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2016年10月23日
思い煩い

   人は、さまざまな出来事を心配して思い煩うものです。ある精神科医が、思い煩いの内容を調査したところ、その40%は、核戦争や災害など、直面してはいない内容に対してであり、30%は、どうすることもできない過去に対するもの、12%が人から受けた批判、10%が自分の健康に関する問題、実際に直面する現実の問題についての思い煩いは8%だったそうです。
   では、これらの思い煩いに対して、聖書はどのように対応するように教えているのでしょうか。

1.ほとんど起こり得ない出来事に対して

『自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。』(新約聖書 マタイの福音書 6:25)

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』(新約聖書 マタイの福音書 6:33)

『だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。』(新約聖書 マタイの福音書 6:34)


   私達がどんなに思い煩っても、自分の命を延ばすことはできません。聖書は、神があなたを心配し、あなたを養ってくださるのだから、何も心配しなくてよいと教えています。いのちや生活について心配するのは、私達の仕事ではなく、神がなさることなのです。だから、何も心配する必要はなく、ただ、神にゆだねるように教えられています。
   南極で厳しい自然の中に住むエスキモーの生き方は、このことをよく表しています。彼らに年齢を聞くと、「もうすぐ一日」と答えるというのです。それは、極寒の地では、夜眠っている間に命を落とすことが珍しくなく、彼らにとって眠りは死を覚悟することだからです。朝目覚めることができたら、それは、新しい命をいただいたということなのです。イエス様も、農夫のたとえを用いて、何年分もの食料を詰め込んだ大きな倉を建てて安心している農夫がその日のうちに天に召されたとお語りになり、自分の命を心配するのは愚かなことだとお教えになりました。
   私達は、どんなに心配しても、先のことをどうすることもできません。それは、神のなさることです。神を信頼し、神にお任せして、平安を得ましょう。

2.どうすることもできない出来事に対して

   誰の人生にも、あの時こうしておけばよかったと後悔することがあるでしょう。しかし、聖書は、一貫して、過去を振り返るなと教えています。私達に大切なのは今であって、過去は一切関係ない、たとえあなたにどんな過去があったとしても、神様が清算したから、心配しないで前を向いて歩きなさいと、神様は教えて続けておられます。
   旧約聖書の創世記に、ロトという家族が登場します。当時、ロトが住んでいたソドムの町の人々は、神のことばに一切耳を貸さず、遊興にふけっていました。ロトはその中で神を信じて生きている唯一の家族だったのです。やがて、ソドムの町がまもなく火山の噴火で全滅することを知っておられた神様はロトに語りかけ、事前にロトの家族を助け出そうとなさいます。ロトを導く御使いは、脱出する時、決して後ろを振り向いてはいけないと命じました。ロトの家族は必死に後ろを見ないようにして脱出しましたが、ロトの妻だけは、町の暮らしを懐かしんだのでしょうか、後ろを振り返ってしまったのです。すると、彼女はその場で塩の柱になってしまったのでした。
   このことは、私達に、一つの教訓を与えています。もし、私達が過去に目を向け、後ろを振り向いてしまうなら、身動きが取れなくなってしまうということです。聖書は、イエス・キリストは、私達を自由にするために来られたと教えています。私達が目指すべきは、過去をどうにかすることではなく、イエス・キリストを見上げ、前を向いて生きることです。
   私達は、試練や、自ら招いてしまった失敗や、逃げられない患難があると、「どうしてこのようなことが起こるのか」とつぶやいたり、「○○しなければよかった」「私が○○していれば…」と悔やんだり、自分を責めてしまったりしがちです。しかし、聖書は、それらのことに関しても、「振り返ってはいけない、すべてのことを感謝せよ」と教えています。
   過去を振り返る必要がない理由を、聖書は次のように教えています。

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   神様がすべてを働かせて益としてくださるということは、どんなにつらい出来事であっても、神様はそれをきっかけとして、神のために希望を持って生きるエネルギーにしてくださるということです。ザアカイという取税人は、イエス様と出会ったことによって、生き方が変わりました。彼の過去はイエス様によって清算され、彼は前を向いて生きることができるようになったのです。
   神様は、どんな過去も、希望と勇気に変えることができます。振り返ることなく前を向いて進みましょう。

3.人からの批判に対して

   私達は、人から悪く言われると傷つき、自分はだめな人間なんだと思って思い煩います。この問題の解決は、人からの批判ではなく、神からの批判を聞くことです。
   神の批判とは、「あなたが自分をダメだと思うのは間違っている」という批判です。私達は人の批判には耳を傾け、自分はダメだということはたやすく受け入れますが、神の批判には耳を貸さず、自分は良いものだと信じられずにいます。

『というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 10:3)

   いくら神様が「あなたは正しい」と言っても、私達は、「自分にはこういう悪いところがある」「こういうところがダメだ」と言って、神のことばに逆らいます。そこで、神様は、あなたの悪いところを私の前に言い表してごらんなさいと言われます。あなたが並べ立てる自分の愚かさ、醜さ、間違いについて、神様は、あなたの言葉をすべて否定し、「私はあなたを義とする」「あなたは正しい人間だ」と宣言なさるのです。これが罪の告白と赦しです。行いの正しさによって自分の正しさを証しするのではなく、神様があなたは正しいとすることを、「神の義」と言います。
   神様が「あなたを義とする」と言うのは、「本当は×だけど○に見なす」という意味ではありません。また、「ダメな者を良くしてあげる」という意味でもありません。神様は、良い人間を良い人間だと言っているにすぎません。あなたが間違って×だと思っているものを、○だと宣言しておられるだけなのです。
   神様があなたにする批判とは、あなたは正しい者なのに、その神のことばに耳を貸さず、人からどう思われるかという自分の行いで正しい人間になろうとしているということです。人のことばを、自分の正しさを証明する基準にすると、批判されたら正しい人間ではなくなったということになります。だから、人のことばで思い煩い、あるいは、自分の行いが不完全だと知ると落ち込んでしまうのです。これらはすべて、自分で義を立てようとする間違いによるものです。
   あなたの正しさは行いに依存するのでもなく人に依存するのでもありません。それは神様が決めることです。その神様は、私はあなたを良きものとして造ったのだから、あなたは良きものだと宣言しておられます。これが神の義です。
   聖書は一貫して、罪とは死がもたらした病気であり、あなた自身の本来の姿は良きもので、本来良い行いをするものだと教えています。罪を犯すのは本来の姿ではありません。死の恐怖におびえてそうさせられているのです。そこで神様は、本来は良きものだということに気づいて、病気と戦うように教えておられます。これが罪と戦うということです。「自分はこれではダメだ。がんばろう」という間違った発想と戦ってください。人からの批判に対して思い煩う時、必要なことは神の価値観を聞くことです。そうしなければ、人のことばに対する思い煩いはなくなりません。
   神様は、あなたは正しい人間で、良きものだから、良きものだと言っているに過ぎません。これが事実です。なぜなら、神様はすべてを良きものとして造られたからです。ですから、人と接する時も、相手は良きものだと思って接しましょう。子どもや家族に対しても、社会の中であっても、ダメだから良くしてやろうと思うなら、間違った教育になってしまいます。良い人間なのだから、本来の姿を取り戻せるように手助けしてあげれば良いのです。ダメな者だと思っていては、うまくいきません。
   ダメなところを良くしようと考えるのは、間違った教育理念です。イエス様は、一度もそんなことは言われませんでした。ただ、あなたは良きものだと言い、良きものの姿を取り戻そうと導かれました。これが愛するということです。神様は、あなたが何をしようとも、あなたを愛しておられます。だからこそ、本来の姿に気づかせようとなさるのです。これが神の義です。

『かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。
しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。
主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。
< 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:15〜18)


   罪によって覆われている覆いを取り除けて、本来の良いあなた自身が見えるようにすることが救いでありいやしです。このことが理解できると、私達は、人をさばかなくなります。終始一貫して、「あなたを愛している。あなたは愛されている。」と伝えるのが、神様のやり方です。あなたも愛し続けましょう。誰ひとり行いで○になれる人はいません。私達はもともと○なのです。○から○へ、覆いを取り除けていくことが問題の解決になります。人から受けた批判への対応は、神様によって覆いを取り除けてもらうことです。

4.自分の健康について

   神様は、体の病気に対しても、いやしを求めて健康を取り戻すように教え、病をいやしてくださいます。しかし、病気のいやしは一時的なものであって、私達は必ず死を迎えます。ですから、自分の健康への思い煩いに対する根本的な解決は、永遠のいのちしかありません。死を迎えるときにあわてなくても良いように、永遠のいのちを持っているという保険があれば、思い煩いから解放されます。聖書は、たとえ全世界を手に入れたとしても、永遠のいのちを持っていなければ何もならないと語っています。自分は神様に愛され、永遠のいのちがすでに与えられていることに気づくと、死に対しても希望が見えてくるようになり、感謝して受け入れることができるようになります。

『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:16)

   神様は私達を愛し、イエス・キリストをこの地上に送られました。イエス・キリストを信じることで、誰でも永遠のいのちを持つことができるのです。イエス・キリストを信じ、永遠のいのちを持っていることに気づくことが、自分の健康への思いわずらいに対する最終的な答えです。

5.現実に直面する問題

   私達が現実に直面する問題に対しても、聖書は解決の方法を明確に教えています。それは、「神を信頼せよ」ということです。私達の人生には、必ず試練や問題が降りかかります。そんな時、神様は、「必ず脱出の道があるから見つけなさい」と言われます。

『あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 10:13)

   神様は必ず脱出の道を用意しておられます。だから、祈って求めよと言うのです。「求めなさい、探しなさい、たたきなさい」。これが、神様が教える解決の方法です。必ず脱出の道があるから、思い煩う前に祈ること、あきらめずに祈ること、これが思い煩いに対する神様の解決です。

   神様は、すべての思い煩いに対して、きちんと答えを用意しておられ、適格なアドバイスをしてくださいます。神様が教えてくださるとおりに解決するならば、すべての物事に対して、感謝と喜びをもって生きることができるのです。