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2016年11月6日
そもそも愛とは何なのか 〜聖書が教える愛とは〜

■神を信頼し、神の言葉で生きていく

『それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:12〜13)

   私達は、愛というと、相手に優しくすることや寛容、親切な行いなどを思い浮かべるものです。ところが、聖書は、これらを愛とは教えません。なぜなら、この御言葉は、次のように続くからです。

『そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』(新約聖書 コロサイ人への手紙 3:14〜15)

   聖書は、優しさや良い行いなどの上に、「愛を着けるように」と教えています。その愛とは、キリストの平和が私達の心を支配するようになることです。いったいどういうことでしょうか。
   たとえば、国と国とが平和を結ぶ場合は、まず平和条約を結び、国交を回復します。しかし、それだけでは平和が訪れたとは言えません。国民同士が互いに交流を図り、交わりによって一人一人が平和を享受することによって初めて平和を実感するのです。
   神との交わりも、それと同様であると言えます。それは、イエス・キリストを信じ、神との関係が回復するところから始まります。これが救いです。救われたことによって、神との平和を得ますが、この平和が心を支配するには、神と共に生きる関係を築き上げなければなりません。つまり、キリストの平和が心を支配するとは、神のことばを食べて、神のことばで満たされていくことです。これが、行いの上に着けるように、聖書が教えている愛です。愛とは、神を信頼し、神のことばで平安を手にすることなのです。

■人の言葉によって生きるようになった私達の問題

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)

   イエス様は人が生きるためには、二つの食事が必要だと教えています。体を生かすための食事と心に必要な食事です。私達の心は、神のいのちによって造られたので、もともとは、神のことばを食べると心が平安になるように造られています。ところが、悪魔がアダムとエバをだまして神と人との関係を壊し、人は神との関わりを失ったために、神のことばを食べることができなくなりました。そこで、代わりに人のことばを食べて心を満たそうとするようになりました。それしか生きるすべがなかったからです。これが今日の私達の生き方です。
   人から、平安を得られるような良いことばを引き出すためには、相手の期待に応えなければなりません。私達は、生きていくために、常に何をすべきかアンテナを張り、努力するようになりました。このように「〜ねばならない」という思いにしばられることを、聖書は律法と呼んでいます。イエス様は、それを、人から良く思われたいという「この世の心づかい」だと説明しておられます。
   良いことばを手に入れるために一生懸命努力しているからこそ、私達は、バカにされると落ち込み、ほめられるとうれしくなるのです。しかし、人のことばを心の食事とすることには、実は大きな問題点があります。それは、努力しても期待通りのことばが手に入るとは限らないということです。家庭でも、職場でも、一生懸命努力しても、期待に応えることができず、期待した言葉が食べられないという事態がよく起こるのです。
   そうすると、怒りや嫉妬が生じ、人との関係が壊れて、争いが生じたり、憎しみが生じたりします。聖書は、神との関わりを失うことそのものが死であり、人類に死が入り込んだことにより律法が生まれ、この律法が怒りを招くのだと教えています。「こんなに尽くしたのに」「こんなに頑張ったのに」と怒りや憎しみを感じる時、その原因は、結局、欲していた言葉が食べられず、心が満たされなかったことにあるのです。
   このように、私達の苦しみや問題の原因を一つ一つ丁寧に探っていくと、すべて人のことばを食べようとしていたところに行きつきます。神の言葉を食べられないため、心の空腹を満たすには人の言葉を食べるしかなかった私達ですが、結局それが自分自身を苦しめている原因になっているのです。
   このような人の問題を解決するために、神様は私達に聖書を与えてくださいました。

■御霊に属するクリスチャンと肉に属するクリスチャン

『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:1)

   聖書は、クリスチャンを、御霊に属するクリスチャンと、肉に属するクリスチャンの二つに分類しています。御霊に属するクリスチャンとは、神の言葉を第一にし、神の言葉を心の糧としているクリスチャンです。肉に属するクリスチャンとは、神様との関係を回復しても、人の言葉で心を満たそうとし、人の言葉を食べて生きるクリスチャンです。国交を回復しても、平和が浸透していない状態です。このようなクリスチャンが大勢いるのです。人の言葉で心を満たそうとするクリスチャンは幼子と呼ばれています。あなたは今、自分にどのような言葉を食べさせているでしょうか。

『私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:2)

   乳とは人の慰めや同情です。神様は、私達がそれしか食べられないから、それを与えたと言われます。人の言葉を食べて生きてきた私達は、神の価値観が理解できず、神の言葉をなかなか受け入れられないために、聖書は神の言葉のことを堅い食物と言っています。
   人間は、神との関わりを失い、神と異なる思いを持つようになりました。これが罪です。悪い行いも罪ですが、それは肉の行いと呼ばれます。そのような神に逆らった行動をしてしまうのは神と異なる思いを持っているからであり、問題は、神と異なる思いを持っていることにあると聖書は教えています。人は生まれながらに神との関わりを失っており、すべての人が神と異なる思いを持つ罪人です。
   神と異なる思いを持っているために、神様が「私はあなたを愛している」と言っても信じられず、「あなたを無条件で赦す」と言っても、「イエス・キリストを信じれば天国に行く」と言っても、「神が人を造った」と言っても信じられないのです。私達の中にある神と異なる思い、神と異なる価値観が、神の言葉を拒否させてしまうのです。ですから、神の言葉は人にとっては堅い食物です。しかし、人の言葉は、私達と同じ価値観にあるから、なめらかで心地よく、すぐに受け入れます。神様は、あなたがたは神の言葉を食べられないから、仕方なく乳を与えたのだと言われます。

『あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:3)

   自分が、神の言葉で平安を得て生きているのか、人の言葉を糧にしているのかを判断する基準は簡単です。人に腹を立てたり、ねたんだりするなら、人の言葉を食べているということであり、それは、神との関係を回復していない人と同じ生き方だと言われています。せっかく、イエス・キリストとの関係を回復してクリスチャンになったのですから、そのような生き方をしてはいけないのです。

『ある人が、「私はパウロにつく。」と言えば、別の人は、「私はアポロに。」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:4)

   この当時、コリントの教会は、分裂という問題を抱えていました。その原因は、人の言葉で心を満たそうとしていることにあります。現代にいたるまで、教会の分裂の原因は同じです。○○先生のメッセージのほうが面白い、○○先生のほうが良いと、人を比較し、批判するのは、神との関係を回復してない生き方です。人の言葉ではなく、神の言葉で心を満たさなければなりません。私達を成長させるのは神なのだから神の言葉を食べなさいと、このメッセージは続きます。
   神様は、私達がもう一度、本来の食事である神の言葉を食べて満たされ、キリストの平和が心を支配するように導いておられます。神の言葉を食べ、御霊に属して生きること、それが、神を信頼し、神のことばで平安を手にするという愛なのです。
   人の言葉で自分を満足させて生きようとすることが、いかに愚かなことか、パウロは、このことを建物に置き換えて説明しています。

■私達は神の建物である

『私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。与えられた神の恵みによって、私は賢い建築家のように、土台を据えました。そして、ほかの人がその上に家を建てています。しかし、どのように建てるかについてはそれぞれが注意しなければなりません。というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:9〜11)

   建物には土台の基礎があります。救われて、神との関係を回復した者の基礎は、イエス・キリストご自身です。ですから、その上の建物は、当然神の言葉で建てなければなりません。ところが、多くの人がこれまでの生き方を変えようとしないで、人から良く思われることに気を使い、人から称賛される人間になろうと生きています。つまり、人の言葉を食べ、人の言葉で自分を建てあげようとしているのです。そんなものをキリストの土台の上には建てても何の意味もありません。

『もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:12〜15)

   「金、銀、宝石、木、草、わら」とは、人からの評価です。私達は、金や銀の評価を欲しているのですが、もし、がんばってもそれが得られない時は、悪い評価でもいいから人の言葉を求めます。たとえどんな言葉でも食べなければ生きていけないからです。そこで、わざわざ非難されるような行いをする人もいます。いずれにしても、人の関心を引いて、人の言葉を食べて生きています。
   しかし、聖書は、人の言葉で建物を建てても、それらはすべて消え去ってしまうと教えています。それは、どんなに苦労して名声を手に入れても、あなたが死を迎える時、それを天国に持っていくことはできないということです。イエス・キリストという土台は残りますから、あなた自身は天国に行きます。しかし、神様は、この地上での貴重な時間とお金を残らないものに費やすのではなく、永遠に残る神の言葉であなた自身を建てあげてほしいと願っておられます。それは、神の言葉を食べて、平安を建てあげるということです。これが神を愛するということであり、聖書が教える愛なのです。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:16〜17)

   イエス・キリストを信じて救われた人は、その人のうちに神が住んでおられるのですから、すでに神の神殿です。人の言葉で神の神殿を建てあげようとする行為は、その神殿を壊す行為です。神の言葉で平安を築かなければならないのです。神の神殿に人の言葉を持ち込んで平安を得ようとしてはいけません。

■聖書が教える愛

『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:1〜3)

   愛は行いではありません。どんなに立派な奉仕も、たとえ自分の命を差し出したとしても、それだけでは愛とは言えないのです。神の言葉を食べ、それによって神への信頼と平安を築くのでなければ、愛ではありません。

『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 13:4〜7)

   ここだけを読むと、愛が行いであるかのように思えますが、そうではありません。
<    「自分の利益を求めない」とは、人の賞賛を求めないということです。どんな行いも、見返りを求めてはいけません。私達は、人の言葉を食べて見返りを求めているために、怒ったり、人の悪を裁いたりする思いが生じるのです。それは愛ではありません。
   聖書が「不正」と語るのは、神における不正であり、それは、人の言葉を食べて満足し、神の言葉を食べないことです。神様は、私達に真理を喜べと教えておられます。つまり、見返りを求めて喜ぶ生き方は不正であり、神の言葉を食べることが愛なのです。
   また、「すべてを我慢し」とは、原語では、「覆って守る」という意味があります。イエス様が私達の罪を覆ってくださるのだから、あなたもすべてを赦しなさい、それが愛であると教えておられるのです。人の言葉を食べずに、神の言葉を信じて期待して生きていきなさい。
   「耐え忍ぶ」とは、逃げ出さないでとどまるという意味です。人間はつらい出来事があると、お酒を飲んだり、愚痴をこぼして慰めてもらおうとしたり、好きなことに心を向けて、つらいことを見ないようにしてしまうものです。しかし、楽しいことでごまかしたりしないで、逃げ出さずにつらさと向き合うと何が起きるというのでしょうか。それは、神なしでは生きられない自分の弱さが見えてくるのです。本当につらさと向き合うなら、人は「神様、助けてください」と叫ぶしかなくなります。その時、あなたは神の言葉が食べられるようになるのです。すると、人の言葉で心を満たすことなどできない、人の言葉など何の役にも立たない、神の言葉しか助けにならないことに本当に気づくのです。
   忍耐とは逃げないことです。逃げなければ、神の言葉が食べられるようになります。人が神の言葉を食べられない理由は、自分で逃げてしまうからです。患難から逃げ出さなければ、真に神の言葉が食べられるようになり、患難が希望を生み出し、あなたに平安が訪れると聖書は教えています。これが愛です。愛は神ご自身を指します。神様と一つ思いになることが愛です。神と一つになり、神の愛に満たされると、人の言葉で心を満たす必要がないので、見返りを求めなくなります。これが愛を着た行いの前提です。
   あなたは、神の平安を求めず、人の言葉を求めて、親切にしていないでしょうか。私たちがまず求めるべきは、神の言葉です。イエス様が教えられた戒めの第一は、「神を愛しなさい」であり、それは神の言葉を食べて平安を得ることです。第二の戒めは、そうすれば人を愛せるようになるということです。
   イエス様は、「神の国と神の義をまず第一に求めなさい」とも言われました。神の言葉で平安になることを求めて生きるために、旧約時代から神様が教えておられる最も大切な戒めは、礼拝です。礼拝を守って神の言葉を聞いていこうとしない限り、いつまでも人の言葉で自分を満たそうとし続け、苦しみから解放されません。
   礼拝の元来の意味は、心の中で神の存在を大きくしていくことです。神によって安息を得、神の言葉によって心を満たす喜びを味わうことで、真の愛の行いができるようになるのです。
   私達に必要なのは神の言葉であり、神の言葉が私達をいやしてくれます。神の国と神の義をまず第一に求め、何があっても礼拝を守り、しっかりと神の言葉を食べて、心に平安を得ましょう。これが、罪と戦う生き方です。「罪と戦う」とは、人の言葉で満足しようという思いと戦うことです。それこそ、聖書が教える愛なのです。