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2016年10月2日
信仰の糧

   あなたは、心にむなしさを感じたことはありませんか。一生懸命頑張って、喜びや達成感を手に入れても、しばらくすると、また心にむなしさを感じるのはなぜでしょう。満たされない心を満たすには、いったい何が必要なのでしょうか。

『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』(新約聖書 マタイの福音書 4:4)

   イエス様は、私達が生きていくためには、二つの食事が必要だと教えています。一つは体のための食物であり、もうひとつは神のことばです。神のことばこそ、私達の心の糧なのです。

■神のことばが必要な理由

『初めに、神が天と地を創造した。地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。』(旧約聖書 創世記 1:1〜3)

   聖書は、この世界は神が造ったものだと教えています。神はまず、何もないところに光を造りました。この出来事は、ちょうどビッグバンを連想させます。
   今日の物理学では、宇宙の始まりはビッグバンと呼ばれる突然の爆発であり、宇宙は何もないところから始まったことが常識になっています。しかし、誰もこのことを証明できないし、実験もできません。再現も実験もできないけれど、それを前提にしないと、話が先に進まないのです。ですから、これは、ある種の信仰と言えます。
   かつて科学の主流が進化論だった時、宇宙や人間は神によって造られたという前提は、信仰であって科学ではないと批判されたものです。しかし、ビッグバンも同様です。20世紀にはこのことが大きな論争となっていましたが、結局は信仰を前提にしないと話が始まらないのです。
   聖書は、人の誕生について次のように教えています。

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』(旧約聖書 創世記 1:26〜27)

   神は、人を造る時、「我々に似るように」と言われました。聖書が教える神は唯一の神ですが、その本質の中に、互いに区別された父と子と聖霊の三つの位格が存在しています。そして、この神は、まったく同じ思いを共有し、何をするにも互いの協力を必要とする神なのです。ですから、人間の側からすると、神はお一人だということになります。このことが三位一体と呼ばれ、「我々に似せて」とは、三位一体の神の関わりに似せて人を造ったということなのです。つまり、人は、神と思いを共有し、互いに助け合い、神との関わりの中で生きるものとして造られたのです。

『神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

   神はご自身に似た者を造るため、「いのちの息」を吹き込みました。この「いのち」は原語では複数形となっていて、三位一体の神のいのちを表しており、「息」は、霊・魂を表す言葉です。そして、「生き物となった」という「生き(る)」の語源は、神のいのちを指す言葉であり、神のいのちの中で生きられるようになったことを表しています。つまり、簡単に言うと、人は、神との関わりの中で生きる者として造られているということです。ですから、人は単体では生きられず、生きるためには神のことばが必要なのです。
   神なしでは生きられないという性質は、人の弱さでもあり、素晴らしい恵みでもあります。なぜなら、これは、いつも神と共に生きられるということだからです。ですから、この弱さこそ、人にとって宝であり恵みなのです。このことを指して、イエス様は「人はパンだけでは生きられず、神との関わりの中で生きるのだ」と教えられたのです。
   さて、このように造られた人間でしたが、悪魔がエバを欺いたことにより、人間は神との関わりを失ってしまいました。神様から食べたら死ぬと教えられていた木の実について、悪魔は嘘の情報を教え、エバとアダムはだまされて、二人は神と異なる思いを信じて、その実を食べてしまったのです。もともと、神と一つの思いを共有し、神との関わりの中で生きるように造られていたために、人が神と異なる思いを信じた時、関係が崩壊してしまったのです。神との関係の崩壊によって、私達の中に死が入り込みました。死とは、神との関わりを失うことです。
   神との関わりがなくなったことで、神から供給されていた糧は得られなくなってしまいました。神は、アダムとエバに対して、これからは自分で食物を手に入れなければならないと語っておられます。また、関係が失われたことで神と共有していたいのちも失われ、人は永遠に生きることができなくなってしまい、体は朽ちるものとなりました。
   今、私たちは生まれながらに神との関わりがない中に生まれ、生まれながらに滅ぶ体を持ち、死の恐怖の中で生きています。そして、生きるために食物を求め、神との関わりを失った魂を満たそうとして、人との関わりを求めて生きています。神との関わりを失って神のことばが食べられなくなったために、代替えの食物として、人の言葉を食べて心を満たそうとする生き方になってしまったのです。
   余談ですが、心理学の専門用語では、「愛」は関わりを指します。「人は愛を求めて生きている」と言われますが、これは関わりを求めて生きているということです。そして、愛の反対は、無関心です。無関心とは、関わりのないことであり、心にとっては死を意味するものです。私達の心は関わりがあってはじめて生きることができるのです。それは、本来神との関わりだったのですが、人間はその関わりを失ったために、人との関わりの中で心を満たすしかなくなってしまいました。これが、今の私達の姿なのです。
   おなかがすけば食べ物を探すように、私達の心も飢えてくると人との関わりを求めます。もちろん、良い関わりが持てればそれに越したことはありませんが、がんばってもそれが得られない場合、手っ取り早く人との関わりを得る方法として、人は否定的な関わりを引き起こします。相手にとって不快なことを行ない、否定的な言葉を引き出そうとするのです。怒鳴られようと、蔑まれようと、関心を持たれないよりはましなのです。このように、神との関わりを失った私達は、人との関わりを心の食事にしているために、おいしい食事が手に入らなければ、まずい食事でもしようとして、否定的な関わりをやめられずにいるのです。それは、人が関わりの中でしか生きられないように造られているからです。神との関わりがなければ、人との関わりで心を満たすしかないのです。

■人との関わりによる問題

1.魂が満足できない

   神のいのちで造られた私達は、本来神のことばを食べて、神との関わりの中で生きるものですから、魂は人との関わりでは満足できません。これがむなしさの原因です。人に神のことばが必要なのは、人との関わりでは満たされないからです。どんなに尊敬を得ても、人から良く思われていても、しばらくすると何のために生きているかわからなくなり、なぜか心にむなしさを覚えます。そのむなしさから逃れようとして様々な快楽を求め、むなしさを打ち消そうとするのですが、やはり同じところに戻ってきてしまうのです。
   伝道者の書は、冒頭で、すべては空の空であり、この世界は何をしてもむなしいと教えています。この書を書いたソロモンは、大帝国を作り上げ、奥さんが1000人もいて、巨額の富を持っていました。この地上でほしいものをすべて手に入れたソロモンの行きついた先は、何を手にしてもむなしいという結論です。それは、人が神との関わりの中で、神のことばを食べて生きるように造られているからです。ですから、伝道者の書の結論は、「神を求めよ、神との関わりを求めて神に生きよ」と締めくくられているのです。
   人は、人のことばでは決して満足できず、心が満たされないのです。

2.人の言葉は否定的な言葉が圧倒的に多い

   心が満たされないと、人は、自分は愛される価値がないダメなものだと思ってしまいます。すると、そこから生まれる言葉は常に否定的になります。
   家庭の中でどのような会話がなされているのか、調査した資料があるのですが、その結果は、肯定的な言葉1に対して否定的な言葉は10というものでした。私達は、自分で思っているよりも、はるかに多くの否定的な言葉を聞き、否定的な言葉を発しているのです。否定的な言葉は、私達に精神的なダメージを与えます。その調査で語られていることは、否定的な言葉1つを打ち消すのに、肯定的な言葉が4つは必要だということでした。この世で生きている限り、私達の心は傷だらけです。
   満足できる言葉を与えてもらえないと、人は自分はダメなものだと思って、否定的な言葉を交わし合います。そうすると、お互いに傷つくため、やがて無関心になっていきます。ところが、人は無関心に耐えられませんから、結局否定的な言葉でもないよりはましと求めることになり、悪循環は止まりません。
   否定的な言葉は人を傷つけ、肯定的な言葉は人を励まします。言葉は人を動かすものです。ところが、人との関わりで、肯定的な言葉を得ることは、多くの人にとって大変困難なことなのです。

3.自分を殺してしまう

   相手から「がんばったね、よくやったね」という言葉を引き出すためには、その人の期待に応えなければなりません。私達は、肯定的な言葉を得るために、人の期待に応え、本来の自分を放棄しなければならないのです。それはつまり、自分を殺すことです。こうして人は自分を自分でなくし、病気になってしまうことすらあるのです。
   私達は、人との関わりで心を満たそうとする限り、満足することはできません。否定的な言葉に傷つき、自分を殺すという悲劇に見舞われます。人との関わりで心を満たそうとすると、ただ苦しいだけなのです。それは、人が本来、神との関わりで生きるように造られているからです。神のことばを食べよと、神様は言われます。

■神のことばを食べる際に忘れてはならないこと

1.いつでも話を聞いて、返事をしてくれる

   人は、なかなか話を聞いてくれないもので、そのうえ、なかなか期待通りの返事はしてもらえません。もちろん、相手が満足するように、人の話を聞くのも大変です。
   しかし、神様は祈りを通していつでも話を聞いてくださり、御言葉を通していつでも返事をしてくださいます。つらい時、即座に祈ることができ、御言葉を食べることができれば、心は満たされるのです。
   ただし、御言葉を読む時に、文字だけを追っていると、旧約聖書などは特に、神の怒りなどを否定的なことだと誤解しないように気をつけなければなりません。聖書はキリストの十字架の愛を証しする書物です。旧約聖書も十字架に至るための御言葉ですから、十字架の愛をベースに理解すべきです。
   本来、関わりとは非言語で伝える部分が大半です。「目は口ほどにものを言う」と言いますが、態度や表情は、言葉以上にものを伝えるものであり、たとえ「バカ」と言われても、相手の表情や態度から愛情を感じることもあれば、文字通りバカにされている、嫌われていると感じることもあります。
   若い人達は、メールを打つ時、よく絵文字を使ったりすると思います。にっこりマークをつけることで、「怒ってないよ」と伝えているわけです。神様の御言葉も、すべて、にっこりマークや愛情マークがついています。
   聖書は私達が誤解しないように、十字架を見なさい、十字架がすべてであると教えています。神様は、十字架を通して、あなたを愛していると教えておられます。ここが人との関わりと決定的に違うところです。
   神様は、どんなに忙しくても、自分がいのちを与えた、愛する子であるあなたのために時間を割き、ちゃんと話を聞いて、答えを下さり、必要を満たしてくださるのです。ですから、神に祈り求めることを聖書は教えています。

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。 してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』(新約聖書 マタイの福音書 7:7〜11)

   神様の関わり方は、自分の子に対して常に良いものを与えようとする関わりです。これは人との関わりでは、決して手にすることはできません。

2.神はいつでも味方になってくれる

   人は、相手の態度や状況に応じて、自分の態度を変えるものです。ところが神様は、たとえあなたが罪を犯しても、関わり方を変えたりはせず、常に味方として関わってくださいます。それを忘れてはなりません。

『私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:3,9〜10)


   私達に必要なのは神との交わりです。神様は、私達のどんな罪をも赦してくださいます。ですから、神の前には何も隠す必要がないのです。これは、人との関わりでは絶対にありえません。人との関わりでは怒られると思って、私達は罪を隠そうとしてしまいますが、神様はすべての罪を赦すと約束して、あなたが自分の罪を言い表して重荷を下ろして生きることを切望しておられます。

『私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 2:1)

   イエス・キリストは、常にあなたの味方となって弁護してくださいます。これほど安心で、楽なことがあるでしょうか。この関わりをしっかりと持つと、私達はこの地上で、自分らしく、安心して生きていけるようになります。神のことばを食べるなら、心が満たされて、平安に生きることができるのです。神との関わり、神のことばこそ、私達の魂に必要な食事であり、私達の魂をいやすものです。人のことばでは決して癒されることのないあなたの心を、神のことばが癒し続けてくださるのです。