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2016年5月1日
まだ誰も乗ったことのないろばの子
(新約聖書 マルコの福音書 10:46〜52)
『さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」
そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。
すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」
弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。』(新約聖書 マルコの福音書 11:1〜6)


主は人が価値を認めないものを大切にする

   イエス様は、ロバの子に乗ってエルサレムに入城なさいました。エルサレムには神殿があり、礼拝の中心の場所ですから、イエス様にとっては自分の家ともいうべき場所です。ここにイエス様が入城なさるということは、礼拝されている本人が宮に来られるということであり、王の帰還です。王様が自分の城に帰ると言えば、何頭もの馬に引かせた豪華な馬車に乗り、多くの兵士を引き連れてくる様子をイメージします。ところが、イエス様は、小さなロバの背にまたがり、入城なさいました。ロバは馬よりも劣ったものと考えられ、通常、人を運ぶことには使われません。また、まだ誰も乗ったことのないということは、まだ誰からも価値を見出されていないロバだと解釈することもできます。このことからイエス様が伝えておられるメッセージは、主は人が価値を認めないものを大切にするということです。価値がなくてかわいそうだから大切にするのではありません。この世では役に立たないと思われ、価値がないと思われる人であっても、イエス様にとっては、大変価値のあるものだから、大切にされるのです。
   あなたは、自分を馬だと思っているでしょうか。ロバだと思っているでしょうか。深層心理では、すべての人は、自分をダメなものだと思っているものです。だからこそ、人は上を目指して頑張るのです。しかし、それは自己を否定することでもあり、このままではダメだ、馬のようになれば人から認められ、神からも愛されるという考えにつながっていくのです。
   このような私達に、神様は、あなたが目指している先には何もないことを教えておられます。ロバは、私達が捨てた自分自身を表しています。あなたは、自分など必要ない、こんな自分ではダメだと自分を放棄し、馬になろうとしてはいないでしょうか。しかし、主がお入り用だと言われたのは、ロバなのです。神はロバであるあなたが必要であり、あなたがあなた自身だから愛していると言われます。

『 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。
そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。ホサナ。いと高き所に。」
こうして、イエスはエルサレムに着き、宮に入られた。そして、すべてを見て回った後、時間ももうおそかったので、十二弟子といっしょにベタニヤに出て行かれた。』(新約聖書 マルコの福音書 11:7〜11)


   小さなロバに乗るイエス様に、人々が「ホサナ」と賛美する光景は、パリサイ人の目には滑稽に映った事でしょう。イエス様は、あえてこのようになさることで、私達に「あなたの価値観は間違っている」というメッセージを送っておられるのです。
   イエス様は誕生の段階から、私達の価値観と逆のことばかりなさいました。王として来られると思われていたのに、馬小屋で生まれ、大工の息子として育ち、学歴もなく、取るに足らない市民として成長しました。金持ちや地位のある人とは交わらず、取るに足らないと思われている人や罪人とお交わりになりました。どうにかして価値ある者となろうとしている私達が目指すものとは、すべて逆のことばかりです。
   イエス様は、ご自身の行動を通して、あなたの価値観は間違っているというメッセージを伝えておられるのです。あなたが、価値がないと思って捨てたものこそ宝だから、もう一度拾いなさいと言っておられます。それは、あなたが捨てたあなた自身です。あなたは自分自身を捨て、あるいはどこかにつなぎ留め、別の自分になろうとしていないでしょうか。それが、自分を苦しめているのです。
   これは、アダムとエバから始まったことです。食べてはならない木の実を食べ、神が見えなくなった二人が自分を見ると、裸であることがわかりました。二人は、こんな価値のない自分は愛されるはずがないと、イチジクの葉で自分を隠そうとしました。人は皆、自分を見て恥ずかしいと思い、このままでは愛されるはずがないと思っているのです。そのため、学歴や行いや容貌といったもので自分を隠し、人にとって価値ある者、愛される者に見えるよう、自分ではない自分を演じようとします。すると、人の行いが気になり、自分と比較し、妬みや怒りが生まれます。アダムの子カインは、弟の行いが評価されたことを妬み、殺してしまいます。私達の妬みや争いの原因は、人と自分を比べ、○○のようになれば幸せになれると思い込み、自分を捨てて自分でない自分になろうとするところにあります。聖書はこれを、この世の心遣いと呼んでいます。どちらが愛されるか、どちらが価値があるかと、人と比較し、嫉妬や争いという苦しみに襲われるのです。
   あなたは、ほかの自分になろうとすることで、自分を苦しめています。ロバのままで良いのです。あなたが隠そうとした自分こそ、神が愛してやまないあなた自身なのです。

罪人の中身は良きものである

『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:1,3)

   イエス様がロバを用いられたことに照らし合わせるなら、御霊に属するクリスチャンとは、神に造られたありのままの自分を生きようとするクリスチャンであり、肉に属するクリスチャンとは、それを否定して別の自分になろうとするクリスチャンと定義できます。肉に属するクリスチャンには、妬みや争いが生じます。そのつらさから解放されたければ、見えるものに自分の価値を託すことはやめましょう。人は、自分の持っているものや自分のしたことをほめられるとうれしくなり、それらをけなされると自分が否定されたように感じて悲しくなるものです。これが、自分の価値をものに託しているということです。本当の自分は価値がないと思っているために、行いや見た目を飾ることで、愛されようとしているのです。この考えを引きずっているために、多くのクリスチャンが罪人の自分を否定し、立派な行いができるようになれば愛されると誤解しています。しかし、神が愛するのは罪人です。
   私達は、自分はそのままで神に愛されていることに気づき、ありのままの自分を生きれば良いのです。神様は、立派な人には興味がありません。自分は役に立たない、ダメな者だと思っているあなたを、愛しておられます。なぜなら、自分をダメだと思うのは罪深いことだからです。パウロは、御言葉を実行したくてもできない自分は罪深くみじめな存在だが、これは本来の自分ではなく、自分の中に住む罪のせいだと語っています。罪とは、私達に取りつき、私達を苦しめる病気です。

『そこで、イエスは答えて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」』(新約聖書 ルカの福音書 5:31〜32)

   聖書は、同じ意味のことをいくつかの言葉で言い換えるという手法をよく使います。つまり、「病人」と「罪人」は同じものを指しています。神様は、罪におかされる前の私達の姿をご存知ですから、なんとかこの病がいやされ、健康な姿に戻ってほしいと願っていらっしゃいます。ところが人間は、自分自身の罪もお互いの罪も裁いてしまうため、こんな自分ではだめだと思い、罪を隠して健康なふりをするのです。病気の人が、病を隠して健康なふりをして生きるとは、どれほどつらいことか、想像がつくでしょう。
   人は、神のいのちによって、神に似せて造られた尊い存在です。そのような存在であるものを価値がないと思うことは罪です。本当の自分を隠し、立派な行いを着て、神を無視して生きようとすることは自分を苦しめるだけです。神は、その苦しみから私達を救い出し、いやすためにこの世に来られたのです。イエス・キリストは、自ら十字架にかかることで、この病気をいやしてくださいました。
    イエス様は、十字架にかかる前に、弟子の足を洗うことによって、罪をいやすとはどのようなことかを教えておられます。私達は、神に良きものとして造られた素晴らしい存在です。罪を犯したことで表面が汚れてしまいましたが、その価値は変わりません。ただ、汚れを落とせばよいのです。罪をいやすとは、足についた泥を洗い流すのと同じです。ペテロが、足だけでなく全身洗ってくださいと頼んだ時、あなたの全身はきよいから洗う必要はないと、イエス様は言われました。
   ダイヤモンドに汚れがついたからといって、ダイヤモンドがダメになったと言って捨てる人はいません。汚れを落とせばもとに戻るのですから、何の価値も失われてはいないのです。ところが、人間は汚れを落とそうとする代わりに、別のものを着せて覆い隠そうとします。泥のついた自分を隠すために、必死になって別の自分になろうとし、それが自分自身を苦しめています。しかし神様は、私達はもともと良いものであり、栄光から栄光へ、良きものから良きものへと変わっていくのだと教えています。このことに気づかせようとするのが神の福音です。神さまは、あなたの醜い部分、汚い部分は、あなた自身ではないことを知っておられますから、あなたからそれを取り除こうとなさるのです。

罪と戦うとは、愛されていることを認めること

『しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:8)

   人は、罪人でなくなれば愛されると思い込んでいますが、イエス様は、私達が罪人だった時に死んでくださり、私達を愛していると明らかにしてくださいました。ですから、私達は罪人である自分を隠したり、立派な人に見せかけて、着飾った自分をアピールして愛されようとしたりする必要はありません。
   自分がありのままで愛されていることに気づくと、人に愛されようとする生き方を放棄することができ、神を愛し、人を愛する生き方に変わります。なぜ神様は私達をありのままで愛するのか、それは、私達がキリストの体の器官であり、神の体の一部だからです。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。
一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2〜5)


   罪は、神の御心をふさぎ、神の愛を見えなくさせます。多くの人が、罪と戦うとは、良い行いをすることだと誤解していますが、そうではありません。罪と戦うとは、御心、すなわち、神に愛されていることが見えるようになることです。
   多くの人が、心の一新によって自分を変えよといわれると、自分の行いは良くないから行いを変えなければならないと考えます。しかし、そうではありません。聖書は、心の一新によって、神の御心が見えるように変わりなさいと教えているのです。このままではダメだと別の人になろうとするのではなく、ありのままの自分が神に愛されていることを知り、元の自分に戻りなさいということです。「思うべき限度を越えないように」とは、神が与えてくださったあなた自身を受け入れ、偽りの自分を捨てなさいということです。
   人は、特別な人間にならなければ愛されないのだと思い違いをしています。しかし、あなたは、神にとってなくてはならない器官だからこそ造られたのです。神はあなたを愛するため、ご自分に必要なものとして造られたのです。
   神に愛されていることを知り、自分自身を生きてください。自分の限度を越え、誤った道を選択することなく、自分は神に必要とされ、キリストの体の一部として造られたことを受け入れましょう。神はあなたを信頼して愛しておられます。そのことに気づかず、神に愛されようとして本来の自分の姿を押さえつけ、隠そうとする生き方があなたを苦しめているのです。
   あなたは、すでに良きものです。そのことに気づくには、あなたについた泥を取る必要があります。だから、聖書は「罪を言い表しなさい」と言うのです。そうすれば、神がその泥を取り除いてくださるからです。そうすると、神に愛されている自分が見えるようになり、本当の自分を生きられるようになるのです。

『私たちが自分の罪を言い表すなら、神は、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   イエス様の弟子のペテロは、用いられ、称賛されることを望んでいました。つまり、今の自分ではなく、別の自分になりたいと願っていたのです。しかし、イエス様は、ありのままのペテロを必要としておられました。 ペテロは、十字架に向かうイエス様を裏切ったことにより、自分は弱くみじめなものであることを思い知りました。この時、イエス様はペテロを見つめました。その瞳から、ペテロは何を感じ取って大泣きしたのでしょうか。それは、自分がどのような状態になっても、イエス様は愛して下さっているというメッセージです。この時からペテロは、偉くなろうとか、誰かのようになろうとか、世の心遣いに生きることをやめてしまいました。
   ペテロは、ただその時の自分にできることをするようになり、その結果、大胆に証しする者になりました。彼を変えたのは、ありのままの自分に気づき、それが神に愛されていると気づいたことです。あなたがダメだと思って捨ててしまっている罪深い自分、神様はその病をあわれみ、助けようとしておられるのです。
   罪は、神に愛されていることを否定し、見えなくさせてしまいます。この罪が取り除かれるほど、神に愛されていることが見えるようになり、神を愛し、人を愛せるように変わっていくのです。人の努力ではありません。神様は、人を造られたその時から、『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』(旧約聖書 創世記 1:31)と言っておられます。
   すべての人は、神にとってダイヤモンドのように、良きものです。ただ、表面に汚れがついているので、イエス様はこの汚れを取りのぞくために十字架にかかられました。私達は、罪によってダメでないものをダメだと思い込むほど、価値観がおかしくなっています。そんな私達に、イエス様はあえてロバに乗ることで、私達の価値観は間違っていると教えられたのです。神様は、あなたは良きものでありダメなものなどではない、本当の自分を取り戻しなさい、主がお入り用だからと言われているのです。