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2016年9月4日
どこに向かっていますか?

目標を目指して生きよ

   よく「人生とはつらいものだ」などという言葉を聞きますが、それは自分が進む目標やビジョンがないからなのです。目的地もわからずに、いつまでも車を走らせ続けなければならないのはつらいことです。しかし、目標を見据えていれば、つらくても希望を持って進むことができます。また、船に乗っている時、船酔いを防ぐ方法として、目の前のものではなく水平線を見るように言われます。人生も同じで、近くのものばかり見ていると、周りが気になってつらくなりますが、目標を目指す人は前に進むことができます。
   聖書は、人生に対して、幻(ビジョン)を掲げて生きるように教えています。このことは、世の中でもよく言われることではありますが、聖書が教えるビジョンとは、どんな目標でも構わないというわけではありません。

『競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 9:24〜26)

   聖書が教えている目標とは、「朽ちない冠」を受けるための目標です。この世界で唯一残るものは、神の言葉です。私達を造られた神を知り、神の言葉を食べ、神に近づくことに至る目標でなければ、結局は何をしてもむなしいのです。それは、私達が神に似せて造られ、また、神のからだの一部として造られているからです。

神に近づくという目標を持つ

『あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 12:27)

   私達は本来、神と同じ思いで神を愛し人を愛する心を持つ者として造られています。怒りや嫉妬を抱くのは私達の本来の姿ではありません。災害時に、自分の命を顧みずに人を助けようとすることや、死を目前にした人が一番多く口にするのが、「愛している」「ありがとう」という言葉であることなどは、私達の本来の姿の一部を映すものです。
   今私達が本来の自分を失っているということは、病気であるということです。私達が神に近づき、神と同じ思いになるということは、病気の状態にある私達が、健康な姿を取り戻すことなのです。神は、私達に本来の健康な姿を取り戻すことを目標してほしいと願っておられるのです。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』(旧約聖書 エレミヤ書 29:11〜13)


   神が、神を目指して生きるように教えているのは、私達を本来の姿に戻し、平安を与え、喜びに満たしたいと願っておられるからです。神の思いに近づくことで、平安になることができます。神の言葉を食べ、キリストの体と一つになるために、具体的にどのようなことを実行すればよいのでしょうか。

1.祈りを中心とした生活をする

   エレミヤ29:12に、「わたしに祈るなら」とある通り、祈りなくしては、神に近づくことも、神に心を向けることもできません。
   何を祈っても構いません。どんなことでも、自分の願いを神に告白すれば、祈りになります。ただし、忘れてはならないのは、感謝です。神によって造られ、生かされている感謝を告白しましょう。祈りを通して神に向きを変えることができます。何があっても、祈れば、平安を手にすることができます。それは、船酔いの時に見つめる水平線のようなものです。

2.キリストの十字架から目を離さない

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。』(新約聖書 へブル人への手紙 12:1)

   私達が神に近づこうとすることを邪魔するものが罪です。イエス・キリストは、それをこの世の心遣いだと言われました。様々な思い煩いや、人への恐れが、私達が神に心を向ける邪魔をします。世の心遣いと富の惑わしを振り切って進むためには、イエス・キリストをしっかりと見上げて生きることが大切です。

『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』(新約聖書 へブル人への手紙 12:2〜3)

   イエスから目を離さないとは十字架から目を離さないということです。神に近づくとは、罪との戦いです。イエス様の十字架を見上げることが、私達を罪から解放してくれます。
   たとえば、燃え盛る火事の中に少女が取り残されているとします。この時、一人の消防隊員がその炎の中に飛び込み、少女に防火服を着せて救出する場面を想像してみてください。この消防隊員こそ、イエス様の十字架です。
   私達の心の中に渦巻く怒り、敵意、嫉妬…これらの感情は、すべて怒りであり、これが、私達が神に近づくことを邪魔します。私達が、人を愛したいと願っても怒りという炎に負けて愛することができない時、この怒りを消すことができるのは、どんなことがあろうともあなたを愛しているという全き愛だけなのです。イエス・キリストは、十字架にかかってあなたを愛していることを示してくださいました。これだけが、怒りに対抗できる唯一のものです。これによって、私達はキリストに近づくことができるのです。
   怒りによって人を愛することができず、神と一つ思いになれないため、私達の中には、さらに死の恐怖という炎が広がりました。その結果、人は見えるものに安心安全を求めようとするようになり、見えるところを人と比べるために、さらに嫉妬が燃え盛ります。
   この炎に耐えられる唯一の防火服が全き愛であり、それは十字架です。イエス・キリストは、十字架で愛の防火服を着て、あなたの心に飛び込まれました。これが救いです。救いだされた魂は、防火服で守られ、主は怒りを消火してくださいます。
   十字架はあなたを助けるために燃え盛る炎を消してくれるものです。罪や重荷が足かせになって、キリストに近づけないでいる私達から足かせを取り除くには、十字架が必要なのです。十字架を見上げなければ、前に進むことはできません。十字架を見上げ、キリストを目指して進む時、心に安心を得られます。これが罪と戦うということです。神様の計画は、私達に平安を与える計画であり、平安の義の実を結ばせる計画です。あなたを愛し、あなたの心の炎を消すための十字架から目を離さないで生きていきましょう。

3.神の言葉を食べること

『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。』(新約聖書 ヨハネの福音書 1:1)

   神は言葉です。聖書の言葉を食べることが神に近づくことであり、御言葉を食べるとは、御言葉を読み、それを信じて実行することです。それが、神に近づく実際的な行いとなります。
   今の中華民国(台湾)の民主化を推進した李登輝元総統は、総統時代、神の言葉が自分の支えであったと機会あるごとに証ししています。彼は問題にぶつかるたびに「御言葉をください。」と祈り、おみくじをひくように聖書の言葉を読み漁ったと言います。そして、「聖書にこうあるから大丈夫だ」と一生懸命その言葉を信じようとしました。このようにして御言葉を食べることで、励まされて前進することが出来たのです。これは、アメリカのリンカーン元大統領も同じことを言っています。
   人は、つらくなると人の助言を求めたり、励ましを求めたりするものですが、人の言葉や慰めは、一時的な効果しかありません。しかし、神の言葉を食べると真の平安が訪れます。私達が目指すべきは、神の言葉を食べることです。

各自の目標を設定する

   私達が最終的に目指すところは神に近づくことですが、そこに近づくために、各自の特徴や与えられている環境を生かし、それぞれの目標を掲げましょう。各自の目標に向かって生きていく途中で、いろいろな問題にぶつかり、祈るチャンスとなるからです。祈って解決していく中で、神の言葉を食べ、神に近づいていくことができるのです。子育てや仕事など、一人一人与えられている役割や状況は異なりますが、それぞれに合った目標設定をしましょう。
   からだには目や口や手や足など様々な器官があって、それぞれ働きが違ってもキリストにつながっているのと同じように、私達が掲げる目標は、すべて神という目標につながっています。この世が教えるビジョンは、個々の目標設定を教えるだけで、最終目標である神というゴールがありません。聖書はまず神というゴールを設定し、各自が掲げるビジョンはすべてそこにつながるものであると教えているのです。富士山に登るには様々な道があるが、それらは皆同じ山頂につながっているとよく言われます。それぞれのビジョンを持って進む中で、神の言葉を食べるなら、私達は皆、神に向かっていくことができます。神様を目標とし、御言葉を食べると、私達は人を愛せるようになっていきます。自分の置かれているところで、神を愛し人を愛することを最終目標にして生きましょう。
   ベルリンオリンピックの陸上銀メダリスト、グレン・カニンガムは、幼い時の事故によって、医者から「もう二度と歩けないだろう」とまで言われました。しかし、そんな彼に、次の聖書の言葉が目に留まりました。

『しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』(旧約聖書 イザヤ書 40:31)

   彼はこの言葉を信じ、走ることに挑戦し、ついにはオリンピックで銀メダルを取ることができました。けれど、走ることもメダルを取ることも、彼の最終目標ではなかったのです。
   御言葉を通して神に近づくことを知ったグレンは、引退後、農場を経営し、非行少年達の更生を促すミニストリーを始めました。彼は、「人生にむなしさを感じるのは、愛することがないからだ。」と語り、少年達に動物の世話をさせ、愛することを知った少年たちは、「自分は愛されてないからつらいと思っていたが、愛そうとしなかったからつらかったのだ」と気づいて立ち直っていきました。
   グレンは、神の言葉を食べて人を愛する者となり、少年達もまた、愛する者となることで、心のむなしさが排除され、喜びがもたらされたのです。

人を愛せるようになる

『いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:12)

『神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:20〜21)


   私達がそれぞれの目標を定めるのは、神の言葉を食べるためです。神の言葉は、「愛しなさい」という一語に集約されるため、私達が神に近づけば近づくほど、人を愛せるようになります。ですから、御言葉を食べ、神に近づくとは、具体的には、人を愛することを目指す生き方になります。
   私達がつらいのは、人を愛せないせいです。人間は神に似せて造られ、人を愛するように造られているため、無条件で人を愛せないとつらさを感じてしまうのです。今私達が無条件で人を愛せないのは、病気のせいです。神は私達を健康な状態に戻したいと願って、神の言葉を食べるように教えているのです。そうすれば、神に愛されている自分を知り、人を愛したいと願うようになるのです。神様は、私達が神の言葉を食べるようになるために、一人一人目標を持ちなさいと教えます。目標を目指す中で、祈り、キリストの愛を知り、御言葉を食べられるようになるからです。
   私達が最終的に目指すのは、個々の目標の達成ではなく、さらにその先にある、神の言葉を食べて、人を愛せるようになることです。これが苦しみから解放される唯一の答えです。
   十字架を見上げ、それぞれの賜物に応じて目標を持ち、神の言葉を食べて、神を愛し人を愛せる者になるという目標からずれることのないようにしましょう。神は私達に平安を与える計画を持っておられます。神に近づくことをめざし、正しい目標を持って、生きていきましょう。

※9月4日のメッセージの中で、グレン・カニンガム氏の支えとなった御言葉の引用箇所に誤りがありました。本文では、訂正してあります。