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2016年7月3日
悲しみのあまり死ぬほどです
(新約聖書 マルコの福音書 14:27〜42)
頑張らなくてよい

『イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。』(新約聖書 マルコの福音書 14:27〜31)

   神は全知全能ですから、イエス様は、この後に起こるすべてのことをわかっておられるのですが、ペテロは、「私があなたを裏切ることなど絶対にない。」と断言します。
   ペテロは、「頑張ってイエス様についていこう」「頑張ればついていける」と考えていたのです。しかし、自分の力に頼っても、私達は、神に近づくことはできないのです。
   自分が頑張ることで神に近づこうとすることを「律法主義」と言います。自分の行いによって報酬を得る、ということですが、確かに世の中はこの仕組みで動いていて、頑張った人が評価されます。そのため、神の前にも、頑張って成果をあげてご褒美をいただこうという感覚に陥ってしまいがちなのです。しかし、神様は、私達が何かをするから愛するのではありません。何をしようとも変わらずに、すでに愛してくださっているのです。
   ペテロは、イエス様の言葉通り、この後裏切ってしまいますが、このことによって、初めて砕かれ、神様に近づく方法を学びました。それは、行いに対する対価ではなく、あなたを愛している神様の愛をただ受け取り、神様が差し伸べておられる御手にただしがみつくだけだということです。

神なしで生きる恐ろしさ

『ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」 』(新約聖書 マルコの福音書 14:32〜36)

   イエス様は、ご自分が十字架にかかることを明らかにし、まっすぐにその道を進んでこられました。それなのに、どうして十字架の直前になって、恐れ悶えて「この杯を取り除けてほしい」と祈ったのでしょうか。何がイエス様にとって、悲しみのあまり死ぬほどのことだったのでしょうか。
   イエス様は、「私はよみがえる」と、はっきり語っておられます。また、たとえ人間でも、愛する人や主君のために自分を犠牲にして死を選ぶ人がいるほどですから、イエス様ほどの覚悟を持って進んでこられた方が、ただ肉体の死に対して苦しみ悶えるとは考えられません。
   実はここに神の深いメッセージが込められているのです。
   聖書が教える死とは、肉体の死を指すのではなく、神とのつながりを持たないことです。生まれながらに神とのつながりを持っていない私達は、死んだ状態で生まれてきたわけであり、この体が朽ちる時、すべてが滅びます。このような状態の私達を、聖書は「死人」と呼んでいます。死人が神の言葉を聞いて生きる者になる、それが福音です。
   イエス・キリストが負ってくださる、私達が負うべき死とは、肉体の死ではなく、神との関係を断ち切るという本当の死です。イエス様は、そのことを恐れておられるのです。それは、十字架にかけられたイエス様の最後の言葉からもわかります。

『イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。』(新約聖書 マルコの福音書 15:34)

   イエス様が「わが神、わが神」と呼ばれたのは、父なる神と御霊なる聖霊のことです。三位一体の神がそのつながりを断たれる時、父なる神も聖霊様も、イエス様と同じ苦しみを味わっておられます。
   イエス様が、ご自分が悲しみ苦しむ様子を、3人の弟子に見せておられるのは、神との関係を持たずに生きること以上の悲しみはないことを、私達に伝えるためです。私達は、生まれながらに神との結びつきがないために、そのつらさがわかりません。神とのつながりを持って生まれたイエス様だけが、そのつらさを伝えることができるのです。
   神なしで生きるとは、人の力で安心と安全を確保しようとする生き方のことです。自分の力で安心安全を確保しようとすると、人からどう思われるのかが大切になり、富が大切になり、様々な問題が起こります。結局それはつらく、安心安全をもたらさないと、私達は知っています。しかし、神との結びつきのない私達は、それを選択するしかなかったのです。
   イエス様と出会い、神とのつながりによって安心安全を確保できるようになると、その生き方を変えることができます。ところが、私達の中には、まだ過去の習慣が残っているために、見えるものを選ぼうとして葛藤が生じます。イエス様は、神ではなく見えるものを選ぶ生き方がどれほどつらいかを、弟子にわからせたいと願われたのです。

なぜ十字架にかかったのか

   イエス様が受けるべき本当の死が肉体の死ではないのならば、なにも十字架という刑罰で死ぬ必要はなかったのではないか、なぜ十字架なのかという疑問がわいてきます。
   よく「イエス・キリストは、私達の罪の罰を代わりに受けて十字架にかかった」と言われますが、正確には、聖書は、「罪の罰」ではなく、「罪を背負った」と教えています。「罪」とは、神との関係を持たないことであり、死を意味します。このことが理解できると、十字架の意味がさらに深く理解できるようになります。
    私達を苦しめている罪とは、神との関わりがないため、神に愛されていることが見えない恐れです。自分の価値がわからず、自分が何者であるかわからない不安のため、人の愛を求め、物質を求め、争いと比較が生まれ、苦しみが生じます。これが、死がもたらす恐怖なのです。
   アダムとエバが、罪によって神の姿が見えなくなった時、裸である自分の姿を知り、恐れて隠れました。神とのつながりを失い、神に愛されていることがわからなくなると、人は「怖い」と感じます。そこで、本当の自分を隠して、人から良く思われて安心しようとします。今、私達がいろいろなもので自分を隠しているのは、神に愛されている自分が見えずに、恐怖を感じているからなのです。
   神は人間をご自分の一部として造り、愛し合う絶対的な信頼関係を持つものとして造りました。それを失うことは、人間にとって非常な恐怖であるわけです。このことを教えるために、イエス様は、ご自身が苦しみ悶える様子を弟子達にお見せになったのです。そして、この死の恐怖を取り除くため、私達を愛していることを見せるために、十字架にかかってくださったのです。
   イエス様は、十字架にかかる前こう言っておられます。

『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 15:12〜13)

   イエス様は、あなたを友と呼び、友のためにいのちを捨てて、どれほどあなたを愛しているかを示してくださいました。
   ペテロが、必死に頑張って、「神についていく」と言い張ったのは、頑張らなければ愛されないというこの世の価値観、律法主義の習慣によるものです。これが、愛されていることがわからない死の恐怖の奴隷の姿です。しかし、神は、私達がどんな罪人であろうと関係なく愛しておられるのです。

『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:8)

   十字架の目的は、罰を背負うためではなく、愛を明らかにするためです。「あなたがどんな者であろうと、私はあなたを愛している」と示すために、イエス・キリストは十字架にかかりました。ですから、愛されるための努力は必要ありません。神はあなたに、「あなたは私の一部として造られた、私の愛する子である」と、語っておられるからです。
   私達の苦しみの原因、罪の原因は、神の愛が見えないという死の恐怖です。そのために、怒ったり、落ち込んだりします。ですから、罪を滅ぼすとは、愛されていることを教えることなのです。それが、苦しみ悶えるほどのつらさであっても、イエス様はあなたを愛してやまないことを伝えるために、神との関係を断ち切って、十字架にかかられたのです。イエス様は、愛を示すため、死の恐怖を背負い、それを取り除くために十字架にかかったのです。

『だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。…』(旧約聖書 イザヤ書 43:1〜4)

   あなたが神の目に高価で尊い者であるがゆえに、神はあなたを贖い、招いておられます。神は、決してあなたを見捨てず、離しません。それは、あなたが何かできるからではなく、あなたを愛しているからです。そのことを示すために、イエス様は十字架にかかり、神との関係を断ち切って、本当の死を背負われたのです。

悪魔を滅ぼす

   イエス様が十字架にかかられたのには、もう一つ理由があります。それは悪魔を滅ぼすためです。アダムとエバをそそのかして、神との関係を失わせ、私達を死の世界に追いやった張本人の悪魔を滅ぼさなければ、また同じことが起きる可能性があり、完全に贖い出したことにはなりません。
   イエス様は、悪魔は初めから人殺しであり、偽りの父であると言っておられます。つまり、神が悪魔を造ったのではありません。神が創造した良きものが途中から悪に変わったわけでも、神が悪を造って人を苦しめたわけでもないのです。もしそうなら、自分が造った悪を背負って十字架にかかることになり、矛盾が生じます。聖書は悪魔の起源について触れていませんが、それは、私達が知る必要のないことだからです。大切なことは、過去がどうかということよりも、現実にどう対応するかということです。
   アダムとエバの状況を見てわかる通り、悪魔は偽りの情報を流します。そして、その偽りの情報を信じ込ませるものが、死の恐怖です。見えるものに価値があると言われて飛びついてしまうのは、恐れがあるからです。ご利益があるとか、たたりがあるとか言われて、つい言う通りにしてしまうのは、恐れがあるからです。見えるものに安心を求めて、信じてしまうのは、死の恐怖があるからです。この死の恐怖を滅ぼすものが、全き愛なのです。
   悪魔の実態は、死の恐怖です。その恐怖を滅ぼす武器は全き愛しかなく、それを手にするには、十字架で死ぬしかなかったのです。イエス様は、十字架の死によって全き愛を手に入れ、悪魔を滅ぼし、三日目によみがえって肉体の死に勝利できることを示されました。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 へブル人への手紙 2:14〜15)

   救い主が悪魔を滅ぼすことについては、すでに創世記3章で語られています。死の力を持つ悪魔を滅ぼし、私達を死から贖い出すために、イエス・キリストは十字架にかかる道を選択されたのです。「神との関係を断ち切りたくはないが、これをやらなければ、人を救うことはできない。」これがイエス様の決断です。イエス様は、中途半端に私達を愛したわけではなく、どんな苦しみもいとわないほど、本気で愛してくださったのです。こうしてイエス様は十字架にかかり、3日目によみがえられました。
   この全き愛で、悪魔は滅ぼされ、その結果、十字架以降、悪魔との戦い方が変わりました。以前は、イエスの御名によって悪霊を追い出すように教えられていましたが、十字架以降は、御言葉で戦うことが中心に教えられています。十字架以降は、悪魔との直接の戦いではなく、私達の中に残っている死の恐怖との戦いに変わったからです。
   私達が戦いに用いる神の言葉とは、十字架の言葉であり、それは、あなたを愛してやまないということに集約されます。この愛を知る時、私達は、恐れによって悪を選択してしまったり、悪い情報を信じてしまうことに、立ち向かうことができるようになるのです。
   十字架は、私達の罪の罰を身代わりではありません。そうした言い方も間違いというわけではありませんが、本当の罪とは神の愛が見えないことです。イエス様は、その罪を取り除くために、十字架にかかって愛を示してくださったのです。

『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:17〜18)

   救いとは、恐れが締め出され、死の恐怖の奴隷から解放されることです。神との関わりを持たずに生まれてきた私達は、御子を信じなければ、死人のままです。それがすでに裁かれている状態です。死人に罰は必要ありません。つまり、死は罪の罰ではありません。イエス様の十字架は罰の身代わりではなく、あなたを愛し、恐れから解放するためのものです。
   イエス・キリストは、十字架で死ぬことで、まことの死に至り、死の力を持つ悪魔を滅ぼし、愛を示して死の恐怖から解放し、復活することで肉体の死の恐怖からも私達を解放してくださいました。このことを信じるならば、死の恐怖の奴隷として生きる必要はまったくありません。
   イエス様は、口先だけの愛ではなく、まことのいのちをもってあなたを愛しておられます。どれほどあなたは愛されているか、ただその愛に気がつくことが、あなたに与えられた課題です。あなたが闇の中に身を隠そうとする生き方をやめ、恐れることなく光のもとに出てきさえすれば、光が満ちあふれていることに気づきます。これが罪との戦いです。
   十字架には、あなたを本気で愛していると伝えることと、悪魔を滅ぼすという二つの目的があったわけです。

誘惑に陥らないように

『それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」』(新約聖書 マルコの福音書 14:37〜42)

   「誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。」これが、イエス・キリストが、十字架にかかる前、最後に弟子に教えられたことです。誘惑とは、見えるもので安心安全を得ようとする誘惑です。この地上での出来事ばかりを見ると、不安になり、人、お金、物などに、安心安全を求めてしまいます。そうした誘惑に陥らないように、神に安心と安全を求め祈りましょう。
   「自分は大丈夫だ、絶対に神から離れない」と考える人は、祈らなくても大丈夫だと思ってしまいます。だから、ペテロは祈らずに眠れたのです。私達は弱いのです。自分は弱いものだという自覚を持って祈るなら、神のうちに平安を得られることに気づきます。御言葉を学び、賛美し、神に安心安全を求めて生きましょう。