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2016年8月21日
十字架の意味

   十字架は、キリスト教の福音の原点であり、私達の信仰の土台です。イエス・キリストが十字架にかかった目的とその意味について学びましょう。

イエス・キリストは身代金として支払われた

『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』(新約聖書 マルコの福音書 10:45)

   「人の子」とは、イエス・キリストご自身を指します。そして、「贖いの代価」とは「身代金」という意味です。つまり、イエス・キリストご自身が、私達の身代金となって支払われたということです。この身代金が、誰に支払われたと理解するかによって、十字架の意味は大きく異なります。歴史上、実に様々な説が考え出されてきました。
   2〜3世紀に70人訳聖書をまとめ上げたオリゲネスという人物は、身代金は悪魔に支払われたと考えました。罪を犯したために人間は悪魔の支配下に置かれ、キリストは悪魔から人間を買い戻すために自分を差し出したというものです。これは賠償説と呼ばれ、中世まではキリスト教の標準でした。
   しかし、アンセルムス(1033〜1109)という神学者がこの説に異議を唱え、人は悪魔ではなく神に支配されており、悪魔でさえ神に服従するのだから、身代金は神に対して支払われたのだと主張しました。人間は罪を犯したために永遠の死という刑罰を受けなければならなかったが、イエス・キリストがその罰を代わりに受けてくださったので、私達の罪は赦されたというのです。神は聖い方だから罪を厳正に処罰せずにはいられない、しかし同時に、神は愛の方であり、そのジレンマを解消する方法としてイエス・キリストが人の代わりに罪の罰を受け、神は罪を赦せるようになったという考え方で、刑罰代償説と呼ばれます。
   さらにこの説を発展させたものとして、イエス・キリストが十字架にかかったのは、罪に対する神の怒りをなだめるためであるとする、満足説あるいは充足説というものが生まれました。
   また、これらの説に対して、そもそも身代金の支払いなど必要ない、十字架は支払いなどではないとする考え方があります。十字架は、罪を犯すとどうなるかという見せしめであり、人を律法につなぎとめるためのものであるとする統治説、あるいは、神が赦すかどうかではなく、私達自身が悔い改めて罪を犯さなくなるためには自分が変わらなければならない、そのためには神に従順に従うしかない、イエス様は十字架にかかって神に従順に従う姿勢を見せてくださったのだとする殉教説などです。
   他にも多くの説がありますが、いったい何が真実なのでしょうか。この答えを得ることこそ、十字架の意味を解き明かすことにつながります。

身代金は誰に支払われたか

   神が悪魔に身代金を支払うなどということは考えられません。また、神に対して支払ったという考え方にも、昔から問題点が指摘されています。第一は、神の怒りをなだめるためという考え方です。神様は私達に、裁いてはならない、怒ってはならない、敵意を抱いてはならないと教えています。互いに赦し合い、互いに訴え合ってはならないと教えている神が、私達の過ちに対して罰を要求するなどということがあるでしょうか。それは、イエス様の教えとは正反対です。神が私達に罰を要求することが神の正義だなどということはありえません。

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10〜11)

   さらに、この考えは三位一体の神を否定しています。三位一体とは、三位の神は同じ思いを共有しており、私達人間の側からは一人の神しか見えないということです。ところが、父なる神が人に償いを要求し、イエス様がその罰を受けるから赦してほしいとなだめるということであれば、父なる神とイエス様は同じ思いを共有しているとは言えません。

『それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:21〜22)

   父なる神とイエス・キリストは同じ思いを共有しているのですから、片方が怒り、片方がなだめるなどということはありえません。そもそも「なだめる」という訳にも問題が指摘されています。
   では、いったい身代金は誰に支払われたのでしょうか。

罪とは何か

   イエス・キリストは私達の罪を背負って十字架にかかったと、聖書にあります。問題の始まりは、人々が、これを「罪の罰を背負った」と理解してしまったところにあります。
   罪とは、神と異なる思いのことです。そして、罪を犯すとは、神と異なる思いを信じることです。このことを聖書は「不信仰」と呼んでいます。私達は、罪というと悪い行いを思い浮かべますが、神と異なる思いを信じた結果、悪い行いに至るわけですから、神と異なる思いを信じることが罪なのです。
   人はいつから罪を犯すようになったのでしょうか。神は人をご自分に似せて造り、神が一つ思いであるように、人も神と一つとなるように造られました。悪魔は、この関係を崩壊させるために、アダムとエバに神と異なる思いを信じるように働きかけ、悪魔の言葉を信じた二人は、神が食べてはいけないと言った実を食べてしまいます。悪魔の言葉を信じた時点で人は罪を犯し、神の関係は崩壊してしまったのです。その結果、人は神が見えなくなり、神に愛されている自分がわからなくなってしまいました。裸の自分しか見えなくなった人間は、恥ずかしくて自分を隠して生きるようになったのです。この様子は創世記3章に記されています。
   こうして人は、罪によって神との結びつきを失いました。これが死です。自分が似せて造られたという神がわからないため、人は自分の価値がわかりません。そこで人はその不安を取り除こうとして、価値ある者になることを目指すようになりました。ですから人は、自分に価値があるかどうかいつも不安を抱え、出世したりして人から認められることで価値を確認したいと願って生きています。
   また、永遠なる神との結びつきを失ったことによって、人は永遠には生きられない存在になりました。幹から折られた枝がいつか枯れるように、神から離れた人間はやがて朽ちて地に帰るのです。

   人は、神と異なる思いを信じたために、神との関係が崩壊し、その結果、自らの価値である神が見えなくなったために自分の価値がわからないという不安を覚えるようになり、同時に、やがて朽ち果てる肉体の死に恐怖を覚えるようになったのです。そして、不安から逃れようとして人の愛を求め、死の恐怖から逃れようとして、少しでも長く健康に生きるために富を求めるようになりました。これが富の争いの原点です。
   こうして、人は、神ではなく、見えるものに安心安全を求めるようになりました。神と異なる思いが、私達の中に常駐するようになったのです。聖書はこれを、「私達の中に罪が住みついた」とか「死の恐怖の奴隷となった」などと言っています。
   今の私達は、アダムとエバが犯した罪によって入り込んだ死のために、生まれながらに死の状態にあります。そのために、自分が何者かわからない不安におびえ、やがて訪れる死に対して恐怖を抱いて生きるようになったのです。このことが、私達に様々な妬みや争いを生じさせ、神に逆らった生き方をさせて、人を苦しめているのです。

私達を死の恐怖から解放するためには

   罪とは何かがわかると、イエス様が私達の罪を背負ったとはどういうことかが、見えてきます。十字架は、私達を死の恐怖から解放するためのものです。

1.神に愛されていることを知る

あなたがどれだけ価値ある者で、高価で尊いかということをあなたが知らなければ、不安を取り除くことはできません。つまり、イエス様の十字架の目的の第一は、神の愛を示すためです。

『わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 17:23)

   イエス様は、父なる神がイエス様を愛しておられるように人々を愛していることを知らせるために遣わされました。これが、神が私達のところに来て十字架にかかった理由です。イエス様の十字架は、神が自分を愛しておられるとこの世が知るためです。それによって、私達の中から自分は価値がないと思っていた不安が消えるのです。愛されていることがわかると人は変わることができます。

2.死の恐怖を取り除く

   人にとってもう一つの恐怖である肉体の死の恐怖を取り除くため、イエス様は十字架でまったき愛を示すことによって、死の力を持つ悪魔を滅ぼし、死を滅ぼしました。肉体の死は避けられませんが、よみがえることで永遠のいのちを教え、死の恐怖を取り除いてくださったのです。

『そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――』(新約聖書 エペソ人への手紙 4:8〜10)

   私達は悪魔にもたらされた死の恐怖に苦しんでいます。「多くの捕虜を引き連れ」とは、悪魔を滅ぼすことを意味し、「すべてのものを満たす」とは、悪魔がもたらした死の恐怖を滅ぼしていのちを満たすことです。イエス様は、よみに下って、悪魔を滅ぼすことで死を滅ぼし、その証によみがえられたのです。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 へブル人への手紙 2:14〜15)

身代金はあなたに支払われた

   私達を苦しめる死の恐怖は二つあります。一つは、自分が何者かわからない不安です。その不安を取り除くために、イエス・キリストは十字架にかかって、あなたはこれほどまでに愛されていると示されました。イエス様は、友のために命を捨てるよりも大きな愛はないと言われました。もう一つの恐れは、肉体の死です。イエス様は、十字架のまったき愛によって、死の力を持ち、私達を苦しめる悪魔を滅ぼしました。こうして、私達を死の恐怖から解放してくださったのです。
   つまり、イエス様の身代金はあなたに支払われたのです。神との関わりを失った私達の中に死の恐怖が住み着き、神なんか信じるな、見えるものを信じて喜べ、そのためには人からどう思われるかが大切だ、お金が大切だと、日々脅しています。これに対してイエス様は、ご自分をあなたに捧げ、私が身代金となるから、その脅しに屈するなと言っておられるのです。イエス様は、私の血を飲み、私の肉を食べよと言っておられます。それは、「私を受け取りなさい」ということです。イエス・キリストという身代金は、あなたに支払われたものなのです。
   あなたは神に愛されている、だから、死の恐怖に屈せず立ち向かいなさいと言うメッセージが、十字架にはこめられているのです。

    神は罰を与えない

   なぜ私達は、このことがなかなか理解できないのかというと、罪には罰があって当然だという思い込みがあるからです。そのため、身代金は罰を赦してもらうために支払われたのだと思い込んでしまったのです。しかし、神は罪に対して罰を与えたりはしません。神が罪に対して与えるものは、ただあわれみだけです。
   なぜなら、私達が罪を犯してしまうのは、私達の中に住み着いた死の恐怖が原因だからです。死の恐怖は、私達が犯した罪によってではなく、アダムとエバが悪魔にだまされたことによって入り込み、人類に広がりました。つまり、私達は罪という病気に感染してしまった病人なのです。感染した病気によって死の恐怖におびえている私達が、その恐怖から逃れようとして見えるものにしがみつき罪を犯すことに対して、イエス・キリストはただの一度も裁いたことはありません。かえって、互いに赦し合うように教えておられます。
   罪が病気であることがわかれば、罪とは罰を受けるものではなく、いやされなければならないのだということがわかります。だからこそ、聖書で「赦す」という言葉は、「いやす」という意味でも使われているのです。
   確かに旧約聖書には、「神は裁く」という表現が何度もありますが、それは、私達の罪ではなく、罪の原因となった悪魔を裁くと言っておられるのです。イエス様は十字架にかかる前、ご自分が天に帰った後助け主として聖霊様がこの地上に来られることを告げ、聖霊様は、イエス様の働きの意味を教え、人々の間違った考えを是正すると語りました。

『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 16:8〜11)

   私達は、罪の理解も義の理解も裁きの理解も間違っているから、聖霊様がそれを訂正してくださると言うのです。罪とは、人々が思い込んでいるような律法に逆らった行いなどではなく、イエス様を信じないこと、つまり、神と異なる思いを抱くことです。義とは、人の努力や力によって成し遂げられるものではなく、神から与えられるものであるということです。裁きを受けるのは、私達ではなく悪魔だということです。イエス様は十字架で私達の代わりに裁かれたのではなく、十字架でまったき愛を示すことによって私達の恐れを取り除き、悪魔を滅ぼしたのです。神様にとって、罪は裁くものではなくいやすものであり、裁く対象は悪魔しかありません。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   イエス様は、私達を死の恐怖から解放するために、死の恐怖を背負って十字架にかかり、まったき愛を示して悪魔を滅ぼしました。ですから、イエス様の十字架のゆえに、私達はいやされたのです。人々はなかなか正しく理解できませんでしたが、その誤りは聖霊様が訂正してくださるとイエス様が前もって教えてくださっているのです。

   イエス様の十字架は、私達の罪の罰を背負って裁かれたのでも、悪魔から私達を買い戻すために支払った身代金でもありません。あなたを死の恐怖から解放するために、あなたに支払われた、あなたのための十字架です。あなたを愛するがゆえの十字架なのです。
   ですからイエス様は言われます。「私を受け取りなさい」。キリストの死にあずかるバプテスマを受けるなら、あなたがたは生きるようになるとは、イエス様の身代金をそのまま受け取れば、死の恐怖から解放され、神と共に生きられるようになるということです。
   イエス様の十字架を正しく理解して、自分が神に愛されていることを受け取りましょう。イエス・キリストの十字架だけが、私達を死の恐怖から解放してくれる唯一のものです。