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2016年12月18日
イエス様がくれたプレゼント

『人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)』(新約聖書 へブル人への手紙 2:15)

   まことのいのちとは、永遠のいのちのことです。全世界を手に入れても、自分が滅びてしまったら、何の意味もありません。永遠のいのちは、すべてのものにまさります。このまことのいのちこそ、イエス・キリストが下さったプレゼントです。
   私達は色々なことにエネルギーを使っています。しかし、一番大切なことにエネルギーを使っていません。あなたにとって一番大切なもの、それは永遠のいのちであると聖書は教えています。

   アメリカのある女子大生が、自分の母親に次のような手紙を送りました。
   「お母さんへ
   4か月ぶりに手紙を送ります。しばらく手紙が書けなかった理由ですが、実は、脳の手術を受けることになりました。それは、大学の寮が火事になった時、4階から飛び降りて、頭を強く打ち、脳挫傷を起こしたからです。運良く、寮の向かいのガソリンスタンドで働いている青年が、すぐに救急車を呼んでくれたので、一命を取り留めることができました。実はその青年のことですが、親切にも毎日見舞いに来てくれて、退院した後も住むところがなかったので、私を彼のアパートに住まわせてくれました。実は、私は今妊娠中で、彼と結婚しようと思っています。すぐに結婚する予定でしたが、血液検査をしたところ、彼が引っかかってしまったのです。エイズかもしれません。では、また手紙を書きます。」
   この手紙を読んだ母親は、大変ショックを受けたことでしょう。ところが、この手紙には、次のような追伸があったのです。
   「追伸;脳の手術の話も、火事の話も、妊娠の話も、結婚の話もすべて嘘です。しかし、先日の国語と歴史の期末試験にしくじってしまったことは本当です。先にいろいろなことを書いたのは、この出来事の重要性を正しく判断してもらうためなのです。」
   娘が手紙に書いてきたことはすべて嘘で、実は、ただ試験に落ちたという報告だったのです。しかし、この追伸を読んだお母さんは、ほっと安堵し、「試験に落ちたことなんかどうでもいい。娘が無事であることのほうがずっと嬉しい。」と心から思ったということです。
   是非はともかく、この手紙は、何が大切かということを、お母さんにもう一度思い起こさせました。私達も同様に、実はどうでもいいことで普段悩んでいるのではないでしょうか。親は子どもに何かあった時、ただ助かってくれればいいと思うものです。この「助かること」こそ、最も大切なこと、つまり、永遠のいのちこそ一番大切なものなのです。これこそが、イエス様が私達にくださった最高のプレゼントです。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:16)

   この最高のプレゼントを受け取る方法は、実に簡単です。ただ、イエス・キリストを信じるなら、その人の行いやがんばりに関係なく、永遠のいのちが与えられるのです。誰であれ、求めるなら、永遠のいのちが与えられます。このいのちを受け取れば、たとえいつ召されようとも、安心して生きていくことができます。

永遠のいのちの素晴らしさ

『その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:3)

   永遠のいのちをいただくとは、神様からイエス・キリストを知る信仰をいただいたということです。永遠のいのちは、ただ受け取っておしまいというものではなく、受け取った後、一人一人育てて大きくしていくことができるという素晴らしさがあります。
   人は、肉体と魂とを持っています。肉体の五感によって、私達はこの世の情報を受け取ることができます。しかし、肉体は御霊の思いを伝えることはできません。
   私達は、イエス・キリストを信じる信仰をいただいた時、目には見えませんが、御霊の体をいただきました。この御霊の体を通して、魂は御霊の思いを知り、イエス・キリストを知ることができるようになります。これが信仰です。ですから、永遠のいのちが与えられるとは、朽ちない御霊の体が与えられることであり、これによって、御霊の思いを知ることができるようになるのです。
   永遠のいのちは、死んだら天国に行けるようになるという単純な側面の他に、そのいのちを大切に育てるなら、イエス様をますます知ることができるようになるものなのです。そして、イエス様を深く知ることによって、あなた自身に次のような変化が生じます。

1.人を愛せるようになる

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9)

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。……神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18〜21)

   永遠のいのちが与えられ、神の愛を知ると、人を愛せるようになります。これが第一の変化です。
   私達は、人を愛せないとつらく感じます。それが、イエス・キリストを知ることで、人を愛せるように変わっていくのです。なぜなら、私達が人を憎んだり、愛せなかったりすることの底辺にあるのは、死の恐怖だからです。神の愛を知ることによって、その恐れが締め出されるのです。
   死の恐怖の大半を占めるのは、自分が愛されていないという不安です。その不安は恐れとなって私達を支配し、どうすれば愛されるかと必死になります。しかし、期待したように愛してもらえなかったり、尽くしても答えてもらえなかったりすると、かえって腹が立ち、怒りを感じるようになります。つまり、私達が人に尽くす行為は、自分が愛されるための見返りを求めた行為であって、本当に人を愛しているわけではないと聖書は教えています。
   愛したいと願っているのに、愛されたいという不安と恐れのほうが勝り、結局は人を愛せないつらさを抱えてしまうのです。しかし、イエス・キリストを知り、自分が愛されていることを知れば知るほど、愛されようとする必要がなくなり、愛されないという恐れから解放されて、人を愛せるように変わります。別の言い方をすれば、イエス様を知れば知るほど、自分がどんなに罪深い人間であっても、まったく関係なく愛してくださるイエス様の愛に気づき、人の罪を見てもさばかないように変わるのです。人は、自分が赦されていることを知ると、人を赦せるようになるのです。

2.希望を持つことができるようになる

『私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。 ……それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちをもイエスとともによみがえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:8〜14)

   イエス・キリストを知れば知るほど、イエス様に起きたことが自分にも起きるのだと信じられるようになります。キリストは迫害され、苦しめられ、最後には十字架で殺されましたが、3日後によみがえりました。これらのことが自分にも起きると信じられるようになるということは、何があっても自分も倒れない、困難にぶつかっても必ず助けられるという信仰を持つことができるようになるということです。私達に与えられた永遠のいのちが、一人一人にこのような信仰を抱かせてくれるようになるのです。
   アメリカ大統領であったアブラハム・リンカーンは、黒人を奴隷から解放することを目指し、これが南北戦争という戦いに発展しました。戦いは当初、リンカーンが率いる黒人解放を目指す北軍が劣勢でした。しかし、リンカーンが祈りの日を定め、全国民に祈りを呼びかけた日から戦局が一転し、最終的に北軍が勝利し、黒人は自由を得ることができました。
   イエス・キリストを知るということは、神が自分を励ましてくれていると知ることです。この励ましによって、信じ続けることができるようになるのです。リンカーン自身も、このことを証ししています。
   神は、私達のいろいろな問題を解決し、勝利に導いてくださいます。それを知ることで、私達は、さらにその先に希望を持つことができるようになり、あきらめない力が生まれます。

3.自分や他の人の真実な姿が見えるようになる

   真実が見えるようになると、平安になります。今、私達に見えている互いの姿は、真実ではありません。それは、ぼんやりと鏡に映る姿を見ているようなものだと聖書は語っています。しかし、イエス・キリストを知るならば、真実な姿が見えるようになり、それが私達に素晴らしい平安をもたらすのです。

『しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙 3:16〜18)

   イエス・キリストを知ることによって、自分の真実な姿はキリストに似た者であると知ることができます。そして、さらにキリストに似た者に変えられていく自分が見えるようになっていくのです。
   私達は皆、神に似せて造られ、神と同じいのちが与えられて造られた存在だと、聖書は教えています。ところが、悪魔によって、神とのこの関係が壊されてしまいました。
   人が神との関係を失うことを死と言います。死によって、体は生きられなくなり、朽ちる体になったのです。今日の私達の体は死の体です。本来の姿を失ってしまっているのです。
   本来の姿を失っていることを、障がいと呼びます。この世界では、うわべを見て、障がい者と健常者とを分けますが、これは間違った分け方です。神の目には、全ての人が本来の姿を失った障がい者です。しかし、魂は完全であり、誰もが皆すばらしいいのちを持っているのです。
   このいのちを支える体が神との結びつきを失い、朽ちるものとなった時から、人間は死の恐怖の中に生きるようになりました。自分は何者か、ダメな者ではないのか、愛されず、必要とされていない存在ではないのかと悩むのはそのためです。
   しかし、イエス・キリストを知ると、本当の自分の姿に気づきます。私達は、永遠のいのちをいただき、御霊のからだを着せられ、この世で使う見える体ではない本当の体を取り戻しました。この体は、永遠のいのちをいただいた時から、日々新しく成長して、キリストに似た者に変えられていきます。

『ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:16)

   自分の真実な姿に気づくと、私達は、互いに尊敬し合うようになります。これまで、互いのうわべを比べ合い、差別したり、同情したりしてきたものが、神の目から見た本当の美しさに気づき、私達の真実な姿は、互いにすばらしい者だと気づくのです。こうして、すべての人は高価で尊いという神のことばが理解できるようになります。
   今私達が互いに見ている姿は、本当の姿を表していません。それなのに、うわべを見て一喜一憂し、さばいたり、怒りを覚えたり、敵対心を持ったりしている私達に、イエス様はうわべにだまされるなと教えています。イエス・キリストを知れば知るほど、人間の真実な姿が見えるようになり、うわべで判断することが過ちだと気づくようになるのです。こうして私達自身がキリストに似た者に成長し、見えないものこそ本物だと気づくのです。

『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:18)

   私達の目がイエス・キリストに向くなら、互いの真実な姿に気づき、誰であれ、互いに尊敬し、真の意味で思いやり、互いを必要とするようになります。この平安を聖書は教えているのです。
   きむらゆういちという人が書いた「あらしのよるに」という絵本があります。嵐の夜、小屋の中に避難してきたやぎとおおかみが、お互いの姿が見えないために、お互いを理解し合うことができ、友情をはぐくむ物語です。
   私達が互いに愛し合えないのは、お互いのうわべを見るからです。しかし、神様は一人一人に素晴らしいいのちを与え、お互いに必要とし合い、愛し合うように造られました。永遠のいのちが与えられると、見えるものは一時的であり、本当の姿はそうではないと気づき、見えるものにしばられなくなります。そうして、真の意味で人を愛せるようになり、永遠なるものに本当の希望を見出し、本当の真実を喜ぶようになるのです。これを聖書は、神の国を見るようになると言っています。これこそが私達の真の喜びになり、私達に安息を与えてくれるのです。
   永遠のいのちとは、ただ死んだら天国に行けるというものではなく、真の喜びと平安をもたらすいのちです。このいのちをイエス・キリストは二千年前に持ってきてくださいました。これが、イエス様が救い主と呼ばれるゆえんです。私達を肉体の死から救ってくださっただけでなく、人を愛せないという真の悪、真の苦しみから解放し、救ってくださったのです。