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2016年月2月28日
敵の正体
(新約聖書 マルコの福音書 8:22〜)
だまっていなさい

『彼らはベツサイダに着いた。すると人々が、盲人を連れて来て、さわってやってくださるようにイエスに願った。イエスは盲人の手を取って村の外に連れて行かれた。そしてその両眼につばきをつけ、両手を彼に当ててやって、「何か見えるか。」と聞かれた。すると彼は、見えるようになって、「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます。」と言った。それから、イエスはもう一度彼の両眼に両手を当てられた。そして、彼が見つめていると、すっかり直り、すべてのものがはっきり見えるようになった。そこでイエスは、彼を家に帰し、「村にはいって行かないように。」と言われた。』(新約聖書 マルコの福音書 8:22〜26)

   イスラエルの村は砂漠のような場所に点在しており、村の外には何もなく、人も来ないところです。イエス・キリストは、目の見えない人をわざわざこのような場所に連れて行っていやし、いやされた後も村に入らないように注意しました。それは、いやされたことが、村でうわさにならないようにするためです。なぜなら、イエス様がこの地上に来られた目的は、病をいやすためではなく、神との関係を回復して、私達を救うためだからです。いくらこの地上での問題を解決しても、永遠のいのちを損じたら何の意味もありません。この世の宗教は、問題を解決しご利益を与えるものだと思われていますが、イエス・キリストはそうではありません。問題を解決してもくださいますが、目的は救いです。そのため、いやされたことが人々のうわさにならないようになさったのです。
   また、イエス様は手を置けばいやすことができるにもかかわらず、今回はわざわざ盲人の両目につばきをつけ、手を当てて、見えるかと尋ねておられます。まるで医療を行う医師のようなこの動きから、イエス様は医療を否定してはいないことを理解することができます。信仰が極端になると、祈ればいやされるのだから、医者にかかるのは不信仰だと教える教派もありますが、決してそのようなことはありません。医者には行かず祈っていやされるべきだというのは、正しい信仰ではなく、むしろ神を試していることになります。多くの場合、神の御心は人を通して実現するものであり、常に神様が直接働かれるわけではありません。いやされるように祈ることは正しい信仰ですが、人にできることまで止めることはありません。医者や薬を用いた場合も、用いなかった場合も、いやされたことを神に感謝することが大切です。

『それから、イエスは弟子たちとピリポ・カイザリヤの村々へ出かけられた。その途中、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々はわたしをだれだと言っていますか。」
彼らは答えて言った。「バプテスマのヨハネだと言っています。エリヤだと言う人も、また預言者のひとりだと言う人もいます。」 するとイエスは、彼らに尋ねられた。「では、あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」ペテロが答えてイエスに言った。「あなたは、キリストです。」
するとイエスは、自分のことをだれにも言わないようにと、彼らを戒められた。』(新約聖書 マルコの福音書 8:27〜30)


    キリストとは、旧約聖書に預言されている救い主のことです。ペテロが「あなたは神であり、救い主です」と告白すると、イエス様は、このことを誰にも言ってはならないと言われました。
   イエス様が神であることは、弟子達との会話の中では、時々証しされています。たとえば、中風の人に「子よ。あなたの罪は赦されました」と語られた時、神だけが罪を赦す権威を持っていることをイエス様は公に宣言なさいました(マルコ2:5〜11)。また、「安息日は人間のために設けられたのであり、人間が安息日のために造られたのではない。人の子は安息日にも主です。」(マルコ2:27〜28)と、安息日の定義を再解釈しておられますが、このようなことは、神以外してはいけないことです。ヨハネの福音書を読むと、さらに詳しくご自身が神であることを弟子達に告げておられますが、同時にこのことは黙っているようにと教えておられます。なぜでしょうか。イエス様は、次のように語っています。

『わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:21)

    つまり、イエス様が神であることが公になると、ご利益を求める人々が「主よ、主よ」と呼ぶでしょうが、それが救いに結びつくわけではないということです。神は、求める人をいやしてくださいますが、それは救いとは関係がなく、御心を行なうことだけが救いにつながる道なのです。では、「御心を行う」とは、いったいどのようなことを指すのでしょうか。

御心を行うとは

   御心に従うことが救いに預かる唯一の道だということは、人は行いによって救われるということなのでしょうか。決してそうではありません。イエス様のメッセージは簡潔で、私達がすべきことを教えてくださいます。そして、その理由は弟子たちが明らかにしています。
   神の御心とは、律法が示す通り、神を愛し、人を愛することに集約されます。なぜこれが救いにいたる道になるのかについて、パウロは次のように語っています。

『では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:19)

   神の律法は、従おうとすることによって、律法に従えない自分に気づくために存在します。律法がなければ、私達は神の御心に違反していることに気がつかず、自分のことをそこそこの善人だと思って過ごしてしまうものです。ところが、御言葉を実行しようとすると、実行できない自分に気づき、自分が罪人であることに気づくことができます。すると、私達は神に赦しを求めて憐れみを請うしか道はありません。このことによって、私達は神との関係を築くことができるようになり、救いにいたるのです。これが、律法に従えば救われると言われる理由です。

『とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。
信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、それは、やがて示される信仰が得られるためでした。こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:21〜24)


    律法によってすべての人が罪人にされたとは、律法を知ることで、誰もが自分の罪深さを知ることができることを表しています。その結果、私達はキリストに助けを求めるしかなくなり、これが神に応答する行為となって、救いが与えられるのです。神と人の関係は、医者と病人の関係です。病気に気づかなければ、医者との関係を築けないように、罪に気づかなければ私達は救われません。
   御心を行うとはどういうことかを教えるために、イエス様は次のように話されました。

『自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。
「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』
あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 18:9〜14)


   一見すると、御心を行っているのはパリサイ人であるかのように思ってしまいますが、もしパリサイ人が御心を行っているのであれば、こんな祈りはできません。聖書は旧約時代から一貫して、何か一つでも違反すれば律法を実行したとは言えないと教え、義人は一人もいないのだと教えています。律法は、自分が義人であることを証明するためのものではなく、私達が自分の罪という病気に気づくためのものであり、神に助けを求めて救われるためのものです。自分の罪に気づくことなく、ご利益を求めて「主よ、主よ」と言ったところで救われません。自分の置かれた状況に気づき、神に心から助けを求めるならば、誰であれ救われます。イエス様は、人々がご利益を求めるのではなく、自分の罪に気づいて救いを得る道を進むように、ご自分がキリストであることや、病がいやされたことを、人々には黙っていなさいと指示しておられるのです。

下がれ、サタン

『それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。
しかも、はっきりとこの事がらを話された。するとペテロは、イエスをわきにお連れして、いさめ始めた。
しかし、イエスは振り向いて、弟子たちを見ながら、ペテロをしかって言われた。「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(新約聖書 マルコの福音書 8:31〜33)


    イエス様がペテロに「下がれ、サタン」と言われたのは、私達が戦うべき敵は私達の中にあるからです。ペテロはサタンではありませんが、この言葉は、ペテロの中のある部分を指し示しておられます。それは、「神ことを思わないで人のことを思っている」点です。これが、自分自身の中にあって自分を苦しめているのです。
   ペテロはイエス様のことを思っていさめたようにも思えますが、実はそうではありません。この時イエス様は、人目をはばからずはっきりと「私はこれから祭司長や律法学者たちに殺されますが、三日後に生き返ります。」と宣言なさいました。もし皆さんの親しい人が、このような常識ではありえないことを公然と言い始めたら、どのように感じるでしょうか。「そんな非常識なことを言って、人からどう思われるか。私達が変な集団だと思われてしまう。恥ずかしいからそんなことを言うのはやめてください。」ペテロは心の中で、世の心づかいが優先して、イエス様をいさめました。イエス様はそれを見抜き、あなたの世の心づかいが神の言葉をふさごうとしていると指摘なさったのです。これこそが、私達が戦わなければならない敵なのです。
   イエス・キリストは、種まきのたとえの中で、『世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。』(新約聖書 マルコの福音書 4:19)と、神の言葉を食べると平安な実を結ぶが、世の心づかいがその神の言葉をふさぐと教えておられます。結局のところ、ペテロは自分が良く思われたいと思う心づかいによって、神の言葉をふさごうとしていたのです。

   なぜ私達が神の言葉を食べることができず、神に心が向かないのかと言えば、いつも人の言葉を気にして、人の言葉を優先して生きているからです。この世の心づかいこそが、私達の心を神から引き離している敵なのです。もう一つ、マルタとマリヤの話を通して、このことを学んでみましょう。

『さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」』(新約聖書 ルカの福音書 10:38〜42)

   この時、マルタの心の中にあったのは、自分をほめてほしいという思いです。私達自身の中にも同じ思いがあります。それに対して、イエス様は手伝いをしないマリヤではなく、マルタに注意をなさいました。イエス様が言われた「いろいろなことを心配して、気を使っている」という言葉は、「この世の心づかい」と同じ言葉です。イエス様はマルタに、あなたは自分が良く思われようとして生きていると、注意しておられるのです。
   人をもてなすことや良いことを行うのは、少しも悪くありません。問題は、その行為を通して人からほめられようとすることにあります。これがイエスの言われるこの世の心づかいです。実際のところ、私達の行動には、ほめられたいという罪が、常に混入してしまいます。人に気に入ってもらいたいと気を使い、人の目を気にすることが当たり前になっています。ところがそこに神の言葉をふさぐ敵が潜んでいるのです。
   家族や友だちに「イエス様を信じなければ救われない」と大胆に語ることができないのも、こんなことを言ったら嫌われるかもしれないという恐れのせいであり、この世の心づかいが神の言葉をふさいでいることです。
   あなたは困難にぶつかった時、神なら奇跡を起こしてこの問題を解決してくださると心から信じ、つぶやかずに感謝できるでしょうか。常識では不可能だ、祈っても無駄だろうと思うことはないでしょうか。私達が常識に立とうとするのは、常識を共有することで人から良く思われるからです。常識に負けて、神があなたを助けるという言葉をふさぐため、人はあきらめ、つぶやくのです。
   私達の中に潜む敵は、人から良く思われようとするこの世の心づかいです。ペテロもマルタも、ほめられたい、人から良く思われたいというこの世の心づかいがあったために、神の言葉をふさいでしまいました。
   私達が人から良く思われたいと願うのは、神に愛されていることが見えないせいです。そのために、恐れと不安を抱き、人から愛されることで心を満たそうとしています。神の言葉ではなく、人の言葉で満足しようとする、そうした生き方と戦わなければなりません。
   人から良く思われようとすればするほど、私達は人をさばきます。マルタは「手伝いをしないマリヤを何とも思わないのでしょうか」と、マリヤの行いをさばいています。この世の心づかいに生きるとは、行いに生きることであり、それは行いで人をさばくことにつながります。ですから、人から良く思われたいという生き方と戦うには、具体的にはさばくことをやめることになります。さばくことをやめるとは、怒ることをやめるということです。マルタは完全に妹に腹を立てています。この世の心づかいは、怒りを引き起こし、敵意を引き起こします。敵と戦うとは、人をさばかないことです。怒りを覚えないように戦う必要があるのです。
   そうすることで、私達は心を神に向けられるようになります。心を神に向けることができない人には、人をさばくという共通点があります。怒りを覚え、許せないという思いがある人は、心を神に向けることができません。ここにサタンの罠があるから、神は繰り返し、人を赦しなさいと教えているのです。
   私達が戦うべき敵は、人から良く思われようとするこの世の心づかいです。これが律法であり、人をさばく源です。これは神の愛が見えない恐れから生じたものですから、問題の解決は神に愛されていることに気づくしかありません。その手段は、たった一つ、自分の罪深さに気づいて、それを神が赦してくださっていることに気がつくことです。神は、あなたが自分の罪を言い表すならば、どんな罪でも赦すと言われます。そうすれば、愛されていることに気づくことができます。すると私達は、人から愛されようとする生き方をやめることができ、見返りを求めないで、人に仕えることができるようになります。
   あなたが怒る時、それは人から良く思われたいという思いが先行している表れであり、必ず人をさばいて、見返りを求めているということに気づきましょう。この時、神の前に罪を差しだすならば、あなたは神の愛に気づき、本当の意味で神を愛し人を愛せるようになります。イエス様は、そうしたことを弟子に教えたいと願って、「さがれ、サタン」と言われたのです。人のことを思うことがすべての問題の根源なのです。