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2016年11月20日
心の覆い

『しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。 』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:14〜15)

   「モーセの書」とは聖書のことです。聖書は私達にどのように生きればよいか、どのように人とつき合っていけばよいかを教えてくれていますが、ただ聖書を読んでも、私達の心には覆いがかかっているため、よくわからないまま誤った生き方をしてしまいます。
   その心の覆いとは何か、どのように取り除けばよいのかを知ることによって、どのように生きればよいか、どのように人と接すればよいのかという答えが見えてくるようになります。

心の覆いとは

『しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:16〜18)

   覆いが取り除けられると、私達は神の栄光を表した姿で栄光から栄光へと変えられていくのに対して、心に覆いがかかっていると、自分が神の栄光を表しているとは思えず、自分はダメな者だと思ってしまいます。つまり、自分はダメなものであり、ダメな自分が良くなるのだという考え方こそが、心の覆いなのです。この覆いを取り除けない限り、聖書が教える、良い者から良い者に変えられていく自分が見えるようにはなりません。
   人は良きものだという根拠は、人は神に似せて造られた神の作品だからです。しかし、表面に泥がついて汚れてしまい、良きものの姿が見えなくなってしまいました。そこで神様は、私達についた泥を落として、良きものの姿が見えるようにしようとしておられるのです。
   この社会の前提は、×を○にすることです。私達は、人を○か×かでとらえ、×を○に変えることが良いことだと思い込んでいます。ですから、多くの親は、子どもが間違ったことをすると、お前はダメだと言って叱り、×を○に変えることが教育だと思っています。この考え方が根底にあるために、人との交わりにおいても、お互いに裁き合って×というレッテルを貼り、頑張って○になれということが、周りとの関わり方になっているのです。しかし、この「自分はダメな者だ」というレッテルは、自分自身を苦しめます。子どもは、親から、お前はダメだというレッテルを貼られても、親に愛されたいと思って、必死になって○を目指して生きるのですが、願うような○はなかなか手に入らず、常につらさを抱えています。
   「自分はダメな者だと思ってしまうこと」、これが心の覆いです。この覆いが今日に至るまで残っているために、私達は聖書に書いてあることがわからないのです。

   ある時、イエス様は放蕩息子のたとえをお話になりました。
   ある人に、二人の息子がいましたが、ある日弟息子が自分の分の財産の分け前がほしいと父親に申し出ます。父親は息子が何に使うかわかっていましたが、申し出のとおり、彼に財産を渡しました。すると息子は、分け与えられた財産を湯水のように使い、あっという間に無一文になってしまいました。食べるものにも困り、豚のえさで腹を満たしたいほどになった時、彼は自分の父の家を思い出しました。父の家では、使用人に至るまで皆満ち足りて豊かに暮らしていることを思い出した彼は、ついに家に帰ることを決意します。自分は大変な罪を犯し、とても父に顔向けできる立場ではないが、たとえどんな罰を受けたとしても、父の家で使用人の一人として働かせてもらえれば幸せだと心から思ったのです。ゼロからやり直す決心で家に向かうと、父は遠くから息子の歩いてくるのを見つけ、彼に走り寄って抱きしめました。息子は、自分は罰を受けて当然だと申し出ますが、父親は一言もその言葉に反応しないで、ただ「よく帰ってきた」と喜び、きれいな着物に着替えさせ、指輪をはめて、大宴会を開いたという話です。
   この世の物差しではこの弟はダメ息子です。実際、このたとえ話の続きには、なぜこんな弟に宴会を開くのだと、怒り心頭のお兄さんが登場しますが、これが私達の通常の感覚です。人の行いを見て、ダメなやつか、いいやつかとレッテルを貼り、少しでも行ないを良くすることが教育だと思っていますが、これは教育ではありません。このような教育はやがて行き詰ります。なぜなら私達はダメな者ではないからです。
   イエス様は、この話を通して、あなたは何をしても良きものであり、あなたが神のもとに立ち返ることを、神様がどれほど喜んでおられるかを教えておられます。神様は私達の見方とはまったく違う見方を持ち、私達の本当の価値を知っておられます。神様は私達をご自分に似せて造られましたから、私達に栄光の神と同じ価値を見ておられるのです。私達は、自分はダメな者だという覆いを持っているのですが、神様の中には、ダメな者を良くするという考え方はまったくなく、本気で栄光から栄光に変えられるのだと考えておられます。
『主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと主と同じ形に変えられていく』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:18)とは、×から○ではなく、○から○に変えられていくことです。これが私達に見えるようになれば幸いです。
   ×を○に変えようとするつきあい方をすると、人間関係に亀裂が生じます。人から裁かれて気分のいい人はいません。×だから○を目指して、がんばれがんばれと言われ続けると落ち込みます。しかし、あなたが何をしようとも愛されることがわかれば、なんと心地よい関係が築けることでしょうか。神様はそういう関係を築きたいと願っておられるのです。ところが、自分はダメだという覆いがかかっているために、私達は、自分は神様に本当に愛されているのか、自分は本当に天国に行けるのだろうか。イエスを信じたけどこんな行いで大丈夫かと不安に思うのです。それは間違いです。神様はそのように見ておられないのですから、この覆いが取り除けられないと神の愛がまったく見えてきません。
   聖書は神に心を向けることによって、この覆いが取り除けられると教えます。心を神に向けることで、間違ったセルフイメージが変えられていくのです。

心を神に向けるとは

1.神にあわれみを乞う

   心を神に向けるとは、本来、神にあわれみを乞うという意味です。
   旧約聖書のヨブ記は、想像を絶する患難に出会ったヨブが神の真理に導かれる話ですが、当初ヨブの3人の友達は、ヨブが罪を犯し、神を信頼しなかったために患難に出会ったに違いないと言って、ヨブを悔い改めに導こうとします。この言葉は大変聞こえが良く、私達もよくこのように考えてしまうものですが、そこにいたもう一人の友人が、何をしたかが問題なのではなく、ヨブが神に文句を言うこと自体が間違っているのだと指摘し、ここから神様ご自身がヨブに語りかけ始められます。こうしてヨブは砕かれ、神様に助けとあわれみを求めて祈りました。このように、神に助けを求め、あわれみを乞うことこそ、神様が求めていた答えだったのです。神様は、3人の友人が語ったことは間違いであると語りました。
   私達は、神を愛せよとか、信頼せよとか言われてもできません。私達にできることは、罪深い自分を知り、神様に「助けてください、あわれんでください」と祈ることだけです。これが、神に心を向けるということです。
   このことを私達に実践させてようとして、神様は「罪を言い表してごらんなさい」と教えておられます。罪を言い表すと、あなたの覆いが取り除けられるのです。放蕩息子は、罰を受けることを覚悟してお父さんに罪を告白しました。その時、彼の覆いは取り除けられました。お父さんは罰を与えたりせず、かえって彼を祝福し、このことによって、彼は自分が愛されていることを受け入れることができたのです。彼は、自分はダメな者であり、罪深い自分が愛されるなどということは考えていませんでした。しかし、自分の罪深さを思い知り、それを告白することを通して、彼の心の覆いが取り除けられたのです。
   神様は、私達のすべての罪を赦してくださいます。それが、あなたの心に平安となるのです。自分の罪を知り、神にあわれみを乞うなら、自分はダメな者ではないことに気づきます。あなたが神にあわれみを乞う時、あなたを苦しめる自分はダメな者だという眼鏡は取り除けられるのです。

2.何でもいいから求めてみる

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』(新約聖書 マタイの福音書 7:7)

   心を神に向けるとは、神に求めることです。神様は、とにかくなんでも祈って求めるように教えておられます。それは、祈れば必ず神様は助けてくださり、神様があなたを愛しておられることがわかるようになるからです。これが聖書の大切な教えの一つです。このことによって、私達の覆いが取り除けられていくのです。祈ってもかなえられないだろう、自分は愛されるはずがないと思って、求めることをあきらめる人が大勢います。でも、そんな時、神様は、あきらめないで求め続けなさいと教えておられます。
   シェトラーというアメリカ人の宣教師は、小さな田舎町で生まれ、自分は女だし、何もできることなどないだろうと、劣等感を抱えて生きていました。しかし、クリスチャンになって、こんな自分にできることはないだろうかと祈っていると、聖書を翻訳して世界に届けたいという願いがわいてきました。世界には、3000〜4000もの言語があり、小さな未開の部族にも福音を届けるためには、その部族の中に入って言葉を学び、聖書を翻訳する必要があったのです。
   シェトラーはもう一人の女性と共に、フィリピンの当時まだ首狩りの風習が残っている部族に入り込みました。彼らは白人の女性を見るのも初めてで、二人は様々な迫害に遭いました。それでも祈っていくと、不思議なことが起こり始めました。ある日村長の夢の中に神様が現れ、なぜ神を信じないのか、なぜ二人を迫害するのかと語られたと言うのです。村長はその日から熱心に御言葉を聞くようになり、ついに救われてクリスチャンになりました。さらに次から次へと人が救われ、その村から他の村に福音を伝えに行く宣教師まで生まれました。
   シェトラー宣教師は、自分はダメな者だと思っていたが、それは間違いだったと語ります。祈ることによって、シェトラーは、自分の力ではできなくても、自分にはいつもイエス様が共にいて助けてくださることを体験しました。こうして、神様の素晴らしさを知り、自分がこの神様の一部であるということは、自分は素晴らしい存在であり、栄光から栄光へと変えられるということがわかるようになったのです。

   神様に祈って求めるなら、神様は御心によって、私達のすることを助け、時には止めてくださいます。それを経験すると、自分は×ではなくて、愛されていることに気づきます。心を神に向けるとは、「とにかく祈ってごらん」というメッセージです。あなたが祈るなら、あなたの抱えている問題に対しても神様が働いて解決してくださいます。このことを経験すると、あなたの心の覆いは取り除けられて、自分は愛されないダメな者などではなかったことに気づきます。

3.神が造られた者を見よ

   主に心を向けるということは、神が造った被造物を見るということです。

『空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。』(新約聖書 マタイの福音書 6:26)

   空の鳥を見てダメなやつだと思う人はいません。雄大な自然を見たり、その美しさ、素晴らしさに心を留める時、あるいは、様々な動物を見て、面白いな、素晴らしいなと思う時、これらを造り養っている神様というお方は、なんと素晴らしい方なのかを知ることができます。
   神様は、あなたがたは鳥よりももっと素晴らしい者だと言われます。神様が私達に被造物に心を留めるように語っておられるのは、あなたはダメな者ではなく良い者であることを教えるためです。

『二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。』(新約聖書 マタイの福音書 10:29〜30)

   小さな雀でさえも、神は愛してやみません。雀に対してもこれだけ配慮する神様は、あなたの髪の毛の数まで知っておられます。自分でもわからないのに、神にはわかるのです。その神の目からすると、私達は素晴らしい者であり、良きものです。このことを知り、自分をダメな者だと思っていた覆いが取り除けられると、人のことがダメに見えなくなります。子どもがダメな子に見えなくなり、素晴らしい存在だと思えるようになります。子どもというものは、悪い子だと思うと悪い方向に行くものです。しかし、すべての子ども、すべての人は神の作品であり、良い者です。あなたの心の覆いを取り除け、真実な姿に気づくことが必要です。人は皆、○から○へと変わっていく、そのことがわかると人を裁かなくなり、正しい教育になり、正しい人との付き合い方ができるようになるのです。ですから聖書は、互いに裁き合うのはやめなさいと教えているのです。
   私達が人を裁くのは、自分をダメだと思っているからです。自分が愛されている良きものだと気づき、×のものを○に変えるのだという考え方をやめれば、私達は人を愛せるようになるのです。
   愛されていることに気づく方法、それは、神の前に自分の罪を言い表すことです。自分は×だと思い込ませているあなたの罪を神様の前に差し出すなら、神様は、そんなものであなたを×にすることはできないと教えてくださいます。
   心の覆いを取り除くなら、神のことばが見えてくるようになります。あなたは神に愛されている、必ず天国に行けるから心配する必要はない、信じる者は永遠のいのちを持っているから何も心配はいらない、神の愛を受け取なさいと聖書は教えています。
   しかし、心の覆いによって、神様の愛が見えなくなり、こんな自分は愛されないと思って神様の愛を拒否してしまいます。もしあなたが神様のことがよくわからないと思うなら、それはあなたの心に覆いがかかっているせいです。神様はその覆いを取り除けたいと願っておられます。それが取り除けられると、神様が見えるようになり、いつもイエス様がいることに感謝できるようになり、人にも子どもにも真の愛を持って接することができるようになります。