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2016年4月17日
仕える者になりなさい
(新約聖書 マルコの福音書 10:32〜45)
主の愛は恐れを解決する

『さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。』(新約聖書 マルコの福音書 10:32)

   弟子達が恐れを覚えたのは、イエス様がどんどん離れて行くのを見たからです。人の恐れは、神との関わり方に左右されます。神が遠くに去っていくことが恐れの土台となり、神との距離が遠ざかれば遠ざかるほど、恐れは大きくなるのです。
   なぜなら、人はキリストの体の一部だからです。私達のいのちは、神のいのちの一部をいただいて造られました。体の一部分が、もとの体を離れて生きることができないのと同様に、人は神を離れて生きることはできず、離れると不安を感じます。
   もし、自分の不安や恐れの本当の原因がわからなければ、見えるところの出来事で何とかしようとする対処療法で終わってしまい、本当の解決には至りません。しかし、恐れの原因が神との距離にあるとわかれば、問題の解決は神との距離を縮めることにあるとわかります。神が自分を愛していると知れば知るほど、恐れから解放されるのです。

『すると、イエスは再び十二弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。 』(新約聖書 マルコの福音書 10:32)

   弟子達は、どんどん先を歩いていくイエス様を見て、自分は見捨てられてしまったのではないだろうかという子どものような不安を感じていました。しかし、イエス様は遠く離れて行ったのではなく、いつも近くにおられます。イエス様が弟子達をそばに呼び寄せてくださったのは、彼らの恐れが分かっていたからです。
   私達が試練にぶつかって、神はどこにおられるのかわからなくなってしまう時も、自分は愛されていないのではないかと不安に思う時も、神は私達を愛し、いつもそばにおられます。

『さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。 』(新約聖書 マルコの福音書 10:33〜34)

   イエス様は、はっきりとご自分が十字架にかけられることを知っておられ、何度も弟子達に語りました。逃げようと思えば逃げることができたにもかかわらず、イエス様はご自分の意志で、十字架にかかられたのです。
   その理由の第一は、私達をどれだけ愛しているかを示すためです。神と切り離された恐れと、愛されていないという不安を抱えている私達に、イエス様はご自分のいのちを差し出して、私達をどれほど愛しているかを示されました。
   もう一つの目的は、私たちを苦しめている悪魔を滅ぼすためです。悪魔は、この世界に死を持ち込み、私達を死の恐怖によって支配しています。この恐れを締め出すのは、全き愛しかありません。全き愛とは、友のためにいのちを差し出す愛です。神は人を奴隷としてではなく、共に生きる友として造りました。その友のためにいのちを捨てるという全き愛によって、悪魔を滅ぼすことができるのです。
   神が十字架で差し出すいのちとは、肉体の命のことではありません。死とは神との関係を失うことです。イエス様が差し出したいのちとは、自分が神であることを捨て、三位一体の神との関係を放棄することです。父なる神も、御霊も、イエス様との関係を断ち切るのです。これが死です。それは、イエス様にとって経験したことのない恐ろしい出来事であり、イエス様はうめき苦しんで祈り、血の汗がしたたり落ちたとあります。イエス様が恐れたのは、肉体の苦しみではなく、神との関係を完全に断ち切ることへの恐れです。それほどの思いをしてまでも、主は私達を愛しておられます。このように、イエス様は全き愛をもって、敵なる悪魔を滅ぼし、三日目によみがえられました。今日私達はこのことによって救われるのです。
   悪魔は十字架で滅ぼされましたが、この世界は神との関係が断ち切られ、死の恐怖が私達を神から遠ざけているという事実は変わりません。悪魔が存在していようといなかろうと、私達が恐れに支配されるという実態は変わらず、悪魔との戦いが終わったわけではないのです。ですから、聖書は、悪魔に立ち向かえと教えています。それは、具体的には、恐れとの戦いです。私達は、恐れがもたらす偽りの情報と、御言葉の真理を持って戦わなければなりません。

神に求めたのに与えられない時

『さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネが、イエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」 』(新約聖書 マルコの福音書 10:35〜36)

   神様との関係は、祈るところから始まります。神様は、どんなことでもいいから、祈って求めなさいと言っておられます。コミュニケーションはキャッチボールと同じです。ヤコブとヨハネは、神様の言葉を受け取り、その言葉に従って自分達の願いを申し出て、ボールを投げ返しました。求めることから神様とのコミュニケーションが始まります。おおいに神様に求めましょう。

『彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、わたしの受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」 』(新約聖書 マルコの福音書 10:37〜40)

   ヤコブとヨハネの願いは、偉くなって出世することでした。彼らは、「求めれば与えられる」というイエス様の教えを、素直に実行したのです。それは、決して悪いことではありません。しかし、イエス様は、その願いはかなえられないとおっしゃいました。なぜなら、彼らの願いをかなえても、彼らは幸せにはなれず、むしろつらくなることがわかっていたからです。彼らは、自分では、イエス様についていくことができると信じていましたが、これから十字架にかかることがわかっているイエス様には、ふたりが自分について来ることができないとわかっておられました。そこで、私の横に座る者は神が定めておられるから、あなたの願いはかなわないとお答えになりました。
   人は、自分の求めていることの本当に意味がわからないことが間々あります。神様は何でも応えてくださいますが、私達にとって益とならないことには、願っても応じてくださらないのです。

『あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 』(新約聖書 ヤコブの手紙 4:2〜3)

   神様は、求めなければ何も手に入れることはできないとおっしゃいますが、求めても得られない時もあります。神様は、私達を苦しめるものや、私達にとって益とならないものを、与えることはなさいません。何が益になるかならないかは、人によって異なります。パウロは自分の病をいやしてくださるように再三求めましたが、いやされませんでした。それは、病を持っていることが、彼にとっては益だったからです。彼は病によって弱さを覚えていたので、いつもしっかりと神のほうを向くことができました。神様は、病をいやすと彼が傲慢になり、彼にとってプラスにならないとわかっておられたのです。
   ヤコブとヨハネは、神様にとっても悪いことではないし自分達も幸せになると思って出世を求めたわけですが、神の目からすると、あなたがたは何を願っているかわかっていないと言われました。とはいえ、ヤコブもヨハネも、この後、大きく神に用いられる弟子となります。ここで、二人を模範とする点は、イエス様に願いを退けられた時、一切文句を言っていないということです。イエス様にダメだと言われた時、「何でも求めなさいと言うから求めたのに」とつぶやくこともできますし、それでもしつこく頼み込むこともできます。彼らには様々な選択肢があったわけですが、二人はイエス様の言葉を素直に受け止めました。これが、その後も二人が用いられた要因です。

   私達は、祈っても願いがかなわないと、「神に祈ったのになぜ」とか「あの人の祈りはきかれたのになぜ」などと、つぶやく思いを持たないでしょうか。神様が祈りに答えてくださらなかったのは、かえって私に益となる道を示してくださったのだと、感謝して受け止めることができるでしょうか。ヤコブとヨハネは後者を選択し、つぶやかずに、神の御心を受け止めました。
   祈りが聞かれないとつぶやくなら、そこで神様とのコミュニケーションはストップしてしまいます。神様は、あなたにとって良いことをなさる神様であり、良いと思わないことはなさいません。ですから、どんなことも感謝しましょう。感謝しないと、神様とのキャッチボールが止まってしまい、信頼関係が止まってしまいます。私達は神様にどんなことを求めてもかまいません。しかし、自分には何が益になるかわからないことを認め、神様にゆだね、どんな結果も感謝して受けとりましょう。こうして神様との関係は築かれていくのです。

『十人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。』(新約聖書 マルコの福音書 10:41)

   ヤコブとヨハネの話を聞いて、他の弟子達が腹を立てた理由は、彼らも偉くなりたかったからです。彼らは皆、イエス様に一生懸命仕えて偉くなりたいと思っていました。つまり、見返りを求めていたということです。どんなに立派なことを行なっても、そこに見返りを求める思いがあるなら、それは愛ではないとイエス様は言われました。どんな行いをしたかではなく、見返りを求めず、感謝して行ったかどうかが重要なのです。弟子の愛は双方向のものでしたが、神の愛は一方通行なのです。

『そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 』(新約聖書 マルコの福音書 10:42〜45)

   弟子達は偉くなることを求めていましたが、イエス様は仕える者になりなさいと教えました。自分を偉くすることは、あなたがたのためにならないからと主は言われます。

自分を苦しめる三本の柱

1.互いを比べる

   嫉妬、ねたみ、怒りは、人と自分を比べるところから始まっています。自分自身を正直に見つめるならば、人よりも優った生活をしていると安心し、自分よりも優れている人をうらやみ、妬む自分に気づきます。人と比べる習慣が自分を苦しめるものであることに気づきながらも、人と自分を比べてしまうのは、私達の中に、偉くなりたい、認めてもらいたいという願望があるからです。

2.人の目が気になる

   私達が人の目を気にするのは、人に良く思ってもらいたいからです。しかし、自分はどう思われているかを気にすることが、どれほど自分をつらくさせ、どれほど自分の自由が奪われていることでしょうか。

3.自分の境界線を越える

   自分にできる範囲のことを越えた願いを持つと、人はつらくなります。これが境界線を越えようとするということです。今の自分やその延長にあるものに満足せず、「○○のようになりたい。そうしたら幸せになれる」と思い込んでしまうと、つらさを感じます。私達が自分の境界線を越えようとするのは、偉くなりたいからです。しかし、その途端、人を裁いたり、高ぶったり、落ち込んだり、恐れたり、できないことをできるふりをしてしまったりと、苦痛に襲われます。人には、できる範囲のことがあります。その境界線を越えて、できる以上のことをやろうとすると、ひずみが生じて病んでしまいます。聖書は私達に、できることをすればいいとしか教えていません。私達はキリストの体の一部です。それぞれが異なる働きをする大切な器官であり、それぞれ違うできることをすればよいのです。だからイエス様は、できる範囲をわきまえて、あなたが行なったことについては「やるべきことをやったに過ぎない」と言うように教えています。人は、偉くなりたいという願望によって、できないことまでやろうとして、自分を苦しめます。前向きにチャレンジするのは良いことですが、境界線を越えて人の真似をしようとすると、争いやトラブルが生じ、やがて無理が生じて心が崩壊し病んでいってしまいます。
   ヤコブとヨハネが出世を求めた時、本人達は自分が何を求めたのかわかっていませんでしたが、イエス様はそれが二人を苦しめることになるとわかっていました。そこでイエス様が弟子達に教えたことは、仕える者になりなさいということです。イエス様ご自身が、自ら仕える者として生き、王として生きる権利を持っていたにも関わらず、徹底的に人に仕えました。それを象徴して私達に教えているのが、弟子の足を洗う場面です。イエス様は、最後の晩餐の時、弟子達の足を洗い、互いに仕える者となりなさいと教え、それを目指すことがあなたの幸せになるのだと語りました。イエス様は自分自身を十字架で捨てて、私達のためにいのちを差し出して仕え、身をもって仕える道を示されました。
   イエス様は、あなたを苦しめている「偉くなりたい」という思いと戦うように教えておられます。その方法は、裁かないことです。人は偉くなりたいと思うから、人を裁くのです。裁けば裁くほど、自分自身を追い詰めることになりますから、裁くのをやめて仕える者となるように教えておられるのです。
   私たちが偉くなりたいと願うのは、私達の根底に愛されたいという願望があるからです。その願望を満たすことができるのは、神様しかおられません。神様は、私達が何も頑張らなくても愛してくださっています。それは、私達が何かができるからではなく、ただ愛されるために造られた存在だからです。神様はそのために、一人一人に境界線を造って、それぞれができることをすればいいように造られました。そのことに気づかない限り、この悪循環を断ち切ることはできません。だからイエス様は、あなたがどんな者であっても愛していると証しするために、十字架に架かられたのです。私達が持っている「愛されたい」という願望は、神様しか満たすことができないと示し、行いに関係なく、赦し、救うことを示してくださいました。こうして私達の悪循環を断ち切ろうとしてくださったのです。
   偉くなろうとする気持ちが自分を苦しめていることを知り、イエス様が教えられたとおり、仕える者になりましょう。そうすれば、真の幸せを得ることができます。仕える者になるには神に愛されていることに気づくしかありません。イエス様の十字架は、そのための十字架です。