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2016年6月19日
できることをした
(新約聖書 マルコの福音書 14:1〜9)
心の正しさ

『さて、過越の祭りと種なしパンの祝いが二日後に迫っていたので、祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。彼らは、「祭りの間はいけない。民衆の騒ぎが起こるといけないから。」と話していた。』(新約聖書 マルコの福音書 14:1〜2)

   いよいよイエス様が十字架にかけられる時が近づいてきました。パリサイ人達は、イエス様を殺そうとたくらんでいましたが、民衆に騒がれないように、過越の祭りの間は何もしないことにしました。これは、民衆に配慮しているように見せながら、実は、自分が悪く思われないように防御している姿です。人間はどんな時でも、人からよく思われたいという意識が働いているのです。

『イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓に着いておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。』(新約聖書 マルコの福音書 14:3〜5)

   ある女性が、300デナリ以上する高価な香油をイエス様に注いだ時、弟子達は非常に憤慨しました。300デナリは、今の金額にすると300万円くらいと考えられます。それを売って貧しい人達に施してあげればいいのに、という弟子達の主張はもっともです。しかし、ここで重要なのは、彼らの心です。「憤慨」して「厳しく責めた」彼らの心は、怒りに満ちていました。神様は、私達が何を言ったか、何をしたかではなく、その心をご覧になっています。
   なぜ人の心に怒りが生じるのか、それは、律法で人をさばくからだと聖書は教えています。律法とは、「ねばならない」という自分の心を拘束する規定のことです。私達は「○○でなければならない」「○○すべきだ」と、心の中に様々な規定を持つことで、自分を戒め、さばいて生きています。それは同時に、同じ規定で人をさばき、その規定に反する人に怒りを感じるということです。その結果、人を愛せなくなるのだと聖書は教えます。
   なぜ律法が生まれたか、それは、人から愛されようとして、立派な行いを目指すからです。人は神に愛されていることに気づいていないため、愛を得るために、人からよく思われようとして生きています。人の期待に応えることで愛されようとして、「○○をすれば愛される、称賛される」との思いから、「○○しなければならない」という律法が生まれました。その結果、律法を守るために頑張り、律法を守れないと落ち込んで自分を責め、さらには同じ律法で他人をさばくようになりました。頑張ることが、自分を苦しめるようになってしまったのです。そして、律法で愛されようとすることで、ますます神の愛が見えなくなってしまいました。
   この時の弟子達の問題は、言っていることが正しいかどうかではなく、その心に怒りがあるということです。同様に私達も、自分の中に怒りが生じることが問題だと気づく必要があります。

立派なことを行うとは

『すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」』(新約聖書 マルコの福音書 14:6〜9)

   彼女の行動を、弟子達は「むだなこと」と言いましたが、イエス様は、「立派なこと」と言われました。「立派なこと」と訳されているギリシャ語は「カロス」と言い、外側の美しさを表す言葉です。いったい何がイエス様にとって、美しかったのでしょうか。
   聖書は、私達はキリストの体の一部であると教えています。一つの体に様々な器官があるように、一人一人が異なる役割を持っているということです。手には手の働きがあり、足には足の働きがあります。イエス様の目から見て美しいのは、各自が自分の役割に気づき、自分のなすべきことを行っている姿です。
   たとえば、足は私達の体を支えて歩くすばらしい器官ですが、手のように器用なことはできません。もし足が手のような働きをし、手が体を支えて歩くとしたら、それは大変なことです。ところが、人間は面白いもので、自分にできることには興味がなく、できないことをうらやましがる傾向があります。しかし、それをやろうとすると、当然、本来自分に与えられている役割ほどうまくいきませんから、怒りや嫉妬が生じ、うまくできればできたで、自分を誇るようになります。
   お金のない弟子達は、高価な香油を捧げた女性に嫉妬しました。当時の弟子達は、誰が一番偉いか議論し合うほど、人から良く思われ、偉くなりたいと願っていました。これは、本来私達のあるべき姿ではない間違った生き方です。
   できないことを頑張るのではなく、神が一人一人に与えた役割を行なえばいい、ということに気づくと、嫉妬するようなことはなくなり、互いに尊敬し合い、愛し合う関係を築くことができます。ところが、足が手になろうとしたり、手が足になろうとしたりするように、自分にできないことを頑張って認められようとすると、途端にまわりを裁くようになり、心が逆方向を向いてしまいます。
   「立派なことをした」とは、この女性は自分の役割に気づいて、自分にできることをしたということです。弟子達は愛されようとして、自分にできる以上のことをやろうとしましたが、この女性は愛されようとは思いませんでした。見返りを求めてではなく、自分にとって当たり前のこと、できることをやっただけですから、自分を誇りたいとも思いません。それが、「できること」を行った美しさなのです。
   イエス様は、間もなく自分は殺されると話していましたが、弟子達はそれを信じず、危機感がありませんでした。しかし、この女性はイエス様の言葉を信じ、一緒にいられる時間はわずかしかないことを悟り、自分にできることをさがして、香油を注いだのです。

   余談ですが、「できることをした」という箇所は、いくつかの聖書では、「できる限りのことをした」と訳されています。できる限りのことをしたからイエス様がほめたのか、できることをしたからほめたのかでは、天と地ほどの差があります。ここで使われているギリシャ語は、「持つ」と「行う」の二つだけで、両方とも過去形です。つまり、「持っていた・行なった」という語で、直訳は「持っていたもので行った」となり、それが「できることをした」という訳になりました。「できる限り」という訳には、できる限りのことをしなければ神に愛されないという翻訳者の解釈が反映されており、本来そのような語は含まれていません。
   イエス様は、この女性が頑張ったから感動したのではなく、彼女の心をご覧になりました。この女性ができることを行なった根底にあるのは、感謝です。聖書は、あなたがどんなに立派なことをしても愛がなければ何の役にも立たないと教えています。彼女の心は感謝にあふれていました。反対に、弟子達の心は怒りにあふれていました。大切なことは、何ができるかではなく、感謝する心があるかどうかです。

なぜ感謝にあふれたのか

   この女性は、ラザロの姉妹のマリヤであることがわかっています。なぜ彼女に、感謝する心が満ちあふれるようになったのか、見てみましょう。

『マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 11:26また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 11:20〜27)


   マリヤには、マルタという姉とラザロという兄がいます。ある時ラザロが病気になり、マリヤとマルタはイエス様が来ていやしてくれることを心待ちにしていましたが、イエス様の到着前にラザロは死にました。ようやくイエス様が到着なさったと聞いて、マルタは迎えに出ますが、マリヤは呆然としています。
   イエス様を迎えに出たマルタは、「もっと早く来てくださっていれば」とつぶやきますが、気を取り直し、「今でも、あなたは何でもできると信じます。」と告白します。実は、イエス様は到着前、共にいる弟子達に、ラザロをよみがえらせると宣言なさいましたが、弟子達は信じませんでした。しかし、マルタは当時弟子達よりもはるかに信仰がありました。そこで、イエス様は、「あなたの兄弟はよみがえります。」と、マルタにおっしゃいました。
   ところが、マルタはこの言葉を聞いて、「この地上が終わったら人がよみがえるのだ」と解釈し、今よみがえるとは信じませんでした。イエス様は、はっきりと「わたしを信じる者は死んでも生きる。決して死ぬことはない」とおっしゃいました。どう考えても、ラザロは今生きていると言っておられます。イエス様は「今、ラザロが生き返ると信じますか」とマルタに尋ねますが、マルタは「あなたはキリストだと信じています」と返します。ラザロがよみがえるとはとても信じられなかったのです。
   私達も問題にぶつかった時、「いくら聖書に約束されていても、私の問題が解決するとは思えない」「いつかは解決するかもしれないけれど、今は、神が与えた試練だと思って我慢します。」「自分がつらいのは自分のせいだから。」そう言っていないでしょうか。マルタも同じ気持ちだったのです。

『こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。マリヤはそれを聞くと、すぐ立ち上がって、イエスのところに行った。さてイエスは、まだ村にはいらないで、マルタが出迎えた場所におられた。マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」イエスは涙を流された。』(新約聖書 ヨハネの福音書 11:28〜35)


   次にイエス様は、マリヤを呼びました。マリヤは、以前マルタがつぶやいた時も、熱心に御言葉に聞き入っていた女性です。ところが、そのマルタもつぶやき、信仰がないことがわかりました。
   この時イエス様が「霊の憤りを覚え」「涙を流された」のは、不信仰に対する涙です。「ラザロはよみがえる」と繰り返し言っているのに、誰ひとり信じようとしないで、悲しんで泣いています。私達が神の言葉を信じない時、神は涙を流されるのです。イエス様は、誰も信じようとしないので、自らラザロのところに出向き、祈りました。

『そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。』(新約聖書 ヨハネの福音書 11:36〜45)


   こうしてラザロはよみがえりました。よみがえったラザロの姿を見たとき、マリヤやマルタはどのような心境だったでしょうか。感動と同時に、なぜ自分は神様の言葉を信じることができなかったのか、なんと自分は不信仰だったのかという思いにおそわれたのではないでしょうか。そして、イエス様が涙しておられたのは、自分の不信仰の罪のゆえだったのだと気づくのです。
   自分の罪深さに打ちのめされる彼女達に対して、イエス様は、責めることも、私の言った通りになっただろうと諭すこともなく、ただ「ほどいてやって、帰らせなさい」と声をかけられました。優しく語りかけるイエス様を見上げた時、マリヤとマルタは、自分達の罪が赦されたことを悟るのです。
   この後、彼女達は変わります。イエス様が涙するほどの罪を犯したにもかかわらず、イエス様は赦してくださったとわかったからです。弟子達はイエス様が死んで復活するとは信じませんでしたが、彼女達は信じました。イエス様にとって、この地上で残された時間がわずかであることがわかった姉妹は、いったいどのように感謝を表すことができるだろうかと考え、マルタは以前とは打って変わって一言もつぶやくことなく、イエス様に給仕するようになりました。以前は、「私一人が頑張って、マリヤは何もしない。マリヤも働かせてください」とつぶやいていたのに、喜んで仕えるように変わりました。そして、マリヤは自分が持っていた香油をイエス様に差し上げることにしました。彼女はそれが惜しいとは、まったく思いませんでした。自分にできることを見つけたのです。
   イエス様が「この女性のしたことは世界中に、語りつがれるでしょう」と言うほど、感動なさったマリヤの行動の背景には、このように自分の罪が赦されるという出来事があったのです。罪が赦された経験が、彼女の心の中に、感謝の気持ちを満ちあふれさせたのです。

罪赦されたと気づく人はできることをする

   自分の罪が赦され、神に愛されていることに気づくなら、あなたの生き方は変わります。できることをするようになるのです。できないことをやって誇ろうとし、人をさばき、少しでも偉くなろうとしてしまう生き方から、解放されるのです。弟子達は、残念ながら、この時点ではまだ罪が赦された経験をしていません。彼らが自分の罪が赦されたことを知るのは、この後、イエス様を裏切ってからです。その時、彼らは罪赦される経験をして、変わります。弟子達の変わりようは、使徒の働きを読むとわかります。彼らはその後、一度も誰が偉いか議論していません。イエス様が十字架にかかる前は、何度となくそのことで争い、ほめられるために頑張ってきた彼らですが、罪が赦されたと知ってからは生き方が変わり、自分の役割に気づき、できることをし、協力して動くようになりました。罪が赦されたことに気がつくと、人はできることをするようになるのです。
   もしあなたが、人をさばいたり、自分を誇ろうとしたりしていることに気づいたら、罪が赦されたことに気づけるように求めましょう。そのことに気づくなら、感謝があふれ、できることをするように変わります。