ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2016年5月15日
恐れからの解放
(新約聖書 マルコの福音書 11:27〜33)
『彼らはまたエルサレムに来た。イエスが宮の中を歩いておられると、祭司長、律法学者、長老たちが、イエスのところにやって来た。そして、イエスに言った。「何の権威によって、これらのことをしておられるのですか。だれが、あなたにこれらのことをする権威を授けたのですか。」そこでイエスは彼らに言われた。「一言尋ねますから、それに答えなさい。そうすれば、わたしも、何の権威によってこれらのことをしているかを、話しましょう。ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい。」すると、彼らは、こう言いながら、互いに論じ合った。「もし、天から、と言えば、それならなぜ、彼を信じなかったかと言うだろう。だからといって、人から、と言ってよいだろうか。」――彼らは群衆を恐れていたのである。というのは、人々がみな、ヨハネは確かに預言者だと思っていたからである。そこで彼らは、イエスに答えて、「わかりません。」と言った。そこでイエスは彼らに、「わたしも、何の権威によってこれらのことをするのか、あなたがたに話すまい。」と言われた。』(新約聖書 マルコの福音書 11:27〜33)

言葉のゲームをしないように

   会話は、言葉のキャッチボールです。人間の心は、体と同じように、食べものを必要としています。本来、人間は神の言葉を食べて生きるように造られました。ところが、神の言葉ではなく、人の言葉を食べるようになった人間は、心の食事をするために、言葉のキャッチボールをするようになりました。
   心が空腹になると、言葉のキャッチボールを始めるのですが、多くの場合、どんな答えが得られるか、自分で決めてしまっています。自分のセルフイメージ通りの言葉を引き出そうとして、相手に言葉を投げかけ、自分の考える方向に相手を追い込んで、怒り、嫉妬、妬みといった感情を抱いて、心の食事をするパターンを繰り返してしまうことを、心理学では「ゲームをする」と言います。お互いに嫌な思いを抱き、つらさを感じるのですが、食べないよりはましです。ゲームによって、空腹はしのげますが、大変まずい食事です。
   パリサイ人は、イエス様に「何の権威によってこれらのことをするのか。」と質問を投げかけました。しかし、この質問の意図は、イエス様を追い詰め、陥れるところにありました。イエス様は、彼らの意図がわかっていたので、彼らの質問に答えることなく、逆に「バプテスマのヨハネは天から来たのか、人から出たのか」と問いかけました。彼らは答えることができず、イエス様とパリサイ人の会話は終了しています。
   イエス様は、パリサイ人達が、ご自分を貶めようとしてきたことがわかっていたので、誘いに乗ることなく、ゲームを中断しました。彼らが答えられない質問をして、ゲームを成立させなかったのです。このように、わざわざ嫌な思いをしないように、ゲームをせずに、逃げるほうが賢明です。まずい食事をすることなく、神の言葉を食べたほうがよいのですが、多くの人が、それができずに、嫌な思いをしてしまっています。
   ある学者は、人間が抱える問題の100%は人間関係から生じると言いました。つらさは、100%人間関係の摩擦によるものだというのです。それは、人との交わりによって、人の言葉を食べて生きようとする副作用のようなものです。この問題を解決するには、神の言葉で心を満たす習慣を身に着けるしかありません。イエス様は、そのために福音を語っておられるのです。

ゲームをやめられない理由

   私達が、いやな思いをするゲームをやめられず、神の言葉を食べることができないのは、なぜなのでしょうか。パリサイ人達が、イエス様の質問に答えることができなかったのは、群衆を恐れていたからです。つまり、彼らの判断基準には、人から良く思われたいという思いがありました。この人が自分をどう思うかという恐れが、私達を苦しめているのです。人から良く思われるために、言いわけをして繕おうとすることが、私達のつらさの原因です。そして、これが神の言葉をふさいでしまっている問題の本質なのです。

『世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望が入り込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。』(新約聖書 マルコの福音書 4:19)

   神の言葉が食べられなければ、平安という実を結ぶことができません。その原因は、世の心づかいが神の言葉を食べる邪魔をしていることです。世の心づかいとは、人から良く思われようとする思いです。これが、私達を苦しめているのです。
   日本人が、自分がまわりからどう思われるかを気にするようになったのは、江戸時代、キリシタンを捕えるために五人組制度を作って、互いに監視し合っていたことが大きく影響しています。これによって、人から自分がどう見られるかを恐れることに拍車がかかり、神の言葉がふさがれてしまうことになりました。
   この恐れをなんとかしない限り、神の言葉を食べることができず、実を結ぶことができませんから、いつまでも平安になれません。ゲームをやめられず、つらいという副作用を感じて、会話は終わることを繰り返します。いやな思いをする言い争いやケンカをやめられないのは、飢え乾いた心を不健康な言葉で満すことを繰り返しているからです。良いパターンの人間関係によって、人の言葉を食べる方法もあるのですが、称賛の言葉を引き出すよりも、人の怒りを買う方が簡単であり、無視されるよりはましだということで、悪いパターンを繰り返しているのです。つらい思いをしないために、仕掛けられてもゲームをしないためには、神の言葉で平安を得るしかありません。

世の心づかいはどこから来たか

   私達はなぜ、人から良く思われるかどうかを恐れるようになったのでしょうか。この世の心づかいはどこから来たか、原因を知ることで、問題を解決し、神の言葉をどう食べるかが分かるようになります。

『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。」』(旧約聖書 創世記 1:26)

   人が神と同じ姿に造られたとは、神と信頼関係を築いて一つになることができる者として造られたということです。神様がご自身を「我々」と呼ばれるのは、三位一体だからです。三位一体とは、神は三名おられるのですが、その思いと目的が完全に一致し、信頼関係で結ばれて互いに協力し合い、私達から見ると完全におひとりの神であるということです。三位一体の神は、互いに等しく協力し合い、そこに上下関係はありません。神様は、私達を友と呼び、三位一体の神が互いに信頼し合っているように、互いに信頼し合って生き、互いの中で存在し合い、神の中に存在するように造られたのです。決して奴隷として造られたわけではありません。

『神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

   「いのちの息」の「いのち」は複数形で、三位一体の神のいのちのことです。また、「息」は、魂・霊とも訳される言葉で、私達の魂は、神の命で造られており、私達は神の一部として造られたということです。聖書に、私達はキリストのからだの一部、器官であると書かれています。私達はキリストに属する者であり、キリストに愛され、共に生きる存在として造られたということです。
   例えば、体の一部としての「手」の存在を考えてみましょう。手は、体から愛される努力が必要でしょうか。心配しなくても、自分の体ですから愛します。つまり、キリストの体の一部として造られたということは、愛してもらおうとしなくても愛されているということです。また、キリストにつながっている手は、生きるための心配もいりません。いつも体全体が手を守り、また、手は他の体の部分を守ります。体は、互いが互いを必要として、存在しています。
   アダムとエバが神と共に生きていた時、人は愛されたいとは思いませんでした。ただ、神を愛することが喜びだったのです。体についている限り、すべて満たされ、何も心配する必要はなく、何も恐れる必要がありません。これが私達の本来の姿です。
   しかし、手は体から切り離され、単体で存在するようになりました。つまり、体が見えなくなり、自分自身しか見えなくなったのです。手の機能は変わらなくても、何のために指が曲がるのか、物をつかんでも運ぶ先がなく、何のために存在しているのか、まったくわかりません。また、どこから栄養をとればいいのか、いつまで動けるのか、何のために存在しているのか、恐れと不安でいっぱいです。人はこのような存在になってしまったのです。

人が神と分離した経緯

『神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」』(旧約聖書 創世記 2:16,17)

   神様は、人を造り、エデンの園に住まわせ、善悪の知識の木の実を取って食べてはならないと命じました。これは、神と異なる思いを信じてはいけないということを表しています。神様は、悪魔の存在が分かっていて、悪魔が神と人との関係を壊そうと、神と異なる思いを人間に持ち込もうとしていることをご存知でした。そうなると、神と人の一つである関係が壊れてしまいます。そこで、善悪の知識の木の実を食べないように教えることで、神と異なる思いを信じてはいけないと言っておられるのです。神様はこの時、「それをとって食べると必ず死ぬ。」と言われました。
   さて、ここで初めて、人類に「死」という言葉が登場します。私達は、死というとまず肉体の死を想像しがちですが、神にとっての死とは、異なります。「食べたら死ぬ」と言われたのですから、「食べた後の人の状態」が、死を表しているのです。

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である【主】は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」』(旧約聖書 創世記 3:6〜10)

   まずアダムとエバは、腰の覆いを造り、恐れて隠れたと記されています。「恐れ」という言葉が使われるのも、これが初めてです。
   食べたら死ぬと言われていた実を食べた時、二人は目が開かれて、自分が裸だと知りました。つまり、からだである神との関わりが見えなくなり、体の一部としての手だけが存在する状態になったということです。神が見えなくなり、神に愛されていることがわからなくなり、その瞬間、彼らの心に恐れが生じたのです。
   なんと自分はみじめで気持ち悪い存在なのか、まったく愛される価値がない、恥ずかしい・・・・・・自分を見て、そう思ったふたりは、自分の体を覆い隠し、さらに隠れました。自分はダメなものだから、隠そうとする、私達は今もこのパターンを使っています。人の目を恐れ、良く思われたいと願い、いろいろなものに自分を隠し、別の自分になろうとするようになったのです。この原点は、神に愛されている自分が見えなくなったことにあります。
   このように、人の目を気にして、人の期待に応えた人生を生きようとすることが、私達の生き方なってしまっています。本来の自分を捨てて人が期待する人になろうとする生き方は、何とつらいことでしょうか。これを変えるには、原点である神に愛されていることを知るしかないのです。

神の愛が見えるようになるためには

『すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」』(旧約聖書 創世記 3:11)

   アダムとエバは、それぞれ、「私は悪くない。自分は正しい。」と言い訳しています。自分を良く見せようとして必死になっている人間の姿です。私達もアダムとエバと同じです。自分も、人から悪く言われたくなくて言い訳するような人間だと認められれば、誰も人を裁く権利など持っていないことに気づきます。この事を棚に上げ、人をバッシングするのは、裁くと自分が偉くなったような錯覚に陥れるからです。怒りは、自分を隠すためのものであり、人を裁いて自分を守ろうとしていることの表れです。これもまた、心の食事です。しかし、まずく不健康な食事であり、何の生産性もありません。むしろそれで自分自身が苦しんでいるのですから、やめればいいのに、やめられないのは神に愛されている自分が見えないからです。解決の道は、神に愛されている自分が見えるようになるしかありません。
   私達は、自分がつらいと相手を変え、環境を変えようとしますが、まったく的外れです。相手を変えようとしても、責めても、あなたの根本は何も変わらず、つらさは解決しません。あなたのつらさを解決するのは、神に愛されていることに気づくしかありません。痛み止めを打つように、一時的につらさを忘れさせても、結局はつらさが舞い戻ってきて、イライラしたり、快楽に走ったりという負の連鎖が続きます。この原点は、キリストの姿が見えず、神の愛が見えないところにあります。
   あなたは、神様にとって、自分がどれだけ大切な者か気づいていません。そのことに気づかせようとするのが、神の愛です。問題解決の本質は、神様を信じて神との関係を回復することです。
   私達は、キリストを信じて救われた時、自分では気づかないうちにキリストの体に再びつながったのです。私達はすでに神と共に暮らしており、愛されています。だからもう愛されようとする必要がないことを教えたいと願って、神様は私達に律法を与えてくださいました。神の律法は、神を愛し、人を愛せよという、この二つに集約されます。ところが、忠実に神にしたがおうとするならば、私達は人を愛することができない自分に気づきます。神を愛せず、人を愛せず、裁き、憎み、不満を抱く自分の罪深さに気づく人は幸いです。なぜなら、その重荷を私のところにもってきなさいと主は言われるからです。そうすれば、何度でも無条件で赦すと主は言われます。自分の罪に気づき、人を愛せないことに気づき、そしてその罪が何度でも赦されることを体験するなら、自分が神に愛されていることに気づくのです。多く赦された者は、多く愛知るようになると主は教えておられます。神様は、あなたが何をしようと、さばきません。こうして、愛されていることに気づくなら、もう愛されようとする必要がないことに気づきます。すると、愛されようとする不安が消え、神の言葉が心の中にどんどん入ってきて平安になり、人の言葉というまずい食事をやめることができるようになります。こうして人は、神と人を愛せるようになるのです。
   神様は、あなたは私の一部であり、あなたと一緒に生きていると言われます。あなたはこれから祝福されるのでも、頑張ったら愛されるのでもありません。すでに、すべてのものが与えられています。それは、十字架の命であり、神の命です。あなたはすべてのものを持っているのです。これ以上ない愛の中にあなたは生きていることに気づきましょう。
   放蕩息子は、父の前に罪を言い表し、無条件で赦されました。聖書は、こうして罪を言い表すことで、愛されていることに気づけると教えています。また、この時、放蕩息子の兄は、赦され愛されている弟の姿を見て、自分は愛されていないと思いました。このように、神と共に生きている人は、いつも神の恵みの中にいることになかなか気づきません。
   どうして自分だけ苦しいのか、自分は愛されていないのではないかとつぶやく人に対して、「私はいつも共にいる。わたしのものはすべておまえのもの。」と語っておられるのです。これこそ、神が私達に与えている。神に愛されていることが見えるようになると、問題は解決します。
   神は、あなたにはすべての祝福が与えられており、主が共にいてくださるのだから、つぶやき恐れる必要はないと教えています。人の言葉を食べて生きるのはやめ、さばくことをやめるよう願っています。そのために、律法に従って、罪に気づき、神に差し出しましょう。愛されていることに気づくためです。神に愛され、褒めてもらうためではありません。愛されていることに気づかず、信じないことが、これが不信仰の罪となります。

聖霊のバプテスマ

   イエス様は、弟子達に幾度となく神に愛されていることを語り続けましたが、弟子達はまったく理解できませんでした。そこで、最終手段として、聖霊なる神が私達一人一人の中に住まわれるという方法をとったのです。
   それがペンテコステと呼ばれる日に起きた出来事です。聖霊なる神があなたの中に住むことで、私達は理屈抜きに、神様に愛されていることに気づくことができるようになります。愛されていることがわかると、生きかたが変わります。聖霊のバプテスマを受けるまで、弟子達はいつも互いに比較し、誰が一番偉いか競い合い、神のために頑張っては、裁き合うことを繰り返していました。
   ところが聖書を読むと、聖霊がくだってから、彼らはそういう生き方を放棄してしまいました。私達は、聖霊に満たされることで、どれほど神に愛されていたのか体験できます。こうして生きかたが180度変わり、愛されようとする生き方から、神を愛そうとする生き方に変わるのです。ペンテコステは、教会の誕生日です。私達を造り変えてくださる助け主が来られたのです。

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」・・・「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。』(新約聖書 使徒の働き 1:4〜5,8〜9)

『また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 』(新約聖書 使徒の働き 2:3〜4)

   「バプテスマ」とは、満たされるという意味です。聖霊様に満たされた結果、力を受けるとは、人を愛せるように変わるということです。私達が人を愛せるのは、愛されていることがわかるからです。私達は聖霊に満たされる体験を通して、神に愛されていることが理屈抜きにわかるようになるのです。これがペンテコステです。だから聖霊のことを助け主と呼ぶのです。
   神に愛されていると知ることが、問題の解決の鍵です。これを知らない限り、私達はいつもまわりを恐れて、愛されようとして辛い人生を繰り返してしまいます。あなたの問題が解決されるのは、あなたが本来の姿に戻る時です。愛されていることに気がつく問題解決の鍵、それは十字架です。