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2016年4月3日
死人に問われる罪
(新約聖書 マルコの福音書 9:38〜50)
神様の考え方と人の考え方

『ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」 しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行いながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はないのです。
わたしたちに反対しない者は、わたしたちの味方です。
あなたがたがキリストの弟子だからというので、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。』(新約聖書 マルコの福音書 9:38〜41)


   「反対しない者は味方である」とは、実に肯定的な物事の考え方です。イエス様は、最初になさったメッセージでも、「心の貧しい者は幸いである」と、人の考え方とはまるで異なる肯定的なとらえ方をなさいます。
   人は、困難に出会うとあきらめ、患難に出会うと罰が当たったなどと考えます。それは、すべての人が「このままではダメだ」という思いを持っているからです。それが、最終的に、自分はダメだというイメージに結びつき、否定的な物の見方になってしまうのです。
   しかし、神様は、人は神の作品であり、愛されるために生まれたと言っておられます。神は、すべてのものを働かせて益としてくださる方なので、あなたにはすべてが良きものであり、すべてがあなたにプラスになると言うのです。
   このように、神と私達のものの考え方はまったく違うのですが、私達が目指すべきところは、神の考え方を学び、それに近づくことです。その原点は、人は良きものであるというところにあります。
   私達が神からいただく報いとは、平安という報いです。「弟子を支える人は報いを失わない」とは、奉仕する人をサポートし、自分にできることで神の働きに参加することが、自分自身の平安になるという意味です。

つまずきとなるものを切り捨てよ

『また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。
もし、あなたの手があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片手でいのちに入るほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。
もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちに入るほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国に入るほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。 すべては、火によって、塩けをつけられるのです。
塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によって塩けを取り戻せましょう。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに和合して暮らしなさい。』(新約聖書 マルコの福音書 9:42〜50)


   これらのことを、字義通り実行するとしたら大変なことです。私は幼い時にこの御言葉を教えられ、自分はこの石臼にゆわえつけられて海に投げ込まれたほうがましな人間なんだなと痛烈に思ったものです。実は、こう思う人は幸いなのです。自分は罪人だと知ることが、救いの一歩だからです。
   なぜ神はこのようなことを言うのでしょうか。この御言葉を正しく理解するためには、聖書は、人はすでに死んだ状態で生まれてきたという前提で語られていることを知らなければなりません。

『というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 5:21〜22)

   聖書が教える死とは、神との関わりがない状態のことです。私達は、神のいのちによって、神とつながって生きるように造られました。ところが、アダムが蛇にだまされたことによって、人類は神との関わりを失い、つまり、すべての人が死んだ状態になってしまったのです。花瓶に活けられた花がどんなに生き生きしていても、どんなに手を尽くして世話をしたとしても、根が切り取られている花はやがて枯れてしまうように、神との関わりが断たれた状態を放置すれば、人は必ず死んでしまいます。つまり、神の目から見ると、私達はすでに死んだものなのです。
   では、死んでいる人間に対して、罪を問うことはできるでしょうか。すでに死んでいる人を投獄しても、死刑にしても意味のないことです。つまり、神の目に死んでいる私達は、神から罪を問われることはないのです。

『まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。』(新約聖書 マルコの福音書 3:28〜29)

   私達がどのようなことをしようともさばかれないのは、私達が罪を問うても意味のない死人だからです。このことが理解できないと、福音がわからなくなってしまいます。神は、世を裁くためではなく、世を救うために来たと言われます。それは、すでに裁かれている私達をさらにさばく必要はなく、むしろ助けるために主は来られたということです。死んでいる人を助ける唯一の方法は、生き返らせることです。
   切り取られ死んでいる草花を生き返らせる方法は、接ぎ木して根につなぐことです。聖書は、主はぶどうの木であり、私達は枝であると教えています。神は、神と離れた状態で死んでいた私達を接木して生かしたいと願っておられるのです。
   そのために神は、私達に手を差し伸べ、この手を握りなさいと語りかけておられます。主は、私達の心のドアをたたき、心を開いて私を受け入れなさいと語りかけます。この言葉を受け入れ、神の御手にしがみつくならば、誰でも救われます。これが救いです。死んでいたものが生きるようになるということです。
   神は、一人でも多く救い出そうとして常に私達に呼びかけておられます。この神の呼びかけを無視したり拒否したりするならば、接ぎ木されなかった花がいずれ枯れてしまうように、その人は滅びるしかありません。
   つまり、「聖霊を汚す者は赦されない」とは、神の呼びかけを拒否するなら、その人は滅びるしかないということです。神の呼びかけに応答すれば、誰でも神のいのちの木に接ぎ木されて救われます。今この地上で生きている間に神の言葉に聞き従うかどうか、神はそれ以外のことを問わないのです。

神の子の声を聞く者は生きる

『神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:17〜18)

   キリストは世をさばくためではなく、救うために来られました。キリストを信じなければ、誰も救われません。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:25)

   私達は、神とのかかわりを持たず、死んだ状態でした。この死人が、聖霊が語りかける声を聞き、その呼びかけに応答するなら、生きるようになるのです。これが救いです。自分自身の行いに関係なく、ただ神が差し伸べてくださった御手にしがみつき、イエス・キリストを知ることで救われるのです。
   神は私達を救いたいのです。すでに死んでいる人間に罰を与えても何の意味もありません。神は私達を救い出すため、なんとしても神の御手にしがみつかせようと、呼びかけ続けておられるのです。
   そのために、神は、私達を「自分はこのままでは死ぬんだ」という現状に気づかせようとなさいます。自分はすでに死人であり、永遠のいのちを受け取らなければ死ぬんだと気づくことで、神の御手にしがみつこうとさせるのです。
   それが先ほどのイエス様の言葉となり、「自分は、このままでは手足を切り落とされ、ゲヘナに投げ込まれて、死ぬしかない存在なのだ。」と自分の罪に気づかせ、神に助けを求めるように導いておられるのです。
   つまり、神は私達に、自分が今どういう状態にあるかを気づかせるために、私達にできないことを要求しておられるのです。いや、神とつながっていた本来の姿ならばできることが、神とのつながりを失ったために、今の私達にはできなくなってしまったのです。神といのちを共有していた時には、自分を愛するように隣人を愛することができたし、人をさばいたりもしなかったのです。本来人はそのように造られているからです。
   そこで神は、本来あるべき姿を私達に突きつけ、それができないなら、そんな体は捨ててしまいなさいと迫ってこられるのです。つまり、今の私達の姿は、本来の姿ではありません。今の姿は神が造ったものではなく死の姿です。そして神は、このままだと死ぬしかないのだから、あなたはどうするのかと突きつけておられるのです。これが、先ほどのマルコ9章でイエス様が語った言葉の意図するところです。
   自分は罪人だと打ちのめされた人は、どのような状態になるでしょうか。その時私達は、この取税人のように祈るしかありません。

『ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。』(新約聖書 ルカの福音書 18:13〜14)

   「主よ、私をあわれんでください」と祈ったこの時こそ、彼が神の御手にしがみついた瞬間です。私達が差し伸べられた御手をつかむとき、神はその手を決して離さず、永遠のいのちを与えて救い出してくださいます。
   神は、なんとしてでも神の御手をつかませたいと願って、時に厳しい言葉も使われます。もし、このまま放置すれば必ず死ぬとわかっている病人がいたら、家族の人は、あらゆる言葉を使って説き伏せ、なんとしてでも医者に連れて行こうとするでしょう。神もまったく同じです。あなたの罪を問うことが目的ではなく、あなたを罪に気づかせ、このままだとどうしようもないから、聖霊の働きを拒否してはいけない、助けを求めよと教えておられるのです。
   イエス様は、厳しい言葉を語る以上に、信じるならば救われることを繰り返して語っておられます。「主よ、あわれんでください」と言うだけで、誰でも救われます。神は一貫して、死んでいる者をなんとか助けたいと願って、私達にアプローチしておられるのです。

罪を問われないなら何をしてもよいのか

   さて、神が私達の罪を問わないのならば何をしても良いのか、どんなことをしても赦されるというのが神の恵みなのかと、疑問を持つ人々が現れました。これに対して、パウロは次のように述べています。

『それではどうなのでしょう。私たちは、律法の下にではなく、恵みの下にあるのだから罪を犯そう、ということになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:15)

   「神はあなたの罪を問わない」とは、救われていない人にとっては救いの手引きとなりますが、救われた人にとってはどのような意味を持つのでしょうか。
   死人に罪を問うことができないように、神との関わりを持たず霊的に死んだ状態であった私達に罪を問うても意味のないことです。さらに神は、神との関係を回復して生きる者になっても、それでも罪を問わないと言っておられます。なぜなら私達は、神との関係を回復しても死の世界に生きており、肉体的には死んだものです。つまり、この世界では死の影響を受けているために、死への恐れがあり、どうしても見えるものにしがみつこうとしてしまう存在なのです。これが私達が肉の行いに走ってしまう原因です。神はそのことをよく知っておられるので、私達の罪を問うことはなさいません。神にとって私達の罪を問うのは意味のないことであり、罰があるわけではないのです。
   しかし神に罪を問われないからといって、罪をそのまま放置して良いわけではありません。神は救われた者に対して、罪と戦うように教えておられます。それは、罰を受けないためではなく、平安のためにです。

『ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:12〜14)


『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。
私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。ですから、この私は、心では神の律法に仕え、肉では罪の律法に仕えているのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:24〜25)


   私達は神との関係を回復して救われても、以前と変わらず罪を犯してしまうみじめな人間です。しかし、神はその罪を問うことはありません。「神は罪を問わない」とは、私達が考える以上に深い意味があります。
   救われた私達は、罪が問われることも天国に行けなくなることも決してありません。ところが、クリスチャンが罪を放置してしまうと、そこにはつらさが増し加わります。罪とは、心を神に向けさせない働きをするものです。神ではなく、見えるもので満足しようとするのが罪です。ですから、罪から離れなければ神との関係が築けません。すると、救われて神を知っただけで、平安を得ることができないのです。
   いったん神との関係を回復して救われた喜びを知ってしまうと、魂がその喜びを求めるようになります。アイスクリームの味を知った子どもがアイスを欲しがるように、神とつながる喜びを知った魂は、それを求めようとします。ところが、私達がそれと逆の生き方をすると、心は以前にも増してつらくなるのです。よく「クリスチャンになったのに平安が来ない、ますますつらくなったのはどうしてですか。」という声を聞きますが、それはその人が罪と戦おうとしないからです。神が私達に罪と戦いなさいと教えているのは、罪を問うためではなく、取り除くためであるということです。罪を放置すると、あなたがつらい苦しみを味わうことになるから、罪と戦うように教え、助けてくださるのです。

神の赦しとは罪を取りのぞくこと

   罪は、死の恐怖から生まれました。私達は、救われても肉体は死の世界に生きているため、死の恐怖に打ち勝つことはできず、戦いたくても戦えません。そこで神の恵みが用意されました。神の恵みとは、罪を見過ごす恵みではなく、罪を取りのぞく恵みです。神は私達を平安で満たしたいと切に願い、ただ罪を言い表せば、その罪を取りのぞいて悪からきよめると約束しておられます。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   世の中で罪が赦されるとは、法的な意味で罰を受けないということです。しかし、聖書が教える罪の赦しに、そのような意味はまったくありません。
   私達は死人であり、罪を問われることはなく、神にとって裁く対象ではありませんから、もともと罰はありません。神が罪を赦すとは、罰を免れるという意味ではなく、罪を取りのぞくという意味です。神は、あなたが自分の罪を言い表すなら、罪を赦し、悪からきよめると言われます。罪は放置せず取りのぞくもの、これが神の赦しです。

『愛には恐れがありません。まったき愛は恐れを締め出します。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

   死の恐怖の奴隷となって、見えるもので心を満たそうとしている生き方を締め出す方法は愛しかありません。罪が赦されるとは、見えるもので心を満たそうとする生き方から私達を解放するということです。罪を放置するとつらくなるから、神からの平安を受けとるために罪と戦いなさいと神は教えておられます。神は私達が、ただ神を知っただけで終わらず、安息を目指し平安を手にして生きてほしいと願っておられるのです。神は私達が罪と戦うように仕向けるために、時に厳しい言葉も使われます。
   神が厳しい言葉を使う理由は、二つです。一つは、救われていない人を救うためにあなたは死人だと気づかせるためです。もう一つは、救われた人を罪と戦わせるためです。神はいのちを回復して生きる私達に平安を得させたいと願い、真の喜びを得させたいと願い、そのために神にしがみつくように仕向けます。神が厳しい言葉を使うのは、決して私達を罰するためではありません。