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2016年6月12日
終わりの日
(新約聖書 マルコの福音書 13章)
終わりの時について

『イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。』(新約聖書 マルコの福音書 13:1〜4)

   弟子達が神殿の偉大さに感嘆した時、イエス様はこの神殿は壊れると言われました。これを聞いた弟子達は、これは終わりの日の話だと理解し、それはどのように起こるのかと、イエス様に尋ねたのです。聖書には、終わりの時について、イエス様が直接説明しておられる言葉と、イエス様が語った言葉を弟子が解釈したものとがあります。両方を同列に読むのではなく、まずイエス様の言葉を基本に読みましょう。
   終わりの時とは、旧約聖書から続いている教えで、死が滅ぼされて神の国が実現する時のことです。イエス様は、宣教を開始するにあたり、「神の国は来た」。つまり、「終わりの日は来た」と言われました。マルコの福音書は、「あなたが悔い改めて福音を信じるなら、神の国はあなたの中に来た」というイエス様の言葉から始まり、この13章では、神の国について比喩を使って説明しておられます。聖書の言葉は、その当時の人々に語られたものであると同時に、今日の私達に向けての霊的な意味が含まれています。これらの言葉は今日の私達にどのような意味をもって語られているのでしょうか。

よみがえりの時に起こる二つの出来事

   人は、「終わりの時」という言葉から、勝手にイメージを膨らませますが、イエス様自身は次のように語っておられます。

『わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:44)

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24)

   「終わりの日」とは「私達がよみがえる時」です。よみがえりには、魂のよみがえりと、体のよみがえりの二つがあります。
   第一に、イエス様の福音の言葉を聞いて信じる者はよみがえると言われます。これが、いわゆる「救い」であり、魂のよみがえりです。アダムが犯した罪によって人は皆、生まれながらに神との関わりがない状態で生まれました。神との関わりがない状態を、聖書は死と定義します。つまり私達は皆生まれながらに死人です。「死人が神の言葉を聞く時、死からいのちに移される」とは、神の呼びかけに応答して、イエス様を信じて救われ、死んでいた魂がよみがえったということです。これが第一の終わりの日です。
   次に、魂がよみがえった者の体がよみがえる日があります。朽ちる肉体が朽ちない体に変えられ、実際の神の国に行く日です。これが二番目のよみがえりの時です。

『終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:52)

   「終わりの日のラッパ」とは、私達の体が死を迎えることの比喩的表現です。私達の体が朽ちる時、一瞬で朽ちない体に変えられるというこの出来事が、体のよみがえりであり、第二の終わりの時です。
   聖書は、私達の体が死を迎える時、一瞬でよみがえると語っているのですが、当時の人々は、死んだあとは眠った状態になり、終わりの日のよみがえりは、将来のことだと思っている人が大勢いました。そこでイエス様はある時、弟子達に、モーセとエリヤがよみがえっていることをお見せになり、神がご自身を『アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神』と現在形で言われていること、『神は死んだ者の神でなく生ける者の神である』と言われていることを思い起こさせ、それは死んだ人々はすでによみがえって、今、神と共に生きているからだと説明して、私達に思い違いをしてはいけないとお教えになりました。
   また、ラザロを復活させた時も、イエス様が「ラザロはよみがえる」と言われたのに、誰も信じず、信仰の篤いラザロの姉妹達も、「終わりの日によみがえると信じています」と語り、ラザロがすでに復活して神と共にいるとは信じていませんでした。それを聞いたイエス様は涙を流し、ラザロを生き返らせたのです。こうして、イエス様は、将来ではなく、今よみがえっているのだということを示してくださったのですが、人々はなかなか理解できませんでした。
   現在も、当時と同じように、人は死後、魂だけで生きられるだろうと考える人も大勢います。しかし、聖書はそのようなことを教えていません。これらの誤解が生まれた理由の一つには、黙示録を字義通り解釈しようとしたこともあるでしょう。黙示録は、比喩で書かれた文章で、字義通り解釈するのではなく、霊的な意味を理解しなければならないものなのです。
   聖書が教えている内容は、実にシンプルです。「イエス様を信じるなら、死んでいた魂が生きるようになり、あなたの魂はよみがえる。そして、イエス様を信じて永遠のいのちを持つようになった人々は、例外なく、肉体が滅んだら、朽ちない体に着替えて天国に行き、永遠に生きる者となる。」ということです。たとえ、途中で罪を犯したとしても、一度救われた人の救いが取り消され、いのちを失うということはありえません。これは、福音の理解の重要なポイントです。永遠のいのちを持つ人は、自動的に天国に行きます。ですから、救われた人は終わりの日をもう迎えていると言えるのです。

聖書が教える死後

『愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:2)

   「今すでに神の子ども」とは、すでに魂は生き返っているということです。そして、「キリストの現れ」とは、肉体が滅び、朽ちない体に変えられ、天国でキリストと直接お会いするということです。その時のことはわからないけれど、すでに魂は生き返って神の子とされているのだから、必ずキリストに似た者となるから、心配しなくても良いということです。

『キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:3〜5)

   「死」とは、訣別を意味します。生まれながらに死んでいた私達は、キリストの死にあずかるバプテスマによって、死の状態と訣別しました。十字架で死んだキリストがよみがえったように、私達もよみがえります。つまり、イエス・キリストを信じた者は、滅びることなく、よみがえって天国で新しい歩みを始めるのです。

『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。』(新約聖書 ヨハネの福音書 10:28)

   イエス・キリストに継ぎ合わされた者は、決して滅びることはありません。この箇所は、原文では非常に強調した言い方になっています。私達は、終わりの日を迎えて一瞬にして朽ちない体に変えられ、天国に行きます。

   いずれにしても、終わりの日とは、よみがえりを表す言葉です。魂はイエス様を信じた時によみがえり、体は肉体の死を迎えた時によみがえるのです。
   魂がよみがえった時、私達は神様から信仰をいただきました。その信仰は成長します。イエス様は私達を友と呼び、私達を愛し、私達からも愛されたいと願い、神への信頼を育てて、互いに信頼しあう関係になることを望んでおられます。神を信頼することが神を愛することです。そのために、救われてから肉体がよみがえるまでの間、地上で信仰の訓練をなさいます。地上で出会う様々な患難によって、私達の信仰は育ちます。黙示録やマルコ13章は、終わりの日、すなわちよみがえりの時までに、様々な患難に出会うことを、比喩を交えて教えています。

終わりの日に備える

『そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名のる者が大ぜい現われ、『私こそそれだ。』と言って、多くの人を惑わすでしょう。また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。』(新約聖書 マルコの福音書 13:5〜8)

   いつの時代も、様々な宗教や教えが存在し、これが本当の神だ、ここに幸せがあるといろいろな惑わしが存在します。また、いつの時代も世界各地で戦争があり、どこも戦争が起こる可能性があります。また、いつの時代も世界各地で地震やききんの災害はあります。神様は地上における様々な問題を示し、そうすると人は不安になって見えるものにしがみつこうとしてしまうものですが、神を信頼するように気をつけなさいとイエス様は教えておられます。これが信仰の訓練です。これらの患難は、神が引き起こすわけではありませんが、避けることのできない患難を静観することを通して、神は私達を訓練なさいます。

『だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です。また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます。』(新約聖書 マルコの福音書 13:9〜13)

   キリストを信じる者は、迫害を受けます。迫害を恐れてしまっては、神を証しすることができません。神様は、迫害にあっても神が助けるから心配はいらないと励ましておられます。迫害にあっても、忍耐して神を信頼する人は平安が得られます。このように、肉体の死を迎えるまでの間、信仰の訓練を受けるのです。

『……そのとき、あなたがたに、『そら、キリストがここにいる。』とか、『ほら、あそこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もって話しました。……その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。……』(新約聖書 マルコの福音書 13:14〜27抜粋)

   この後、実際にエルサレムは滅ぼされますが、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち…」とは、私達の肉体が滅びる時を表した比喩です。肉体が滅びる時、あなたにとってこの世界はすべて消えてしまいます。その時、キリストが来て、私達の体を一瞬にして朽ちない体に変えてくださるのです。

『……この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです……目をさましていなさい。』(新約聖書 マルコの福音書 13:28〜37抜粋)

   あなたの体が滅びる時、あなたにとって、この天地は滅び去ります。しかし、神の言葉は滅びることはありません。あなたの体がいつ終わるか、それは誰にもわかりません。もちろん、神は知っておられますが、あなた自身はそれがいつだかわからないのですから気をつけなさいと、イエス様は注意を促しておられます。
   終わりの時とは、すべての人にとって肉体が滅びる死の時です。イエス・キリストを信じない人にとっては、まさに終わりの時であり、永遠の死を迎える時です。しかし、救いを受けた私達にとっては、体がよみがえる素晴らしい時です。神様は、その時に対して、目を覚まして準備しなさいと、何度も繰り返して語っておられます。神の救いを受け入れずに終わりの日を迎えることが、どれほど恐ろしいことかを教えるために、黙示録は比喩で書いてあります。比喩は、字義通り解釈するものではありません。イエス・キリストは、終わりの日はさばきの時ではなく、救いの日だとはっきり教えておられます。

何に気をつければよいのか

1.目標を明確に持つ

   私達には、必ずこの地上と訣別する時がやってきます。それは、天国に行く時です。その日のために、この地上で後悔のない生き方をしましょう。自分は何のために生きているのか、神様に祈り、目標を明確にいただきましょう。

2.信仰に生きる

   私達が天国に行った時、もし神への信頼を持っていなければ恥じ入ることになると聖書は語っています。この地上で得る富も名声も、あなたの死と共に滅び去ります。宝は天に蓄えなくてはなりません。それは、神を愛し、信頼する心です。それが、永遠に残るものであり、天国に持っていくことができる唯一のものです。あなたは間違った目標を抱いて生きていないでしょうか。人生でぶつかる問題は人それぞれ様々ですが、目指すべき目標はただ一つ、神を信頼することです。

『こういうわけで、神の安息に入るための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれに入れないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。』(新約聖書 へブル人への手紙 4:1)

   神は、神を信頼する安息を目指すよう私達を訓練なさいます。この地上では、すべての人が何らかの苦しみに出会います。それは神が与えるものではなく、この地上で生きている以上、誰も逃れられないものです。しかし、聖書は、それらの患難に出会ったら喜ぶように教えています。それは、あなたの信仰を育てる機会になるからです。患難は、神への信頼を増し加え、平安を得るために有益です。この世は、苦しみにあうと、自分がダメだったから罰が当たったなどと考えるものです。しかし、聖書は神の罰など教えていません。むしろ、イエス様は裁くためではなく救うために来たと教えています。患難を信仰を生かす機会としましょう。

3.救われていることの感謝を持つ

   患難にぶつかると、「自分が悪かったからだ」「だめな自分だ」などという思いがよぎってしまうものです。しかし、そうではありません。あなたの罪は赦されており、何も心配しなくても天国に行きます。この「罪が赦された」という事実を忘れると惑わされてしまうから気をつけるように、イエス様は何度も語っておられます。
   ある男性が死を迎えるに当たり、クリスチャンではなかったのですが、聖書の言葉を書いてほしいと、牧師に頼みました。この時、「神は愛なり」と書かれた色紙を見て、彼は落胆し、「先生、『汝の罪、赦されたり』と書いてもらえないだろうか」と頼んだというのです。死を迎える人にとっての最大の慰めは、罪の赦しです。あなたはすでにそれを受け取っているのです。

『イエス・キリストは、友人の中風をいやしてもらおうと、屋根の上からイエス様の前に病人をつり下ろした人々の信仰を見て、「子よ。あなたの罪は赦されました。」と言われました。』(新約聖書 マルコの福音書 2:5)

   このように、イエス様は、終わりの日について私達が惑わされないように注意を促しておられます。「あなたは永遠に赦されている」という自分の救いを疑わず、神への信頼を増し加えるようにして気をつけて、惑わされないように生きることが、神が教える終わりの日に向かう生き方です。