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2016年6月26日
神はすべてをご存じ
(新約聖書 マルコの福音書 14:10〜26)
救われた者が神を裏切ることができるのか

『ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。』(新約聖書 マルコの福音書 14:10〜11)

   なぜユダはイエス様を裏切ろうと考えたのでしょうか。それは、イエス様の目的と自分の目的が異なることに、ユダが気づいたからです。彼は、ほとんどの部族が滅び国家を失ってしまったイスラエルが、もう一度ダビデが築いたような王国によみがえることを期待し、イエス様についていけば、その目的が達成できると思っていたのです。ところが、イエス様が教える神の国とは、地上のものではなく、私達の中に実現するものだということがわかり始め、さらに、パリサイ人達がイエス様を殺そうとしていることに気づいたので、ユダはイエス様についていっても自分が理想とする国家は作れないと判断し、イエス様を売ろうと決意したのです。
   当時イエス様には、12弟子の他にも多くの弟子がいましたが、イエス様のメッセージが自分の考えと異なる、理解できないと言って、離れていった弟子達が大勢いました。聖書は、このような人々に対して、彼らは初めから仲間ではなかった、すなわち、初めから救われていなかったのだと教えています。この地上での成功や富を得ることを目的にイエス様を信じたのであれば、それは単に御利益を求めて信じたのであって、そういう人は救われていないのです。
   自分が救われたと言えるかどうか、その決め手は、自分の置かれている現状に気づいているかどうかです。その現状とは死です。どんな富を手にしようとも、どんな立派な行いを積もうとも、体が滅びる時、死はすべてを飲み込んでしまいます。つまり、人にはまったく希望がないのです。死によってすべて失われるなら、人は生きているようであっても死んでいて、何かしているようであってもしていないのと同じことです。イエス様は、この地上に生きている人を「死人」と呼ばれました。
   自分はただ死を待つだけでどうにもならないという現状に気づくなら、人にできることは、ただ「助けてください」と叫ぶことしかありません。そして、死の世界の外にいる方、神に助け出してもらうしかないのです。この現状に気づき、神に「私を助け出して下さい」と祈る時、神は、誰であれ罪を問わずに助け出してくださり、その人を天国に連れて行ってくださいます。これが神の福音です。自分は罪深く、死を待つしかない状態だと気づくとき、人は救われるのです。これが、神と人との関係を気づく第一歩です。
   ところが、そうした自分の現状を無視して、この地上で成功や富を得るために神を求めても、神との関係を築くことはできません。そういう人は、自分の目的を達成できないと分かると、ユダのように神を捨てるのです。
   しかし、一度神に救われて関係を築いた人は、イエス様が自分の救い主であることを否定できなくなります。その人の生活がどんなに堕落しようとも、絶対に神から離れることはできません。もし、途中でイエス様が神だと信じられなくなり、他の神様のほうが御利益があると思って離れることができるなら、そういう人は、初めから救われていなかったのです。救われている人は、決して神を否定する行為をすることはできません。これによって、救いを確認することができます。
   神との関係が回復すると、罪はすべて赦され、天国に行くことができるようになります。こうして人は初めて、死ぬしかない世界の中で希望を持って生きることができるようになります。行いが立派だから救われるわけではありません。ただ神に「助けて」と言えば、神は誰であれ助けてくださいます。「主イエスを信じなさい、そうすれば救われる」と聖書は教えています。人がイエスを主だと信じられるようになるのは、神が人を救い、信仰を与えてくださるからです。信仰を通してイエスが主であると告白できるようになり、救われたと告白できるようになるのです。

御手を差し伸べ続ける神

『種なしパンの祝いの第一日、すなわち、過越の小羊をほふる日に、弟子たちはイエスに言った。「過越の食事をなさるのに、私たちは、どこへ行って用意をしましょうか。」そこで、イエスは、弟子のうちふたりを送って、こう言われた。「都に入りなさい。そうすれば、水がめを運んでいる男に会うから、その人について行きなさい。そして、その人が入って行く家の主人に、『弟子たちといっしょに過越の食事をする、わたしの客間はどこか、と先生が言っておられる』と言いなさい。するとその主人が自分で、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれます。そこでわたしたちのために用意をしなさい。」弟子たちが出かけて行って、都に入ると、まさしくイエスの言われたとおりであった。それで、彼らはそこで過越の食事の用意をした。』(新約聖書 マルコの福音書 14:12〜16)

   過越の用意のできた広間について、イエス様が事細かに指示しておられるのは、神はすべてご存じであり、それゆえ、すべてのことを益とすることができるというメッセージです。人は失敗し、過ちを犯します。しかし、すべてをご存じの神は、脱出の道も知っておられます。神は私達の問題をすべてご存じで、脱出の道を用意することができますから、信頼し、あきらめずにその道を探しなさいと語っておられるのです。

『夕方になって、イエスは十二弟子といっしょにそこに来られた。そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう」とかわるがわるイエスに言いだした。イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに鉢に浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。』(新約聖書 マルコの福音書 14:17〜21)

   この出来事は、他の福音書と読み比べると、よりよく様子がわかります。イエス様は、本人にしかわからない言い方をして、裏切る者が誰かを知っていることを伝えておられます。イエス様は、ユダが裏切ることを選択するとわかってもなお、ユダに呼びかけ、悔い改めを促しておられるのです。これが神の愛です。
   今も、神はすべての人を救いたいと願って、手を差し伸べておられます。神は決して人をさばいたり、罰を与えたりしません。よく、終わりの日に神がすべての人をふるいにかける『最後の審判』があるなどと言われますが、聖書には「最後の審判」という言葉はありません。むしろ、「わたしはさばくためではなく、救うために来た」とイエス様は語っておられます。神は誰ひとりさばいたり滅ぼしたりすることを望まず、すべての人を救いたいと願っているのですが、人間の側がそれを拒否してしまうのです。
   神がそれほどまでに人を救いたいなら、強制的に信じさせればいいではないかという人もいますが、それでは人は人でなくなってしまいます。神は人間に人格を与え、一人一人に意志をお与えになりました。その意志を奪い、強制的に変えるということは人間ではなくなることを意味します。ですから、神様は、人が正しい道を選択できるように導き、呼びかけ続けるのです。
   ユダに対しても、彼を愛し、最後の最後まで誤った道を選択しないように促しておられるのですが、ユダはその言葉に耳を傾けることなく、イエス様を裏切ってしまいます。

神はすべてを益とする

『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:28)

   神はさばく神ではなく、救う神です。神は誰に対しても同じように愛を注ぎ、すべてのことをご存じの上で、私達に起こるすべてのことを益とし、より良い方向に進むよう、働きかけてくださっています。ただし、神がすべてを働かせて益とすることができるのは、神を愛する人です。あなたが神を愛し続けるなら、どんな人生であろうと、神は益に変えることができます。ですから、神は、あなたが神に応答できるように、私達の心に働きかけ、呼びかけ続けておられます。

『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:13)

   「志」は、他の訳の聖書では「願い・思い」とも訳されています。神は霊ですから、神の思いは肉の目や耳で見たり聞いたりするものではありません。神は、私達の心に直接働きかけられます。あなたの正しいと思う道が間違っている時、神は「あなたの人生それでいいのか」とあなたの心のドアを叩きます。するとあなたは心の中にむなしさを感じます。これは、たとえ神を信じていない人であっても変わりません。心のむなしさ、不安は、どこか間違っているという神様からのサインです。
   この時、神と向き合い、自分は死を待つだけの存在だという現状に気づき、神様に助けを求めて、自分の道を是正することができれば幸いです。私達は、いつどこで神を求めたのか自分では気づかないことも多いのですが、心のむなしさつらさを感じて神に助けを求め、救われました。その後も、私達が間違った道を進もうとすると、神は心のドアを叩くことを繰り返します。こうして、神に心を向け、神のために生きると決心し、何をしたらいいか神に聞くなら、神はあなたの心に願いを起こさせ、志を立てさせてくださいます。

神からの思いかどうかを判断するには

   心の中に願いが起きた時、それが神からのものかどうか、判断に迷うことは多々あります。私達の中には、神の思いと同時に、肉の思いも存在します。それは、死の世界に閉じ込められている私達が、その恐怖から逃れようとしてしがみついている、富や人の愛を求める思いのことです。この肉の思いが、神が発信する御霊の思いの邪魔をしています。では、自分の心に浮かんだ思いが神からのものなのか、それとも肉の思いなのか、どのようなものを判断の基準にすればよいのでしょうか。

1.御言葉

   普段から御言葉に親しんでいると、少しずつ肉の思いと御霊の思いの区別がつくようになってきます。御言葉によって、チェックする習慣をつけましょう。御言葉に親しむことなく、心に浮かぶ願いを何でもかんでも神からの思いだと信じ込んでしまうと、自分の過ちを神のせいにして、神に失敗の責任を押しつけるようになってしまいます。自分の思いを御言葉に照らし合わせて歩みましょう。

2.祈り

   普段から祈って神と親しい交わりしていなければ、心に浮かぶ思いが、神からの思いかどうかを判断することはできません。祈っているうちに、心に浮かんだ思いがだんだん小さくなり、消えていくならば、それは肉の思いです。しかし、神からの思いは消えることはありません。このように、祈ることを繰り返して、神様に導かれることができます。

3.信仰のある人に相談する

   信仰の指導者に相談することです。神からの思いならば、相談相手も共に祈って神からの思いであることを確認できます。止められることを恐れて相談できないなら、それは初めから神からの思いではないのでしょう。この人なら私の気持ちをわかって同意してくれるだろうという人に相談しても、神からの思いかどうかを判断することはできません。信仰の指導者に相談することが大切です。

   あなたが神のために生きていきたいと願うなら、いつも神に祈り、心に浮かぶ思いが神の願いかどうか神様に尋ねて進みましょう。そうすることで、すべてをご存じの神は、必ず脱出の道を用意してくださり、すべてを益としてくださいます。願いが来るたび、こうして一歩一歩進むなら、やがて振り返った時、まことに神はすべてを働かせて益としてくださるお方だと知ることができるのです。
『神は、御心のままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことをつぶやかず、疑わずに行いなさい。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:13〜14)とあるとおり、神があなたに願いを起こしている可能性があるのですから、それが神からのものかどうか、願いが消えないかどうかチェックし、進んでいきましょう。そうするならば、神はあなたのすべてを益とすることができるのです。

契約の血

『それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。まことに、あなたがたに告げます。神の国で新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。』(新約聖書 マルコの福音書 14:22〜26)

   イエス様が、パンをご自身のからだとして、これを食べよと言われたのは、あなたはキリストのからだの一部だということを表しています。パンを食べることを通して、「私はいつもあなたと共にいる。あなたの中にわたしはいる。あなたはわたしの一部だ。だから心配するな。」ということを伝えておられるのです。人は、神が目に見えない方であるために、自分は神から見捨てられたのではないか、神はどこにおられるのかと不安になることがあるものです。しかし、自分は神のいのちで造られ、神の体の一部だということを忘れなければ、神が自分を見捨てることはないとわかります。ただ自分が神の言葉に従おうとしない時、平安がないということなのです。
   次に、「契約の血」という言葉が示す神と私達との契約とは、罪が赦されるという契約です。罪という言葉には、二つの意味があります。第一の意味は死です。死とは、神との関わりがないことですが、便宜的にこれを罪Aと呼ぶことにします。つまり、この契約の一つ目の意味は、あなたから罪A(死)は取り除かれたという契約です。この罪Aが取り除かれた者は、イエス様を信じられるようになります。あなたがイエス・キリストを信じられるなら、すでにあなたは罪A(死)から贖い出されていて、永遠のいのちを持っており、終わりの日に必ずよみがえると、イエス・キリストは言われました。
   もう一つの意味は、肉の思い・肉の行いであり、いわゆる道徳的な罪もこれに含まれます。これらの罪を、便宜的に罪Bと呼ぶことにします。
   イエス様を信じることで、もちろん罪Bも赦されます。ただし、この罪に関しては、口で言い表さなければなりません。罪Bは、私達の心が神に向かないように、神との関係を邪魔するものです。ですから、私達はこの罪と戦って、洗い流す必要があります。そうすると、心が神に向き、神が信頼できるようになり、心に平安が訪れます。クリスチャンになったのに、心に平安がないという場合、それは罪Bが放置されていることによるものです。神はすべての罪を無条件に赦してくださるのですから、罪Bを言い表して、取り除いていただきましょう。
   イエス・キリストを信じる者は、すでに死が取り除かれ、滅びることはありません。しかし、神への信頼を築くには、罪Bと戦う必要があります。罪Bを神の前に言い表すならば、神が罪を洗い流してくださり、平安を手にすることができます。罪Bを抱えたままでも、天国に行くことはできます。しかし、平安を手にしたければ、罪Bを言い表さなければなりません。

   さて、ユダが悪魔にそそのかされてイエス様を十字架で殺すことに成功したということは、悪魔が勝利したということになります。ところが、最初からイエス様はこれらのことを全部知っておられたわけです。そして、それを逆手に取って、十字架を通して悪魔を滅ぼし、罪を赦す恵みの時としてくださいました。これが、すべてを益とすることができる神です。神様は、どんな状況でも益とすることができるのです。
   今日十字架は購いの象徴となりました。最も厳しい処刑のシンボルであった十字架を、今、私達は胸につけて神の愛の証しとしています。なぜそうなったのでしょうか。神がすべてをひっくり返したからです。人の目には最悪に見える状況をひっくり返すことができる、これが神なのです。