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2016年月2月21日
私達が戦わなくてはいけない敵とは
(新約聖書 マルコの福音書 8:1〜21)

できることをする

『そのころ、また大ぜいの人の群れが集まっていたが、食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼んで言われた。「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです。空腹のまま家に帰らせたら、途中で動けなくなるでしょう。それに遠くから来ている人もいます。」
弟子たちは答えた。「こんなへんぴな所で、どこからパンを手に入れて、この人たちに十分食べさせることができましょう。」すると、イエスは尋ねられた。「パンはどれぐらいありますか。」弟子たちは、「七つです。」と答えた。
すると、イエスは群衆に、地面にすわるようにおっしゃった。それから、七つのパンを取り、感謝をささげてからそれを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。また、魚が少しばかりあったので、そのために感謝をささげてから、これも配るように言われた。人々は食べて満腹した。そして余りのパン切れを七つのかごに取り集めた。人々はおよそ四千人であった。それからイエスは、彼らを解散させられた。』(新約聖書 マルコの福音書 8:1〜9)


   イエス様が、4000人以上の群衆に食事を食べさせようと言われた時、弟子達は「どうしたらそのようなことができるのか」と、初めからあきらめ、つぶやきました。これはちょうど、神様からチャレンジを受けた私達が、現実を見て、つぶやきたくなるのと同じ状況です。弟子達は、以前5000人以上の人達が5つのパンと2匹の魚で満腹になったという奇跡を見ているにもかかわらず、初めから無理だと思ってしまったのです。
   この時、イエス様はつぶやいている弟子達を責めませんでした。それは、私達の信仰が弱いことを知っておられるからです。代わりにイエス様は、「パンはどれくらいありますか」と尋ねておられます。この問いかけが意味すること、それは、自分にできることは何かを見つけて行いなさいということです。
   あなたが本気で神様に奇跡を求めるなら、自分にできることをするものです。もし祈るだけで何もしないなら、それは神を信頼しているのではなく、実質的には、何も起こるはずはないとあきらめているのと同じ行為です。問題の解決を願うなら、祈ると同時に、今何ができるか考えて行動するものです。
   神様に祈り求めながらも、それは無理だろうと思ってしまうと、問題にぶつかった時、「やっぱり」と思ってあきらめてしまいます。しかし、困難にぶつかっても「できることは何か」と求めることで、あきらめずに前に進むことができます。この時、信仰が生きたものとなるのです。

しるしで信じても意味がない

『そしてすぐに弟子たちとともに舟に乗り、ダルマヌタ地方へ行かれた。パリサイ人たちがやって来て、イエスに議論をしかけ、天からのしるしを求めた。イエスをためそうとしたのである。イエスは、心の中で深く嘆息して、こう言われた。「なぜ、今の時代はしるしを求めるのか。まことに、あなたがたに告げます。今の時代には、しるしは絶対に与えられません。」』(新約聖書 マルコの福音書 8:10〜12)

   パリサイ人は、イエス様に、神である証拠を求めました。今の時代にも、イエス・キリストが神である証拠を求めたがる人はいますし、戦争や飢餓や貧困などに対して「神がいるならなぜ?」と疑問を投げかける人もいます。しかし、イエス様は、これらのことに対して「しるしを与えない」と言っておられます。それは、「しるしを見たら信じる」のは、信じることではないからです。神にしかできないわざを見て「神だ」と信じるのは、信じたのではなく、事実を認めたにすぎません。それは、そこに神への信頼が生まれたわけではないので、救いにつながらないのです。
   素晴らしい手術をする医者がいれば、誰もが称賛しますが、それは事実を認めたにすぎず、医者との関係を築いたわけではありません。神が私達に求めているのは、事実を認めて称賛することではなく、信頼関係を築くことです。神と私達の関係は医者と病人の関係です。医者と信頼関係を築くには、病だと気づいて病院へ行かなければ、その医者の患者になりません。同様に、神との関係を築くには、自分が病人であることに気づき、神に助けを求めなければなりません。そのためにイエス様は、しるしを与えないと言われたのです。そして、ご自身がいやした人に対しては、いやしが人との関係を築くために用いられることなく、神との関係を築くために用いられるように、いやされたことを黙っているように命じたのです。

『キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:17〜22)


   知恵やしるしを見たら神を信じると言う人は大勢います。しかし、人間の知識や理解力によって神を信じることはできません。イエス様が私達の罪を背負って十字架にかかってくださったから、私達の罪は赦されたという、十字架の言葉だけが、私達を救いに導くことができるのです。これが、ただ一つの神を知る救いの力です。私達にとって必要なことは、自分の罪に気づき、神に助けを求めることです。この時、初めて神を知ることができ、十字架の言葉は、救いの言葉となります。救いとは、神との関係をとりもどすことです。
   以上のような理由から、イエス・キリストは、しるしを見せないと言われたのです。

裁いてはいけない

『イエスは彼らを離れて、また舟に乗って向こう岸へ行かれた。弟子たちは、パンを持って来るのを忘れ、舟の中には、パンがただ一つしかなかった。そのとき、イエスは彼らに命じて言われた。「パリサイ人のパン種とヘロデのパン種とに十分気をつけなさい。」』(新約聖書 マルコの福音書 8:13〜15)

   パリサイ人のパン種とは、裁く心のことです。パリサイ人は、自分達が勝手に定めた律法で、弟子達を裁きました。「裁く」とは、自分の持つ「ねばならない」「べき」という規定に反する人に、怒りを覚えることです。
   私達の中にも人を裁く心があり、この人は良い人、この人は悪い人と区別して、自分の中で○か×かを決めています。聖書はこれを律法と呼び、律法を使って人を裁くパターンをやめなさいと、イエス様は言われたのです。裁くことこそ、私達が戦うべき敵です。
   私達が人を裁くのは、人の言葉で自分の心を満足させているからです。この世は、律法をクリアすれば賞賛され、人からの要求に応えるとほめてもらえます。このように、人の言葉を食べるために律法を使い、そのために神からの言葉が食べられなくなり、自分をつらくさせているのです。

『さて、兄弟たちよ。私は、あなたがたに向かって、御霊に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにある幼子に対するように話しました。私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。実は、今でもまだ無理なのです。あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間にねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:1〜3)

   肉に属するクリスチャンとは、乳を飲む幼子です。乳とは、人の言葉です。人からの賞賛を受けると喜び、満足するのが肉に属するクリスチャンであり、御霊に属するクリスチャンとは、神の言葉を食べてそれを喜びとする人です。その判断方法は、あなたの中にねたみや争いがあるかどうかです。言葉を変えれば、人間関係のつらさがある人ということになります。
   ねたみや争いは、律法によって互いに比べることで生まれます。比べ合い、人の言葉を食べる限り、私達は神の言葉を食べられません。パリサイ人は、律法で心の食事をしていました。神の言葉を食べるには、律法によってその人の行いを○か×か、良いか悪いか判断して裁く誘惑と戦わなければなりません。自分が裁いているかどうかは、相手の行動に怒りを覚えているかどうかでわかります。怒りは、律法で人を裁くところから生まれます。自分が定めた律法によって、その律法に反する人に敵意が生まれて、愛せなくなっているのです。

『律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)

   また、人を裁くことは、神を愛し人を愛するという神の律法に違反した生き方です。人はもともと神を愛し人を愛するように造られていますから、人を裁くことは本来の姿に反するものであり、人を裁けば裁くほど怒りが生じてつらくなるようになっているのです。裁く思いと戦うとは、人への怒りと戦うことです。

戦うべき相手は

『そこで弟子たちは、パンを持っていないということで、互いに議論し始めた。 それに気づいてイエスは言われた。「なぜ、パンがないといって議論しているのですか。まだわからないのですか、悟らないのですか。心が堅く閉じているのですか。目がありながら見えないのですか。耳がありながら聞こえないのですか。あなたがたは、覚えていないのですか。わたしが五千人に五つのパンを裂いて上げたとき、パン切れを取り集めて、幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「十二です。」
「四千人に七つのパンを裂いて上げたときは、パン切れを取り集めて幾つのかごがいっぱいになりましたか。」彼らは答えた。「七つです。」
イエスは言われた。「まだ悟らないのですか。」』(新約聖書 マルコの福音書 8:16〜21)


   弟子達は、「パリサイ人のパン種に気をつけなさい」という意味がまったく理解できませんでした。私達には、神のことばを聞いても悟れないという問題があります。神の言葉を悟らせない敵、それは、私達が積み上げてきた経験です。律法の行いで人を裁く経験が、人を○か×かで量り、悪い者には罰を与えることが当然だという考えを生み出し、神のことばをふさいでいるのです。
   「神はあなたを愛している」という神の言葉に対して、「お前は良い人間か悪い人間か、悪いことをしたら罰がある」という経験が、「自分の行いを見てみろ。お前なんか愛されるはずがない。こんな罪深い人間は罰を受けるはずだ。」と私達にささやくのです。こうして、神の言葉が心の中でまったく理解できず、「神はあなたの罪を赦している」と聞いても、嘘だ、私なんか赦されるはずがないと、神の言葉を正しく受け取れなくなっているのです。
   律法で人を裁く常識の中で生きてきた私達には、行いのできない人間は価値のない人間、ダメな人間だという価値観がしみついています。そのために、イエス様が罪人を愛すると言っても、全く理解できません。パリサイ人がイエス様につまずいたのは、イエス様が罪人を愛したからです。彼らには、なぜイエス様があんな罪人を赦すのか、楽しげに交わるのか、さっぱり理解できませんでした。こうして、神の言葉を受け入れることができなかったのです。
   神の言葉とは十字架の言葉です。私達を愛し、私達の罪を背負うというイエス様の言葉です。医者が病人を憐れむように、神の中には、罪人に対するあわれみの思いしかありません。ところが、私達は罪が病気だとは思わず、人間の価値そのものだと思っていますから、罪を犯すなんて、なんとダメな人間なのだと自分のことも人のことも責めます。そして、こんな人間は愛されない、私なんかが祈って助けてもらえないと信じこみ、いくらイエス様が「あなたを愛している」と言っても、悟ることができないのです。
   ですから、私達が戦うべき敵は律法で人を裁くという間違った経験です。イエス様が、繰り返し「裁くな」と言われたのは、人を裁くことで、自分自身を同じものさしで裁き、自分はダメな人間だと思い込み、自分自身をつらくするだけだからです。行いで人を裁くと自分がつらくなるだけだから赦しなさいと、イエス様は言われているのです。 イエス様が、裁く思い、すなわち怒りと戦うように教えておられるのは、そうしないと、サタンの罠にかかってしまうからです。サタンの罠とは、私達を神から引き離すことです。この罠にかからないように、裁く思いと戦い、人を赦しなさいと教えているのです。

『もしあなたがたが人を赦すなら、私もその人を赦します。私が何かを赦したのなら、私の赦したことは、あなたがたのために、キリストの御前で赦したのです。これは、私たちがサタンに欺かれないためです。私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 2:10〜11)

   私達はサタンに欺かれ、当たり前に人を裁き、許せないと口にします。しかし、そうすると神の言葉を悟ることができなくなります。神の言葉は、罪を赦し、あなたを愛すると言い続けています。この十字架の言葉が食べられないと、私達はいつまでたっても御霊に属することができず、肉に属してつらい人生を送ることになってしまいます。
   私達が戦わなければならない敵は、「ねばならない」とうわべで人を裁く思いです。何があっても人に対して怒りを覚えるのではなく、神のきょうだい家族として、みな互いに罪が赦される必要がある病人だととらえることができれば幸いです。『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。』(旧約聖書 創世記 1:31)とある通り、私達は皆良きものとして造られました。この世にダメな人など一人もいません。神が造られた者は皆良いものです。良い人か悪い人かと人を量る生き方はやめ、うわべで人を裁く思いと戦いましょう。