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2016年月3月13日
祈りが必要
(新約聖書 マルコの福音書 9:14〜)
イエス様がなげかれた不信仰とは

『さて、彼らが、弟子たちのところに帰って来て、見ると、その回りに大ぜいの人の群れがおり、また、律法学者たちが弟子たちと論じ合っていた。そしてすぐ、群衆はみな、イエスを見ると驚き、走り寄って来て、あいさつをした。
イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を議論しているのですか。」と聞かれた。すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」』(新約聖書 マルコの福音書 9:14〜19)


   イエス様が、ペテロとヤコブとヨハネを連れて祈りから戻ってくると、弟子達と律法学者達が議論していました。それは、弟子達が祈っても病気の子どもをいやすことができなかったからです。これを知ったイエス様は、「ああ、不信仰な世だ」となげかれました。それは、彼らが、「なぜいやされないのか」と議論するばかりで、主に助けを求めることをしなかったからです。不信仰とは、神を信頼しないことです。神が人に求めているのは、立派な行いができることではなく、神を信頼し、神に求めることです。イエス様は以前、弟子達が「神のわざを行うとは何か」を尋ねた時、「神が遣わされた者を信じること」とお答えになりました(ヨハネ6:29)。また、ペテロが、イエス様のことばを信じなかった時も、「さがれ、サタン」と厳しい言葉で叱責なさっています。

『それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(新約聖書 マルコの福音書 8:31〜33)

   イエス様が、「私はこの後、殺されるが、3日後によみがえる」とおっしゃった時、ペテロは「そんなことは起こるはずがありません」と言って、イエス様をいさめました。この時、イエス様が「下がれ、サタン」と言われたのは、ペテロが神のことではなく人のことを思っていたからです。これが、私達が戦わなければならない敵です。神のことではなく人のことを思うことを、イエス様は「世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望」(マルコ4:19)とおっしゃいました。イエス様の言葉を否定するペテロの行為こそ、人を思う思いが神の言葉を信じさせない世の心遣いです。これが、イエス様がなげかれた不信仰なのです。
   この世の心遣いとは、人からよく思われようとすることです。それはまず相槌を打つことから始まります。相槌は、相手の考えに合わせることを示します。こうして、相手から良く思われて安心を得ようとしているのです。さらに相手の考えに合わせる次のステップは、常識を共有することです。私達は、相手から良く思われるために、相手と同じ常識に立とうとします。
   ところが、この世の人々の常識に合わせると、神の奇蹟をすべて否定しなければならなくなります。死人がよみがえること、病がいやされること、処女からの誕生など、この世の常識では、とても受け入れられないことです。常識を共有しないと人から変な目で見られるという恐れが、日本で宣教が拡大しない大きな原因になっています。多くの人は、イエス・キリストが唯一の神だと信じると、変な目で見られるのではないかと不安に思い、信じることに二の足を踏んでしまうのです。キリスト教の中にも、神の教えよりもこの世の常識を優先しようとする人々が存在しますが、それはただの知識で信仰ではありません。
   弟子達は、子どもがいやされなかったことについて、律法学者と世の常識に立った議論をしていました。イエス様はこれを不信仰とおっしゃったのです。不信仰は、神の言葉をふさぐ罪です。罪は、ギリシャ語でハマルティアと言い、悪い行いを意味する言葉ではなく、神に心を向けない状態のことです。人は、神に心を向けず、神の言葉を食べようとしないために、平安を得ることができなくなってつらくなり、このつらさから逃れるために、欲望を満たそうと悪い行いが生まれるのです。
   イエス様が戦われるのは、不信仰という罪に対してです。罪と戦うとは不道徳と戦うことではなく、神に心を向け、神の言葉を食べようとすることです。いくら見えるところが変わっても、神の言葉を食べようとしない限り、何の意味もありません。人から良く思われようとして常識に立とうとする世の心づかいこそ、神に心が向かない原因であり、イエス様がなげかれた不信仰です。

災いは神の罰ではない

『そこで、人々はイエスのところにその子を連れて来た。その子がイエスを見ると、霊はすぐに彼をひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、ころげ回った。イエスはその子の父親に尋ねられた。「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」父親は言った。「幼い時からです。
この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」』(新約聖書 マルコの福音書 9:20〜22)


   少年の病は悪霊によるものとありますが、病のいやしについては、時代背景を少し考慮する必要があります。この時代、多くの病気の原因はまだわかっていなかったので、すべての病は悪霊によるものだと考えられていました。しかし、現在では原因が明らかになり、治療法が確立されている病気もたくさんあります。聖書は、病気の治療を否定するものではありませんから、病は悪霊のせいだから薬や医療に頼るのは不信仰だと考えてしまうと、正しい対応ができなくなってしまうので、この点には気をつけなければなりません。
   私達がここから学ぶべきことは、病は外から入ってきたものであり、その人が何か罪を犯したから病気になったのだと考えるのは、大きな間違いだということです。この世には、何か災いに会うと神の罰だと考える風潮がありますが、決してそのようなことはありません。当時の弟子達も、目の見えない人について誰が罪を犯したせいでこの人は目が見えないのかとイエス様に尋ねていますが、イエス様は、誰の罪のせいでもなく神の栄光が現れるためだとおっしゃいました。
   そもそも、もし災いが神の罰であるならば、私達が罰を受けるのは神のご意志ということになりますから、イエス・キリストが十字架にかかる必要はありません。イエス様が十字架にかかったのは、災いから私たちを救うためです。それは、苦しみの原因がその人自身にあるわけでなく、外から入ってきたものが原因だからです。
   この時、イエス様が男の子の病気に対して質問していらっしゃる様子から、神はあわれむ神だということがわかります。イエス様は、彼が病気になったのは誰かのせいだなどと一言も言わず、ただ助けたいとあわれんでおられるのです。

祈りとは何か

『「・・・もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 9:22〜23)

   私達は困難が大きければ大きいほど、「もしできるなら」と願ってしまいます。しかし、イエス様は、「私はあなたを助けることができる。信じなさい。」と言われます。この言葉を聞いた父親は、次のように言いました。

『するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」』(新約聖書 マルコの福音書 9:24)

   「助けてください。信じます。憐れんでください。」これこそが、神が求めている言葉であり、神を信頼する行動です。

『イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行った。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言った。
しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。 イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」』(新約聖書 マルコの福音書 9:25〜26)


   イエス様は、「この種のものは祈りによらなければいやせない」と答えておられますが、弟子達も祈りはしました。しかし、弟子達の祈りは口先だけの祈りであり、イエス様の目から見ると祈りではなかったということです。祈りとはいったい何でしょうか。
   ルカの福音書の中に、イエス様がパリサイ人の祈りと取税人の祈りについて語っておられる場面があります。パリサイ人は、自分がどんなに律法に従うことができたかを挙げたてて感謝する祈りをささげ、取税人はただ「この罪人をあわれんでください」と祈りました。この時、イエス様が義とすると言われたのは、取税人の祈りです。つまり、祈りとは神に助けを求めることなのです。弟子達は、イエス様に助けを求めることをせず、議論をしました。ここが弟子達の誤りです。
   あなたは、本気に神に助けを求めているでしょうか。私達は自分の力で神を信じることはできません。ぶつかった問題が大きければ大きいほど、本当に解決できるのだろうかとつぶやいてしまうものです。しかし、神に助けを求めるなら、神様が信じさせてくださり、与えられた信仰によって神の奇蹟をも見ることができるようになるのです。信じるためには、どのように祈ればよいのでしょうか。

聖書が教える祈りの3つのステップ

1.告白する

   まずは、あなたが信じたいと思うことを語りましょう。たとえ心の中でまだ信じられないという思いがあってもかまいません。本当に信じようとするなら、信じようと思うことを語りましょう。そうでなければ、いつまでたっても信じられるようにはなりません。

『「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 4:13)

   創世記に登場するヨセフは、夢を語る人でした。彼は、神から示された神の思いを語り続けました。そのために、ヨセフは兄弟からねたまれ、エジプトに奴隷として売り飛ばされてしまったのですが、それでも彼は夢を語ることをあきらめず、神は彼を愛し助け、ついにはエジプトの総理大臣になるのです。こうして、イスラエルが飢饉になった時、ヨセフは兄弟たちを呼び寄せて助けることができました。こうしてイスラエル民族が形成されていったのです。
   病の子どもの父親は、即座に「信じます。」と叫びました。たとえ心の中に疑いがあったとしても、まずは語ることからスタートしましょう。

2.できることをする

   ただ信じると言うだけでは、何も起こりません。信じることに向かって、できることを行いましょう。ヨセフは、奴隷になっても、囚人になっても、与えられた環境の中で自分にできる最善を尽くしました。ただ語るだけで何もしないのは、信仰ではありません。生きた信仰には行いが伴います。

3.祈り続ける

   信仰を語り、最善を尽くしたとしても、心の中ではなお神の言葉が信じられず、つぶやいてしまう自分がいるでしょう。これを消し去るものは、祈りしかありません。つぶやく自分に気づいたら、「私を憐れんでください」と神に祈りましょう。多くの人は、これをしないで、あきらめてしまうのです。しかし、祈ることによって、神に助けられ、信仰は本物になって、信じられるようになっていきます。

『それは、あなたがたがなまけずに、信仰と忍耐によって約束のものを相続するあの人たちに、ならう者となるためです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 6:12)

   語り、できることをし、そして忍耐することが祈りであり、神を信じようとする戦いです。患難や現実から目をそらすことなく祈ることが重要なことです。祈りとは、忍耐です。

『こうして、アブラハムは、忍耐の末に、約束のものを得ました。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 6:15)

   アブラハムは、神様から子どもがあたえられると預言されていましたが、老人になり、現実には不可能に思える状態になっても、祈り続けました。その結果、本当に子どもが与えられました。祈りとは、信じ続ける戦いです。

祈りとは忍耐

『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 10:36)

   忍耐とは祈ることです。これが私達に必要なことです。なぜ、弟子達にいやせなかったのか、それは、彼らが神に助けを求めず、忍耐して信じ続けることもせず、つまり、祈らなかったからです。彼らは、もうだめだと思って、この世の常識に立って人々と議論していたのです。

『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 11:13)

   神が私達に最も与えたいと思っておられるのは平安です。忍耐して祈り続けることで、本物の信仰を手に入れた人々は、実際に手に入れる前から、喜びで満ちあふれていたのです。
   これが、神が私達に与えたいと願っておられる信仰です。神の言葉が信じられるようになることで生まれる平安です。これが目に見える問題が解決される以上に、素晴らしい宝なのです。人はなかなかこのことに気づかず、なぜとつぶやいてしまうものですが、本当に信じることができれば、現実がどうであれ、平安を得ます。この平安こそ神が与えたい答えです。
   神を信頼できるようになるために、神は私達と友の関係を築くと言われます。友とは、信頼し合うものです。神の言葉が信じられることで得られる平安こそ、神が与えたいものです。あきらめずに祈り続け、この平安を手にしましょう。