手を差し伸べ、人に働きかけておられるのです。

『キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。 』(新約聖書 ペテロの手紙第一 3:18〜20)

   イエス様が十字架にかかって死んだのは、死んでいる人間を神様のもとに導き、神様との関係を取り戻させるためです。聖書は、ノアの時代にも、キリストが、贖いを受け入れない人々のところに行ってみことばを宣べ伝えたと教えています。この世の時間では、ノアとイエス様の時代は異なりますが、聖書は、「イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも同じで、今も共におられる」あるいは、「神の目には千年は1日のようであり、1日は千年のようだ」と語っています。すべてのことは、神様にとっては一瞬の出来事であり、神様はノアの時代にも福音を伝えたのですが、ノアの家族以外は、それを拒否したのです。
   つまり、ノアの箱舟の話は、悪いことをした人を神が滅ぼす話ではなく、神の御手にしがみついた人が助けられた話です。すでに死んでいる人間を滅ぼすことはできません。神様は私達を死から贖い出し、助けることしかできないのです。そのため、どんな時も御手を差し伸べ続けておられるのです。

『わたしに問わなかった者たちに、わたしは尋ねられ、わたしを捜さなかった者たちに、見つけられた。わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。』(旧約聖書 イザヤ書 65:1〜2)

   神様は、一日中御手を差し伸べて、私達の心のドアをノックしておられます。神様が人に対してできることはこれしかないからです。イエス様は、「たとえ全世界を手に入れても、永遠のいのちを損じたら何になるのか」と言って、御手を差し伸べ続けておられます。

『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:17〜18)

   イエス様は、人をさばくためではなく、救うために来られました。「すでにさばかれている」とは、すでに死んでいるということです。死んでいる者はこれ以上再びさばかれることはなく、ただ救われる道が残されているだけなのです。
   これらの話がわかると、神が人をさばくなどということはありえず、聖書はすべて神が人を助けようとしている話だと分かります。神のさばきという誤った考えを正すために、イエス様ご自身がこの地上に来られ、人々を救うために十字架にかかりました。イエス様は、誰をもさばかず、むしろ「私はあなた方を招くために来た」と言われました。そして十字架にかかってよみがえり、私を信じるならば、あなたも生きるようになるのだと見せてくださいました。
   神様が私達を罰することなどありません。神様は怖い方でも、私達をさばく方でもありません。神様が私達になさることは、ただ助けることだけです。このことがわかると神と人との関わり方が見えてきます。人はただ神様に助けを乞えばいいだけの関係なのです。

神の呼びかけに応答するものは生きる

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24〜25)

   私達はこの地上で、死の恐怖を抱え、見えるものに安心と安全を求めています。しかし、それを手に入れた瞬間は安心できても、やがて、何を手にしても結局むなしいことに気づきます。それは、神様があなたの心の戸を叩き続けておられるからです。私達は生まれがらに神との結びつきがないので、神の声を耳で聞くことはできませんが、安心な部屋の中にいても一日中ドアを叩き続けられたら不安になるのと同じで、神様が心の戸をたたき続けるとき、ふとむなしく不安を感じるのです。
   神様は、「そんなものにしがみついても何もならない。自分の現状に気づきなさい」と、あなたの心の戸をたたき続けておられます。見える状況は幸せでも、なぜか心にむなしさを感じるのは、神様が「このままでいいのか」と、あなたの心の戸を叩き続けておられるからです。その音に耳を傾け、自分の現状を知るならば、神にあわれみを乞う選択ができるようになります。自分は死ぬしかない存在なのだと気づいて、「神様、助けてください」と応答するなら、死人が生きるようになるのです。

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人のほうが、前の人よりも、義と認められ、家に帰って行きました。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 18:9〜14)

   この世では、人からほめられようとして、何ができるかを誇るものです。ですから、神との関係も無意識にそのようなものだと思い込み、何かできたら神様にほめてもらえると思いがちです。しかし、神と人との関係はそうではありません。取税人のようにただ助けを求めるだけで良いのです。どのような者であろうと、神様に心を向け、魂が叫ぶ時、その人は神様に捕らえられ、義とされ、救われます。神に接木され、関係が回復するのです。

『それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 19:1〜10)

   この場面でザアカイは、「イエス・キリストを信じる」と告白していませんが、イエス様はザアカイの救いを宣言しておられます。むなしさに満ちていたザアカイの魂は、無意識に神に助けを求めており、イエス様の言葉を聞いた時、彼は急いで木から降りてきました。人は、自分でも意識しないうちに、魂が叫んでいる場合があります。ザアカイの魂は、神のことばに応答しました。人は、告白した時ではなく、魂が応答した時に救われ、イエス様を知る信仰をいただき、告白することによって救われた自覚を持つに至るのです。

頑張らなくていい

   神様は常に私達に御手を差し伸べ続けてくださっています。神様と私達の関わりは、常に「助けてください」でよいのです。その関係はいつまでも変わることがありません。どこまで行っても、神様は医者であり、私達は助けてもらうしかない病人です。
   このことがわかると、私達はどのように信じていけばよいのか、信仰のありようが見えてきます。立派なクリスチャンになろうと、頑張る必要はありません。怖かったら怖い、つらかったらつらいと正直に話してよいのです。問題にぶつかった時、死を目前にした時、自分の内にある不安や恐れを隠したり、背伸びしたりする必要はありません。私達はこの世で死の恐怖の奴隷として生きているのですから、死を恐れるのは当然のことであり、隠す必要はありません。イエス様はそのことを教えるため、十字架にかかる直前、3人の弟子達にご自分が祈る姿をお見せになりました。そこには、普段のイエス様とは全く違う、恐れ悶えて、必死に神様にあわれみを乞う姿がありました。それは、こういう生き方をしなさいと信仰のありようを教えるイエス様からのメッセージです。

『父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。』(新約聖書 ルカの福音書 22:42〜45)

   イエス様が、このように祈る姿を弟子達にお見せになったのは、自分の正直な気持ちを神の前に祈ることが信仰だということを教えるためです。自分の気持ちを偽って、平安なふりをしなくて良いのです。私達は確かに神様から平安をいただくことができますが、その前提は、あくまでも神様にあわれみを乞う関係があってのことです。つらい時に背伸びする必要はありません。それが信仰です。
   自分の弱さ、みじめさ、現状に気づけば気づくほど、神なしでは生きられない自分、神様から離れられない自分に気づきます。神様に対して正直に自分の気持ちを言い表し、正直に助けを求める姿勢をイエス様が率先して見せておられるのです。神を信じて生きるとは、ありのままで生きられるということです。これが、神様が教える自由です。これまで、人からの信頼を得るために、自分を偽って、立派な自分を見せなければならなかった生き方から、ありのままで生きていくように神様は教えておられます。
   私達は死ぬしかないという自分の現状がわかると、神様と私達の正しい関わり方が見えてきます。救われた次のステップは、努力して立派なクリスチャンを目指すことではありません。神様は、どこまでも私達を助けようと手を差し伸べておられます。救われるとは、神様の前に正直に助けを求めることができるようになるということです。神様はそれを待っておられます。