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2016年7月31日
キリストの死にあずかる
(新約聖書 マルコの福音書 15:38〜16:8)
   十字架にかけられたイエス・キリストが、ついに息を引き取りました。イエス様が死んだことによって、いったい何が起きたのでしょうか。

福音が世界中すべての人のものとなる

『神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。』(新約聖書 マルコの福音書 15:38〜39)


   神殿の中は、多くの祭司がいる聖所と、大祭司しか入ることのできない至聖所に仕切られています。この仕切りの幕が裂けることを通して、神は、大祭司しか神に近づけないと言われた時代の終わりを告げました。イエス様の十字架の死によって、誰でも神に近づけるようになったのです。宗教改革を行なったルターは、このことを「万人祭司」と言いました。イエス様は、「私が新たな幕となり、あなたがたを神に近づける」という意味を、十字架に込められたのです。

『こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。』(新約聖書 へブル人への手紙 10:19〜20)

   イエス様はご自分の死を通して、イエス様ご自身が垂れ幕となって、誰でも神のもとに近づけるという新しい道を備えてくださいました。ですから、ヘブル人への手紙は、私達はもっと大胆に神に近づこうと勧めています。
   また、十字架によって「イエスは神の子である」と初めて信仰告白をしたのは、ユダヤ人ではなくローマの百人隊長でした。これは、救いが全世界に広がったことを表しています。 それまでイスラエルは、自分達こそ神に選ばれた民であり、それ以外の民族は救われないと思っていました。しかし、そうではなく、神は誰でも分け隔てなく愛し、神の福音はすべての人に届けられることを、イエス様の十字架によって、改めて神は伝えようとしておられるのです。

最後までつき従った人々

『また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。』(新約聖書 マルコの福音書 15:40〜41)

   十字架の死に至るまで、イエス様をずっと見守ってきたのは、イエス様に初めからつき従っていた女性達です。イエス様と共に宣教していた12弟子の姿はどこにもありません。
   私達は、立派なことをする人には信仰があると思いがちです。しかし、信仰は見た目ではわかりません。弟子と女性達の信仰には、どのような違いがあったのでしょうか。
   それは、彼女達には日々の生活があったということです。毎日食事の支度をし、家族の世話をし、家を守るという日々の生活を大切にすることは、信仰と深く関わりがあります。仕事であっても、学校であっても、家庭であっても、日々神に感謝し、なすべきことを行なうことで信仰が養われます。神を信じて生きていくとは、日々の生活を大切にすることであり、そこから逃げないことです。

『小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。』(新約聖書 ルカの福音書 16:10)

   日々の生活から目をそらさず、自分にできることを行ない、小さなことへの感謝を積み上げる中で、キリストへの信仰が育ちます。このような日々によって、女性達は、気づかないうちに、患難にあってもイエス様についていくという信仰が養われました。しかし、弟子達は、イエス様がほめたたえられているそばで生活していたので、何かかっこいいところを見せようとするところがありました。
   私達も足をすくわれないように、日々の生活を感謝し、祈り、礼拝を守り、聖書を読み、クリスチャンとしてなすべきことを行なって生きていきましょう。信仰を成長させるとは、これら一つ一つ積み上げることであり、近道はありません。

十字架の信憑性

『すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。 』(新約聖書 マルコの福音書 15:42〜47)

   アリマタヤのヨセフが遺体の下げ渡しを願ったとき、ピラトは驚きました。なぜなら十字架刑とは、長い間苦しみながら死んでいくものであり、十字架上で1週間くらい生きている人もいたからです。そこで本当にイエスが死んだのかどうか確認するために、イエスの脇腹をやりで刺したと、他の福音書に記されています。その時、イエス様の脇腹からは血と水が分かれて出てきました。このことによって、イエス様の死因は心臓破裂であることが、医学的にわかっています。イエス様は、衰弱して死んだのではなく、心臓が破裂するほど苦しまれたのです。
   このように、イエス様が完全に死んだことが確認されているのは、イエス様の復活は偽りではなく真実だということを後世に伝える意味があります。また、もしこのような記述が、イエス様の死後100年以上経ってからのものであれば、信者が自分たちに都合の良いように脚色したのではないかという疑いも持たれますが、マルコの福音書はイエス様の死後10年、多く見ても20年のうちには出来上がっており、当時を記憶している未信者の人々によっても事実であることが確認されています。聖書以外の歴史書にも、ピラトという総督とヨセフという議員が実際に存在していることと、二人のやり取りの詳細が記録されています。つまり、客観的な事実を積み上げていくと、イエス様の死は真の死であり、聖書に書かれていたような事実が確かにあったということです。

キリストの歩まれた道

『さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。それで、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。』(新約聖書 マルコの福音書 16:1〜8)

   イエス様が死んだ翌々日、女性達がイエス様のお墓に行くと、墓をふさぐ大きな石がどけられており、イエス様の遺体がありません。他の福音書によると、番兵が寝ずの番をしていたとありますから、誰かが人為的に動かすことのできる状況ではありません。その不思議な状況の中、墓の中にいた青年が、「イエスはよみがえられた」と宣言するのです。この出来事は、私達に何を語りかけているのでしょうか。

   イエス・キリストは、私達の罪を背負って十字架にかかりました。罪とは、神とのつながりを失ったことによる、死の恐怖のことです。聖書が教える死とは、単に肉体の死のことではなく、神とのつながりを失うことです。神の言葉ではなく、悪魔の言葉を信じてしまい、神とのつながりを失った人間は、神の愛が見えなくなり、自分自身が何者かわからない恐怖におびえるようになりました。また、永遠なる神とのつながりを失ったことによって、肉体が滅びるようになってしまったことも恐怖です。これらの恐怖から逃れようと、私達は安心安全を求めて見えるものに必死にしがみついて生きています。
   十字架で私達の罪を背負ったとは、十字架にかかることによってあなたを愛していることを示し、よみがえることによって肉体の死を滅ぼしたことを示して、死の恐怖を取り除いてくださったということです。
   この十字架を信じて救われることを、「キリストの死にあずかるバプテスマを受けた」とも言われています。それは、信じて救われた者は、イエス様が歩んだ道と同じ道を歩むことになるからです。

『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:4〜5)

   イエス・キリストを信じる者は、イエス様と同じ十字架を背負わされ、同じ道を歩かされます。あなた自身が十字架にかかり、死んでよみがえるとは、何を意味しているのでしょうか。

1.あなたは義とされた

『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:1)

   私達は、イエス・キリストを信じることによって、罪に定められることがなくなりました。これは決して、罪を犯さない者になったということではありません。今後どんな罪を犯したとしても、二度と神から切り離されることはないということです。これが十字架を背負って生きるという第一の意味です。

『罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:34〜39)


   イエス様の十字架を背負い、キリストの死にあずかるバプテスマを受けたとは、「もう二度と神から引き離されることは絶対にないから、安心して生きていきなさい」という意味です。もし何か間違った行いをしてしまっても、自分をダメな者だと考えたりしてはいけません。

2.あなたは強くされた。

『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 4:13)

   私達は、キリストと共に歩むことによって強くされます。今まで弱い者だった私達のうちにキリストがおられ、助けてくださるのです。もうダメかもしれないと思うとき、ぜひ祈ってみてください。力がわいてきて、神様が自分を強くしてくださっていることを知ることができます。イエス様を信じ、十字架を背負ったことによって、あなたは強くなったのです。

3.キリストの苦しみにあずかる

『私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 3:10〜11)

   私達は強くされ、苦しみを乗り越える力を与えられました。そこで神様は、私達が苦しみに会うことを静観し、私達の信仰を訓練なさる場合があります。イエス様も多くの苦しみを受け、それによって神の栄光を表されました。私達も苦しみによって信仰の訓練を受け、本当の意味で強くされ、神の栄光を表すようになるのです。私達が苦しみを受けるのは、神様に愛されているからです。
   ただし、神が苦しみを与えるわけではありません。私達が出会う患難を神は静観する場合があるということです。それは、あなたが神により頼み、神に与えられた信仰を使うことを、神が願っておられるからです。これを、聖書は「苦しみ」と表現しているのです。イエス様は、多くの人から苦しめられましたが、何よりつらかったのは神から見捨てられたこと、すなわち神が苦しみを静観なさったとことでした。しかし、反対に、そのことで栄光をお取りになりました。

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2〜4)

   「試練にあった時こそ、信仰を使いなさい。」と神は教えます。ところが、祈っても神ご自身が沈黙なさることがあります。それは私達にとっては苦しみですが、その間、信仰が訓練されて育ち、平安の義の実をむすぶようになります。そして、祈りは聞かれていたことを知るのです。神は私達を愛するがゆえに、静観して訓練なさることがあるのです。

『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 へブル人への手紙 12:11)

   旧約聖書のヨブ記を読むとよくわかります。ヨブという人物は、この地上で味わうありとあらゆる患難を体験しました。これは悪魔がしたことですが、神は静観なさっています。
   神様は私達を真の意味で強くしようとして苦しみの道を通らせることがあります。私達にとっては、何か見捨てられているような気になりますが、そうではなく、神はあなたを愛するがゆえに信仰を訓練し、必ずあなたに平安の義の実をむすばせてくださいますから、決してつぶやかないようにしましょう。なぜ祈っているのにこんなことになるのかと思うとき、それは神があなたの信仰を訓練しておられるからです。ちゃんと祈りは聞かれています。神は必ず道を開いてくださいます。
   「イエス様の十字架を負う」あるいは、「キリストの死にあずかるバプテスマ」とは、ただ罪が赦され、強くされたというだけでなく、信じた私達は、信仰を訓練される道に入ったということです。訓練によって私達は、イエス様が復活で示されたように、神の栄光を見て、平安の義の実を結ぶようになります。肉の力で、見えるものに頼ってごまかそうとしたり、自分の力で何とかしようとしたりしないで、信仰を使ってイエス様の十字架を見上げ、感謝して前に進んでいきましょう。