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2016年4月10日
ただ信じよう
(新約聖書 マルコの福音書 10:1〜31)
『イエスは、そこを立って、ユダヤ地方とヨルダンの向こうに行かれた。すると、群衆がまたもみもとに集まって来たので、またいつものように彼らを教えられた。すると、パリサイ人たちがみもとにやって来て、夫が妻を離別することは許されるかどうかと質問した。イエスをためそうとしたのである。イエスは答えて言われた。「モーセはあなたがたに、何と命じていますか。」彼らは言った。「モーセは、離婚状を書いて妻を離別することを許しました。」イエスは言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、この命令をあなたがたに書いたのです。しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。それゆえ、人はその父と母を離れ、ふたりは一体となるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」家に戻った弟子たちが、この問題についてイエスに尋ねた。そこで、イエスは彼らに言われた。「だれでも、妻を離別して別の女を妻にするなら、前の妻に対して姦淫を犯すのです。妻も、夫を離別して別の男にとつぐなら、姦淫を犯しているのです。』(新約聖書 マルコの福音書 10:1〜12)

人間関係を保つために

   モーセは確かに、離婚状を書けば妻を離縁しても良いと教えました。しかし、それは人々の心がかたくなで神の教えに聞き従おうとしなかったためであり、神の思いはそこにはないと、イエス様は教えておられます。神が人を男と女に造ったのは、二人がひとつとなって共に生きるためです。
   イエス・キリストは、キリストと教会の関係を夫と妻の関係にたとえました。夫婦が一つになるように、私達も神と一つになれます。本来、人は神と一つに生きるように造られています。一つのものを無理に引き離すと、本人を苦しめます。キリストと教会が一つであるように、夫婦も神の前には霊的に一つなのです。では、なぜ離婚する夫婦があるのでしょうか。
   夫婦に限らず、友達でも親子でも、人間関係が壊れる究極的な原因は、相手を愛せないことにあります。問題が起こると、相手を責める人が多いのですが、神が私達に教えている第一の教えは、「神を愛し、人を愛しなさい」です。その教えに従おうとしないで、相手の悪いところに目をつけて文句を言い、相手を自分に合わせて変えようとしていることが問題なのです。つまり、問題は相手にあるのではなく、神の言葉に従えない自分自身にあるのです。
   私達は人をさばくとき、このことにまったく気づいていません。あなたにとって一番大切な神様の言葉に従おうとしないことが、一番の問題です。神との関係を壊すことができないように、人との関係を壊すことも御心ではないと受け止め、御言葉こそ真理だと信じて、関係を築き上げることを学びましょう。

1.愛せないことが問題だと気づく

   聖書は、愛することを教え、相手をそのままで受け入れなさいと教えます。私達は、人を愛せよと言われると、相手に尽くして親切にすることが愛だと考え、相手に喜ばれようと願うものです。しかし、聖書が教える愛は、私達が考えている愛とはまったく質が異なります。それは、見返りを求めない愛です。自分のしたことを相手に良く思ってもらいたいと願うのは、愛ではないのです。つまり、神の助けなしに、人間の努力で人を愛することはできないのです。

2.神に愛されていることを知る

   私達が人を愛せないのは、自分が愛されていることに気づかないからです。 聖書は繰り返し、あなたは愛されていると語ります。イエス・キリストは十字架にかかり、「私はこれほどまでにあなたを愛している」という強烈なメッセージを伝えました。あなたのどんな罪をも赦し、あなたの重荷をすべて背負い、あなたのためなら命さえ惜しまない・・・これが十字架の愛です。この愛を受け取る方法は、こんなことをしている自分は愛されないと思ってしまう、人には知られたくない罪や、あなたにとってつらい出来事を、神の前に言い表し、平安を体験することです。
   イエス様は、多くの罪が赦された人は多く愛する者になると言われました。自分が罪人であることに気づき、イエス様に愛されていることに気づくことが、人を愛する道に至ります。

3.互いに病人だと認める

   人との関係を築く上で忘れてはならない大切なことは、私達はお互いに病人だということです。罪は病気であり、責める対象ではなく、いやされるものです。罪も、体の病気も、神との関係が断ち切られたところからスタートしています。アダムとエバが悪魔にだまされて、この世界に死が入り、神との関係が壊れた結果、体は朽ちるものとなり病気にもかかるようになりました。そして、神に愛されている自分が見えなくなり、神以外のもので心を満たして安心しようとする罪が生じたのです。
   イエス様は私達の罪を背負っていやすためにこの地上に来られたのです。罪は病気でありいやされるものだと気づけば、相手の罪をさばくのではなく、いやされるように祈り合えばよいのだとわかります。

行いでは救われない

『さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。エスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。』(新約聖書 マルコの福音書 10:13〜16)

   弟子が子どもを追い払ったのを見てイエス様は憤り、「子どものように神の国を受け入れる者でなければ神の国に入ることはできない」と言われました。ここから、キリスト教の土台となるイエス様の大改革が始まったのです。
   当時の常識としては、子どもは価値の低い存在でした。なぜなら、子どもはほとんど戒めを守ることができないからです。人々は、律法を守ることで神に近づき救われるのだと考え、その結果、神の律法を利用して、どれくらい律法が守れるかでその人の価値を決めていました。これが律法主義です。
   この常識によって弟子達は、何もできない子どもがイエス様に近づくなどとんでもないと考えました。ですから、「子どものようにならなければ救われない」というイエス様の言葉は、人々にとって衝撃的な言葉だったのです。
   確かに子どもは、多くの律法を守ることはできませんが、聞いたことを素直に信じます。つまり、イエス様は、行いで神に近づくのではなく、信じる者が救われると教えておられるのです。

『イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。』(新約聖書 マルコの福音書 10:17〜22)


   神の戒めをすべて守っていると言うこの男性は、イエス様に、「あなたは救われる」と言って欲しかったのです。ところがイエス様は「ああ、この人は本気で神の律法を守れば永遠のいのちがもらえると思っているのだな」とあわれまれました。
   神の律法は、「愛しなさい」という一語に言い表すことができます。自分を愛するように隣人を愛することこそ、神の律法の意図であり、目指すところです。イエス様が「持ち物を売って施しなさい」と言ったのは、本当に律法を守るとはどういうことか、神の律法の真髄を語り、表面的に律法を守っても本質は実行できないことに気づかせ、誰も律法によって救われることはできないと教えたかったのです。

人にはできないが神にはできる

『イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国に入ることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 マルコ10:23〜27)

   人間の側からは何もできないけれど、神の側から手を差し伸べて救うことができる、この教えが革命です。人の行いや努力によって救われるのではなく、差し伸べられる御手をただ握り締めて、信じるだけで救われるという教えが、当時の常識とはあまりにもかけ離れたものであったために、律法主義のパリサイ人は激怒し、イエス様への迫害を始めたのです。

『父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:21)

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24)

   神がいのちを与えるのは、神の言葉を聞いてただ信じる人です。行いで神に近づくことはできません。イエス・キリストを信じるだけで永遠のいのちが与えられる、これが、キリスト教の一番大切な教えです。

『ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 10:28〜31)

   律法で救われないのなら、神は何のために律法を与えたのでしょうか。それは、律法では救われないことを教えるためです。ペテロは、イエス様の言葉の意味が理解できず、「すべてを捨ててついてきた私は、救われますよね」と、見当はずれなことを言っています。それほど、信仰で救われるという教えは、当時の人には理解できないものだったのです。そのため、本当に行いによって救われるかどうか実行させるために、律法が与えられたのです。律法があることで、それを守れないという罪が生まれ、すべての人が神に助けを求めるしかない状態になりました。聖書は、律法によってすべての人が罪の下に閉じ込められたと言っています。
   イエス様が、永遠のいのちを求めてきた男性に全財産を売るように言ったのは、結局自分の力ではできないということを教えるためであり、神に助けを求める道を開いてくださったということです。ペテロに対して、迫害を受けてもついてくるなら救われると語ったのも、神に助けを求めることだけが大切だと教えておられるのです。神の言葉を信じようとする者に、必ず迫害は起こります。しかし、迫害を恐れ、信じることをやめるなら、永遠のいのちを手に入れることはできないのです。どうしても神に助けを求めなければなりません。


信じることの障害になっているもの

『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:6)

   行いではなく信じることで救われる、これがキリスト教の根幹をなす教えです。ところが、この世にあるものが、私達が神の言葉を信じることを妨げています。それはどんなことでしょうか。

1.この世の幸せ

   「金持ちが救われるのは難しい」とは、この世の幸せを満喫している人は、なかなか神様に頼ろうという思いにいたらないということです。そういう人は、神様の思いから離れて、この世の幸せを得るために神を利用しようとしてしまうことが、間々あります。
   イエス様は、つらさを味わっている人ほど幸いだ、とこの世とは逆のものの見方をなさいます。なぜなら、そこには神に心が向くチャンスがあるからです。人にはそれぞれ背負っている重荷があります。人と比べると不幸だと思うかもしれませんが、神の目で見るなら不幸ではなく幸いなのです。人とは異なる弱さによって、神に助けを求め、恵みを得ることができるからです。むしろ、この世が幸せだと思っている出来事が、神の恵みを受ける妨げになってしまうのです。

2.この世の迫害

   イエス・キリストを信じようとする時、家族が反対するからと、洗礼をためらう人は少なくありません。そのため、イエス様は「迫害を受けてもついてくるならば救われる」と、励ましておられるのです。信じる者は必ず迫害を受けます。しかし、迫害を恐れず一歩を踏み出すならば、まわりが変わります。
   キリスト教の歴史は迫害の連続です。しかし、迫害にあっても信仰を捨てないで信じ続けるという決断をしたことによって、かつてキリスト教を大迫害したローマ帝国も、キリスト教を伝える中心に変わってしまいました。それは、信じていることの中身が正しいからです。何があっても信じ続けて前に進みましょう。

3.この世の知恵

   聖書の教えが、この世の常識に合わないと、信じる妨げとなる場合があります。たとえば、現代の進化論は、聖書の教えと対立する位置にあり、この教育を受けると、聖書の内容は真理ではないのではないかと疑ってしまいます。しかし、人間が進化してできたとする理論が間違っていることを指摘する科学的資料も、たくさんあるのです。進化論に限らず、すべての局面で常識が正しいとは限らないのです。
   どうか、この世の幸せ、迫害、常識に惑わされることなく、神の愛を受け取りましょう。