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2016年7月17日
迫害されたイエス様
(新約聖書 マルコの福音書 15:1〜22)
妬みという動機

『夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。』(新約聖書 マルコの福音書 15:1〜5)

   当時、ユダヤ人社会は、ローマ帝国に支配されていたため、ユダヤ人達は死刑の決定権を持つローマ総督ピラトのもとにイエス様を連行しました。
   ピラトはユダヤ人達の言い分を確認するため、イエス様に「あなたはユダヤ人の王ですか。」と尋ねると、イエス様は「その通りです。」とお答えになりましたが、それ以外のことは、ただの一言もお答えになりませんでした。それは、ユダヤ人達がすでに答えを決めており、彼らに何を語っても意味がないことをイエス様はご存知だったので、無駄な議論を避けられたからです。

『ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた。それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言った。ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。』(新約聖書 マルコの福音書 15:6〜11)

   ピラトはイエス様に罪はないとわかっていたため、祭りの時に赦免する囚人にしてはどうかと提案しますが、祭司長達に扇動された群衆は、殺人犯のバラバを釈放するように求めます。
   ピラトは、祭司長達がイエス様を死刑にしたいのは、妬みによるものだと気づいていました。嫉妬は、私達の行動を左右する大きな原動力となります。嫉妬が原因で、意地悪をしたり、見返すために頑張ったりする例はよく聞きます。祭司長達は頭のいいエリートでしたが、彼らの動機はただの嫉妬です。
   私達は、自分の中に、怒りや妬みがあることを知る必要があります。アダムとエバの息子であるカインは、妬みによって人類初の殺人を犯しました。アダムとエバには、カインとアベルという息子がいましたが、ある時、二人が神様の前に捧げ物を持っていくと、神様はカインの捧げ物ではなくアベルの捧げ物に目を留められました。それは、捧げ物の中身ではなく、心から神を愛する彼の心をご覧になったからです。カインはこのことをひどく妬み、アベルに敵意を抱きました。この時、神様は、「怒りをおさめよ。」と注意なさいましたが、結局カインはアベルを殺してしまいました。このような怒りや妬みを抱く要素は、誰の中にもあるのです。

恐れという動機

『そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」と言った。すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。』(新約聖書 マルコの福音書 15:12〜15)

   ピラトは、無実のイエス様を釈放しようと試みましたが、群衆のきげんをとって、イエス様を十字架につける決定をします。
   人間の基準はこんなものです。自分の考えによってではなく、世間の顔色を見て自分の行動を決めてしまうのです。群衆はユダヤ社会の権力者である祭司長達を恐れて「イエスを十字架につけよ」と叫び、ピラトも世論を恐れてイエスを十字架につける決定をしました。皆、何かを恐れて、自分ではない自分を選択しています。祭司長達も、イエス様が無実であることは承知のうえで、妬みによって殺すことを選択しています。
   私達も同様に、周囲の人々の反応を恐れて、自分の意に反した選択をすることはないでしょうか。しかし、自分の考えと違う選択をするとストレスがたまります。人類は、ストレスを発散の方法を見つけては耐え抜こうとする生き方を繰り返してきました。科学や文明が進歩しても、何かを恐れて行動する生き方は、イエス様の時代からまったく変わっていないのです。

兵士による侮辱

『兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。
そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。』(新約聖書 マルコの福音書 15:16〜22)


   死刑の判決を受けたイエス様を、兵士達は庭に連れ出し、あざけり、暴力をふるい、侮辱の限りを尽くしました。イエス様の服を脱がせて王の色である紫の衣を着せ、3、4センチものとげがあるいばらを冠に編んで頭に食い込ませ、王の持つしゃくに見立てて葦の棒を持たせ、それを取り上げては叩き、ムチ打ち、つばきをかけ、文字に残すことも耐えられないような言葉で、イエス様を侮辱し、嘲弄しました。
   やがて兵士達は王様ごっこをやめ、イエス様に元の服を着せ、50〜60キロもある十字架を背負わせて歩かせましたが、兵士達からの暴力に痛めつけられたイエス様には、もう歩く力もありません。そこで兵士達は、通りすがりの人に無理やりに十字架を背負わせ、イエス様をゴルゴダの丘に連れて行きました。イエス様は何の悪いこともしていないのに、ここまでの扱いを受けてもなお、じっと黙っておられました。
   人はどうしてここまで残忍なことをすることができるのでしょうか。私達の中にも、多かれ少なかれ、差別したり意地悪したりする思いがあるものです。自分とまったく無関係ではありません。

なぜ人は残忍になれるのか

   現代社会において深刻な問題となっているテロリスト集団は、ある洗脳のテクニックを使います。それは、自分をダメだと思っている若者の恐怖心をあおり、このままではお前はダメだ、しかし、敵と戦うなら神はお前を愛してくれるだろうと教育し、残忍な行動ができる人間を作るのです。
   実は、私達の社会も同じ仕組みで動いています。親や上司の評価を恐れ、左遷されることを恐れ、不正にも従ってしまう心理は、祭司長を恐れ、群衆を恐れて、イエスを十字架につける心理と同じです。人は、恐れによって残忍な行動もとれるようになるのです。 このことを聖書は、死の恐怖の奴隷と呼んでいます。イエス様は、私達をこの死の恐怖の奴隷から解放するために、十字架にかかったのです。

『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 へブル人への手紙 2:15)

   聖書が教える死の恐怖には、二つの意味があります。
   一つは、神とのつながりを失うことです。人は、神と共に生きるように造られたのですが、永遠なる神とのつながりを失ったため、永遠に生きられなくなりました。つまり、人は死の状態になったのだと聖書は教えます。そして、神とのつながりを失ったことによって、人は愛されていることがわからなくなり、非常な不安と恐怖を感じるようになりました。キリストの体の一部として造られ、神の愛の関わりの中で生きるように造られた人間にとって、愛されている自分が見えないということは、たとえようもない不安であり、恐怖なのです。
   神が見えず、神に愛されていることがわからなくなった人間は、自分が愛を失ったのは愛される資格がないダメな人間だからだと理解しました。そのため、必死に、愛されよう、人からよく思われようとするようになったのです。しかし、本当の自分を隠し、人から良く思われるものを身に着け、人から良く思われたとしても、いつも心にはむなしさがあります。それは、神に愛されている自分が見えないからです。神の愛がわからないむなしさは、何かで代用して取り除けるようなものではありません。
   死の恐怖の奴隷とは、人から愛されよう、認められようと生きることです。そのためには、残忍な行為もいとわなくなってしまうのです。しかし、上の人間が喜び、出世できたとしても、人はむなしさから逃げ出すことはできません。
   もう一つの死の恐怖は、私達が一般的に想像する死、すなわち肉体の死です。神とのつながりがないため永遠に生きられないので、人の体はやがて朽ち果てる日が来ます。この恐怖によって、人は、「できるだけ長く豊かに生きたい、そのために富を得よう」と考えるようになりました。こうして、豊かさを求めて比較や嫉妬が生じ、富を得るために争いが生じ、その結果、戦争や残忍な行為が生まれるようになったのです。人と比較して「自分さえ良ければ」と考えることが、人を残忍にもします。しかし、何を手に入れ、豊かになったところで、いずれ私達の体が朽ち果てることからは誰も逃れられません。
   死んだらどこに行くのか、その保証もなく、どうして今希望を持って生きることができるでしょうか。私達が真の希望を持って生きるには、死の恐怖から解放されるしか道はありません。私達が抱えている問題の根底には、必ず死の恐怖があります。人を残忍にするのも、私達を支配している死の恐怖のせいです。
   すべての問題は、神に愛されている自分が見えない不安、肉体の死の恐怖の不安から発生しており、表面的な問題を解決しようとしたところで、同じ問題を繰り返します。むなしさから解放され、本当に希望を持って生きるには、死の恐怖の奴隷から解放されるしかありません。そのためにイエス様は十字架にかかられたのです。

イエス様が残忍な行為を耐え忍んだ理由

   イエス様は、弁明すれば助かったかもしれないにもかかわらず、一言も口を開かず、人々のなすがままにさせました。なぜでしょうか。そこには次のようなメッセージが込められているのです。

@わたしがあなたの罪を背負う

   イエス様は、人々からの罵りや暴力を無言で受け止めることを通して、「わたしがあなたの罪を受け止める」というメッセージを送っていらっしゃいます。子が親に暴力を振るうようなことがあった場合、暴力で制しようとする親もいれば、その暴力を受け止め、子ども自身を受け止めようとする親もいます。暴力でねじふせても、問題の解決にはなりません。苦しみを受け止めてくれる人がいない限り、私達は形を変えて罪の行為を繰り返してしまいます。
   イエス様が群衆にやりたいだけやらせたのは、私達を子として愛し、「わたしがあなたの罪を背負うから」と、受け止めておられることを示しています。イエス様は、子の苦しみを自分の苦しみとして受け止めておられるのです。

『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』(新約聖書 ペテロの手紙第一 2:24)

   イエス様が私達の罪を背負って十字架にかかられたのは、私達が罪から離れるためです。暴力をふるわれても子を愛する親のようにそれを受け止め、もう苦しみの中に戻ってはいけない、罪を犯さないようにと、語っておられるのです。

Aあなたの罪を赦している

   私達が残忍な行動をとってしまうのも、人に良く思われるために自分の意志ではないことを行なってしまうのもすべて、死の恐怖の奴隷だからだと聖書は教えています。ですからイエス様は、あなたが何をしようとも、それはあなた自身の思いではなく、自分で何をしているのかわからないでやっているのだと理解してくださっているのです。そして、「わたしはあなたを赦しているから、心配しなくていいよ。」と語っておられるのです。

『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 23:34)

Bわたしはあなたを愛している

   死の恐怖の大半は、神に愛されていることが見えない恐怖です。そこでイエス様は、ありとあらゆる残忍な行為に一言も発せず耐えることで、「何をされようとも、わたしはあなたを愛している」「わたしはあなたを裁かないし、あなたを赦している」と語っておられます。これは、十字架のはるか以前に神が預言しておられることです。

『彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
……それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。』(旧約聖書 イザヤ書 53:7〜12)

『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』(旧約聖書 イザヤ書 53:4〜5)


   イエス様は、私達の罪をとりなすために苦しみを受けられました。そして、その苦しみを通して、イエス様が私達の罪をすべて受け止め、赦してくださったと知ることで、私達の心に平安が与えられます。なぜ人は罪を犯すのか、なぜ残忍なことができるのか、それはすべて死の恐怖が原因です。それを取り除くには、あなたは愛されていることを知る必要があり、そのために、イエス様は黙って人々のすることを受け止められました。そして、十字架にかかり、私達の罪をとりなし、贖ってくださったのです。
   あなたが抱えている問題は死の恐怖であり、それを解決することができるのは、イエス・キリストしかありません。死の恐怖の奴隷から解放されるには、神があなたを愛してやまないことに気づくしかありません。それが十字架なのです。