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2016年5月8日
すでに受けたと信じなさい
(新約聖書 マルコの福音書 11:12〜)
あなたは神を愛すると言いながら敵対していないか

『翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。いちじくのなる季節ではなかったからである。イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。』(新約聖書 マルコの福音書 11:12〜14)

   神であるイエス・キリストが神殿に来られたのに、イスラエルの指導者達は歓迎どころか、拒否しました。そのため、イエス様は一旦エルサレムを離れて、ベタニヤに宿泊なさいました。
   このいちじくの木はイスラエルを象徴しています。イエス様が来られ、旧約時代からの神様の約束が成就したのに、イスラエルは準備が整っておらず、救い主に気づきませんでした。葉が茂るばかりで、実のなっていないいちじくは、彼らの姿です。「今後、誰も実を食べないように。」とは、神様を受け入れる人がいなかったことに対するイエス様の悲しみを表した言葉です。

『 それから、彼らはエルサレムに着いた。イエスは宮に入り、宮の中で売り買いしている人々を追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛けを倒し、また宮を通り抜けて器具を運ぶことをだれにもお許しにならなかった。そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。』(新約聖書 マルコの福音書 11:15〜18)

   イエス様が神殿にやってくると、神様と共に過ごすはずの祈りの家が商売の巣になっていたため、その商売をやめさせました。さらに群衆がイエス様を慕っていることを知り、祭司長達は嫉妬に駆られ、イエス様を殺そうと企てました。
   この出来事から、私達は重要なことを学ぶことができます。
   祭司長や律法学者を聖書は総称してパリサイ人と呼びますが、彼らの仕事は、人々に神の言葉を伝え、神に導くことです。神様を愛することを教えている彼らが、なぜ、神を憎み、殺してしまうようなことになってしまったのでしょうか。
   彼らは、自分は神を愛し、神のために生きていると信じており、まさか自分が神を殺しているとは気がつきませんでした。彼らは、神のために正しいことをしていると信じていたのです。だからこそイエス様は、十字架の上で「彼らは何をしているかわからないから赦してほしい」と祈ったのです。
   私達も自分自身のことを振り返ってみましょう。神を愛し、神のために生きると言いながら、実は神に敵対し、十字架につけるような生き方をしていないでしょうか。あなたが神のためにしていると思っていることが、神を悲しませてはいないでしょうか。
   神の言葉を伝える人パリサイ人が神を殺したという事実は、私達への警告です。私達も同様に、神を愛すると言いながら、敵対することを行なっています。パリサイ人は自分自身を指していると理解し、自分への注意として御言葉を理解しましょう。

なぜ間違ってしまったのか

   神のために生き、神を愛していると信じていたパリサイ人達のボタンのかけ違いは、いったいどの時点から、始まっているのでしょうか。それは、さかのぼるとアダムとエバに行きつきます。
   アダムとエバが、神様から食べてはならないと命じられていた木の実を食べて神様との信頼関係が壊れた時、ふたりには神様の姿が見えなくなりました。神と共にある自分ではなく、自分自身の姿しか見えなくなった時、ふたりは恥ずかしいと思い、こんな自分は愛される価値がないと思って、恐れて隠れ、いちじくの木の葉で腰のおおいを作りました。
   実は、人間は皆、自分を恥ずかしいと思って生きています。ですから、より良い服を着て、化粧をして、学歴や肩書きを持って、より良い持ち物を得て、良い行いで飾って、必死に自分を隠そうとして生きています。この生き方が、アダムとエバの代から私の中に生き続けているのです。これは、自分自身を見て、「ダメだ」「恥ずかしい」と思ったところから始まっているのです。
   神が見えなくなった人間は、神に造られた自分を捨てて、別の自分になろうとしました。御霊に属する人をやめて、肉に属する人になろうとしたのです。それは、このままの私では愛されない、○○さんのようになったら愛されるだろう、△△ができるようになったら愛されるだろう、と追い求める生き方です。
   人は生まれた時からこのような生き方を続けているのです。子どもは、愛されて生きるために、親の歓心を買おう、親の期待に応えようとします。私達は皆、本当の自分は愛されていないと思い込んでいるために、人の期待に応えようとすることで、自分を捨て、自分でない自分を生きようとして、大変なつらさに襲われてしまっているのです。
   パリサイ人は、これらの人々の象徴です。パリサイ人は、神に愛され、認められるために、立派なことをしようとしてたくさんの律法を作り、それを守ろうと頑張っている真面目な人々です。律法を守れば神に認められ、永遠のいのちをいただけると信じ、その結果、神を殺してしまうのです。
   本来の自分を捨てて別の自分になろうとするということは、うわべを変えようとすることです。自分のうわべが人から認められるものになったかどうか、愛されるものになったかどうかを気にすると、人のうわべが気になります。こうして、別の自分になろうとすればするほど、人と比較するようになり、嫉妬が生まれるのです。
   アダムの息子のカインは、弟の行いと自分の行いを比較し、嫉妬したことで、人類で最初の殺人を犯してしまいました。本来の自分を捨て、良く思われようとして、別の自分を演じると、比較が生じ、争いが生じます。聖書は、嫉妬やねたみのある人は肉に属する人だと教えています。
   このボタンの掛け違いは、自分は愛されていないという勘違いから始まっています。あなたは、神の体の一部として造られ、神様はあなたを素晴らしいものだと思っています。罪人になり、本来の機能を失っていますが、それは病気と同じで、神様にはいやすことができます。親は、子どもが病気になったからといって、もう価値がなくなったと切り捨てたりはしません。子どもへの愛は変わらず、回復するように手を尽くします。まして、神様様は罪をいやす方法を知っているのですから、あなたは、神によって造られた神の子で、キリストの体の一部です。あなたは高価で尊く、あなたの代わりはどこにもいません。
   あなたが今、神の子として本来の働きができないのは、あなた自身のせいではなく、あなたの中に住む罪のせいです。人は本来、神を愛し人を愛するように造られています。ですから、人をさばくとつらくなるのです。人を愛せるようになると平安になります。しかし、人は、正しいことがわかっても、それを実行いのちません。パウロもそのことに悩み、それは、自分の中に住む罪のせいだという結論を得ました。
   今私達が、本来の生き方と異なる生き方をしているのは、罪という病気になったからです。私達は罪深い自分は愛されないと思い込んでいるのですが、神様は罪を病気としてご覧になりますから、病気の思い子どもを愛さなくなったりすることはありません。それなのに、愛されないと思い込んだ私達は、別の人間になろうと努力を続け、ますます自分が分からなくなり、人からどう思われているかだけが基準になり、苦しんでいるのです。
   初めのボタンのかけ違いを正すところから始めましょう。あなたはあなたのままで愛されていることを受け入れましょう。自分は神にとって高価で尊いものと信じましょう。
   罪という病気によって、本来の自分がうまく機能しなくても、神はそれを助けてくださいます。私達は神様からそれぞれ異なる働きを与えられています。人と比べることをやめ、神と敵対する生き方をやめましょう。

キリストにつながる

   パリサイ人は、自分はダメなもので愛されていないと思い込んだ結果、人と比較して、立派なものとなることで、神と人とに愛されようとしました。これが、今の私達の姿です。
<    しかし、神の律法は、愛されなさいではなく、愛しなさいと教えています。あなたはすでに神に愛されています。神に目を向け、神を愛しましょう。神を愛する人は、人を愛するようになります。聖書は、目に見えない兄弟を愛せないものは目に見えない神を愛せないと教えています。神と人に愛されようと頑張るのではなく、すでに神に愛されていることを知れば、神と人を愛する者となるのです。

『夕方になると、イエスとその弟子たちは、いつも都から外に出た。朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」 』(新約聖書 マルコの福音書 11:19〜25)


   イエス・キリストを受け入れなかったイスラエルを象徴するいちじくが枯れたことは、人は、イエス様につながらなければ、枯れてしまう存在であることを表しています。イエス・キリストを信じなければ救われないのです。
   イエス様は、「神を信じなさい」と語り、「疑わずに信じるなら山が動く」と言われました。旧約聖書で山と言えば、祈りの場を指します。当時の神との交わりの場、神の国の象徴と言えば、エルサレムの神殿です。つまり、神殿が動くとは、イエス様がこの地上に来られたことによって、商売の巣となっていたエルサレムではなく、霊とまことによって神を礼拝する時が来たことを意味するものです。
   イエス様は、宣教開始にあたり、 『時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。』(新約聖書 マルコの福音書 1:15)と言われました。「神の国は近くなった」を正確に訳すと、「神の国は来た」となります。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、イエス様が実際に語られたアラム語では、「来た」と言っておられるからです。イエス様は、あなたの中に神の国は来た、だから、見えるところのエルサレムで礼拝する必要はないと述べておられるのです。
   神の国とは、神と共に暮らせる場所です。つまり、「神の国は来た」とは、「イエス様があなたの中に住む」ということです。また、神は永遠のいのちでもありますから、「あなたは永遠のいのちを持つようになる」ということも表しています。
   イエス様が住むことで、あなたが神の神殿となるのです。あなたの中にまことのエルサレム、まことの神の国が訪れ、あなたが神の国になるのです。そうして、見えるところのエルサレムは必要なくなります。必要なのは、あなたの中に神の国が来たと信じることです。


神の国が来たとは、何を信じることなのか

『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(新約聖書 マルコの福音書 11:24)

1.永遠のいのち

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。信じる者は永遠のいのちを持ちます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:47)

   永遠のいのちに対して、聖書の原文のギリシャ語は、すべて「持っている」という現在形で書かれています。永遠のいのちは、これから努力して受けとるものではありません。イエス・キリストを信じた時から、イエス・キリストはあなたと共に住み、あなたはすでに永遠のいのちを受け取っています。目には見えませんが、神の国は今あなたの中に来ており、あなたは神の神殿となり、永遠のいのちをもう持っていることを信じなければなりません。

『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:16〜17)

   私達は、すでに永遠のいのちを受けとって、死からいのちに移されており、死ぬことはありません。この地上での命が終わるということは、肉の体を脱ぎ捨て、着替えるようなものです。この地上で生きている私達は、神様と共に生きている自覚がないため、積極的に信じて受けとりましょう。そうすれば、神の国が実現していることを、事実として受け止めることがいのちます。

2.あなたは良きもの

   神様は、あなたを良きものとして造りましたから、神様の目にはあなたは良きものとして映っています。罪が私達を汚してはいますが、それは表面についた泥のようなもので、神様はその汚れを洗い流すことがおできになります。
   自分自身を良きものだと思えるようになると、人をさばかなくなります。表面の汚れで人を判断するのではなく、誰に対しても、この人も良きものだと思えるようになるからです。

3.願い事はかなえられた

   文字通り、あなたが祈ったことは、すでにかなえられたと信じることです。これを、先取りの信仰という言い方をします。神様はあなたが願ったことは、すべてかなえてくださいますから、心配せずに信じましょう。

   私達はすでに永遠のいのちを持っていること、永遠のいのちを持っている人は良きものとなったということ、神様は祈りを聞いてくださるということを信じれば、ただ神だけ見上げて生きて行けばよいという生き方になります。これが神の国です。

『また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。』(新約聖書 マルコの福音書 11:25)

   求めたものはすでに受けたと神様を信じるためには、祈ることによって、それが自分の信仰になっていきます。この時、恨み言があってはいけないとイエス様は教えておられます。つまり、人を憎んだり、妬んだり、怒ったりしていたら、祈る前に、そちらを処理しなければなりません。それを処理しないまま、いくら祈っても、神様にまったく届かないのです。
   なぜなら、神の思いは、「愛しなさい」ということに尽きるからです。神様は私達に、「愛するものになりなさい。」と教えます。というよりも、私達はもともと愛する者として造られているので、あなたの舵を愛する方向に向け、神に向けることによってのみ、平安を得ることができるのです。
   もし、あなたの中に恨み言、妬みや争いがあるのなら、あなたは神に向いていません。まずは、それらの思いを神様の前に差し出して、神様に助けを請うて赦してもらいましょう。さばくのをやめて、赦すのです。そして、間違った方向に向いている心を神様の方向に向け直しましょう。その後に祈るならば、私達は、神さまの助けにより、祈ったことはすでに受けたと信じることができるようになります。
   さばいたり、怒りを放置したまま祈ってないか、自分の祈りの姿勢を確認してみましょう。まずすべき祈りは、罪を言い表して、神様のほうに方向を向けることです。
   罪を言い表し、愛するために神の助けを求める時にも、私達の中に神様の国はすでに来て存在しています。そのことを信じ、神様の慰めと励ましとを受け取って生きましょう。