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2016年月2月14日
あきらめない信仰
(新約聖書 マルコの福音書 7:25〜)
信仰が試される理由

『汚れた霊につかれた小さい娘のいる女が、イエスのことを聞きつけてすぐにやって来て、その足もとにひれ伏した。この女はギリシヤ人で、スロ・フェニキヤの生まれであった。そして、自分の娘から悪霊を追い出してくださるようにイエスに願い続けた。するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」女が家に帰ってみると、その子は床の上に伏せっており、悪霊はもう出ていた。』(新約聖書 マルコの福音書 7:25〜30)

   イエス様は、すべての人を救うことを願ってこの地上に来られました。ですから、この女性を救いたいと願っておられたことは明らかです。にもかかわらず、彼女の願いを退けたのは、信仰を試すという目的があったからです。
   神が私達に求めておられるのは、何があってもゆるがない神への信頼です。それこそが、私達に真の平安をもたらすものだからです。イエス様はこの女性が本気で求めるかどうか、信仰のチャレンジをなさいました。前回、私達が本気で神に求めるようになるために、神は患難を静観なさることがあると学びましたが、それと同様に、神は私達の信仰を試されるのです。
   私達はこの女性から、あきらめない信仰の素晴らしさを学ぶことができます。祈っても困難にぶつかると、あきらめてしまいたくなることもありますが、何があっても神に求め続け、神がこの問題を解決してくださると信じ続けましょう。せっかく神様から信仰を頂いたのですから、信仰を使い続けましょう。あきらめなければ、必ず神様は道を示し、知恵を与えてくださいます。

明確な目的を持つ

『それから、イエスはツロの地方を去り、シドンを通って、もう一度、デカポリス地方のあたりのガリラヤ湖に来られた。
人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。
そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。 イエスは、このことをだれにも言ってはならない、と命じられたが、彼らは口止めされればされるほど、かえって言いふらした。
人々は非常に驚いて言った。「この方のなさったことは、みなすばらしい。つんぼを聞こえるようにし、おしを話せるようにしてくださった。』(新約聖書 マルコの福音書 7:31〜37)


   いやされたことを誰にも言ってはならないとイエス様が命じられたのは、イエス様はこの地上で明確な目的を持っておられたからです。それは、私達を苦しみから救い出すという目的です。
   私達は、病気や困難が苦しみの原因だと考え、この問題さえ解決すれば自分は幸せになれると思うものです。しかし、苦しみの本当の原因は、病気や困難ではありません。それは、神の言葉が食べられないことにあるのです。
   人は、神の命によって造られ、神との関わりの中で生きるように造られました。イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による」と語っておられます。神の言葉によって生きることが、私達の本来あるべき姿なのです。ところが、現在の私達は、神の言葉ではなく人の言葉を主食にして生きています。人からほめられたり、認められたりすることで、心を満たそうとしているのです。
   聖書は、人の言葉で心を満たして生きる人を、乳しか飲めない幼子だと言っています。乳とは、のど越しの良い、耳触りの良い言葉です。それに対して、神の言葉は堅い食物です。なぜなら、神の言葉は私達の罪を明らかにし、キリストに導いて平安を与えるものだからです。
   人の言葉は、良いことをすればほめられますが、失敗すれば責められたり、馬鹿にされたりします。自分を責める言葉は、自分自身の内からも発せられます。人がつらさを感じるのは、出来事のせいではなく、これらの否定的な言葉のせいであり、私達が人の言葉を食べていることによります。出来事は、私達が人の言葉を食べるきっかけにすぎません。
   私達の中に妬みや争いが生じるのは、人の言葉を食べているからだと、聖書は教えます。本来神の言葉を食べて生きるように造られた私達が、神の言葉が食べられないところに、問題の原因があるのです。私達がつらさから解放されるためには、神の言葉が食べられるようになることが必要であり、イエス様はそのためにこの地上に来られたのです。
   神の言葉を食べるためには、神との関係を回復する必要があります。それは救いを受けとることです。神は私たちを救い、神の言葉を食べられるようにして、御言葉を邪魔する罪を取りのぞいてくださいます。これが私達を平安に導く本当の問題解決です。
   イエス様がいやされたことを黙っているように言われたのは、人々が病のいやしばかりに目を留め、自分の本当の問題に気づかないと困るからです。病気や困難のために祈ることが間違っているわけではありません。神はいやし主ですから、人の目には不可能な病も完全にいやすことがおできになります。また、どんな問題であっても奇跡を起こすことができます。しかし、そこでとどまることなく、与えられた病のいやしや問題の解決を通して、私達が神の言葉を食べられるようになることが最も重要なのです。
   困難にぶつかった時、祈り求めることで、神の言葉が心に浮かび、その言葉を食べる事で平安を得られるようになることが一番大切です。神の言葉が食べられないという真の問題が解決しない限り、見える問題が解決しても、真の平安は得られません。

あきらめてはいけない

   私達はスロ・フェニキヤの女性から、あきらめない信仰を持つことの大切さを教えられます。あきらめる人とあきらめない人の大きな違いは何でしょうか。
   それは、ビジョンを持っているかどうかということです。受験や仕事の成功などの小さな目標ではなく、あなたの人生のゴールは何か、何を目指して生きるのかというビジョンです。小さな目標を持つのは悪いことではありませんが、その先に何があるのかというビジョンが明確でないと、どちらにでも転ぶことができるため、それは結局目標のない人生ということになってしまいます。どんなにこの世での目標を持っても、その目標を達成した先を考えると、私達は必ず死に行きつきます。しかし、神を信じる私達は、永遠につながる目標を持つことができるのです。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』(旧約聖書 エレミヤ書 29:11〜13)


   神様は、私達一人一人に平安を与える計画を立てておられます。神が与える平安は、この世の平安とは違うと、イエス様は言われました。この世の平安は、人からの称賛を得たり、富を手に入れたりすることで得るものです。しかし、神の平安は、そのような見えるもので心を満たそうとするのではなく、神を信頼する心から生まれる平安です。神を信頼できるようになればなるほど私達の心に平安が生じます。この神様の計画を私達が知り、神の平安を目指して生きることを神は願っておられるのです。
   聖書は、神を求め、神に近づくように教えますが、それは、神を信頼することを意味します。神への信頼こそ、私達の平安です。このゴールが明確であれば、問題にぶつかってもあきらめることはなく、イエス様を通して問題を解決しようとするようになります。神のもとには、私達に平安を与える計画があることを知りましょう。そして、イエス様に照準を合わせ、イエス様に近づき、何があってもキリストを通して問題を見る者となり、神の計画の実現を体験しましょう。

『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。』(新約聖書 へブル人への手紙 12:1〜2)

   イエスから目を離さないこと、これが私達の人生の目標です。イエス様に近づきたい、もっと信頼できるようになりたいということを、明確な目標にするならば、何があっても神に目を向けて、あきらめずに祈り続けることができるようになります。これが、神の言葉を食べることにもつながるのです。

神に近づくとは

1.自分の役割を明確に知る

   私達は、ひとりひとりキリストの体の器官です。キリストを目指す生き方とは、キリストの体の中での自分の役割に気づき、その役割を全うすることです。これが、目標を目指して生きることになります。パウロは、自分の目標は福音を語ることであり、目標が分からないような生き方はしないと言いました。パウロにとって神に近づくとは、福音を語ることでした。このように明確な目標を持つことができる人生は幸いです。
   私達が神をしっかりと見上げて、神に方向を定めると役割が見えてきます。方向が定まると、あきらめずに生きることができます。しかし、方向が定まらない人は、風が吹くと風にませてどこかに行ってしまう人生になります。自分の役割を明確にして、目標を持つ必要があるのです。

2.言葉をコントロールする

   ゴールが定まったら、次に必要なのは舵とりです。私達の人生の舵を取るのは、言葉だと聖書は教えています。

『馬を御するために、くつわをその口にかけると、馬のからだ全体を引き回すことができます。また、船を見なさい。あのように大きな物が、強い風に押されているときでも、ごく小さなかじによって、かじを取る人の思いどおりの所へ持って行かれるのです。同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。』(新約聖書 ヤコブの手紙 3:3〜5)

   いくら目標を明確に掲げても、言葉をコントロールすることができなければ、目標に向かって進めません。あなたが否定的な言葉を語るなら、その言葉があなたを失敗に追い込みます。曖昧なことを言えば言うほど、曖昧な人生になります。言葉を制御しなければ、正しい方向に進めないのです。否定的な言葉を語ることなく、自分が進むと信じることを語り、目標に近づく言葉を語りましょう。このことは、世の中で成功するノウハウとしてしばしば使われますが、本来は、神に近づくために聖書が教えていることです。
   あなたは、自分の言いたいことを言って、自分を制御不能にしていないでしょうか。それは、ハンドルを握らない運転のように危険な行為で、決して目標に到達しません。何を語るのかよく考え、自分が願う方向に進む信仰の言葉を語りましょう。

3.できることをする

   ハンドルを握ったら、次にすることはエンジンをかけることです。ハンドルを握っても、何もしなければ何も起きません。ただ祈るだけでは前に進まないのです。ビジョンを語ったら、次は今自分ができることを行い、前に進んでいきましょう。時には、問題が大きすぎて打つ手がないと思うことがあるかもしれません。しかし、進むために祈り続けることはできます。祈り続けることで知恵が与えられ、次の一歩が示されます。
   かつて、リンカーンは、奴隷解放を目指して、国が南北に分かれる戦争をしました。もしこの時、リンカーン側が負けていたら、民主主義は進まず、世界の歴史が変わっていたことでしょう。南北戦争は、人々が自由と平等を手にした大きな戦いです。しかし、当初はリンカーン側の劣勢が続き、打つ手がなくなる状況まで追い込まれました。この時、リンカーンは「祈りの日」を定めて、国民に共に祈ることを呼び掛けます。ここから、戦いが好転し、北軍が勝利を治め、世界の歴史は大きく変わりました。
   また、ユダヤ人がペルシャの捕虜だった時代、王妃となったエステルは、大臣が全ユダヤ人を殺害する計画を企てていることを知り、すべてのユダヤ人に共に祈ってほしいと呼びかけ、神から知恵をいただいて実行した結果、その陰謀を阻止することができました。
   何を失っても祈り続けることはできます。その祈りを通して、事態は好転し、神の知恵が与えられます。問題が大きすぎて、できることがないと行き詰まる時でも、まだ祈ることが残っています。家族の救いも病のいやしも、あきらめずどこまでも祈り続けましょう。スロ・フェニキヤの女性は、あきらめずに懇願し続け、神に近づく者となりました。私達もあきらめずに祈り続けることによって、神への信頼と平安を手に入れましょう。