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2016年月2月7日
人を汚すもの
(新約聖書 マルコの福音書 7:1〜23)
■批判する人へ

『さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、――パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。――パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」』(新約聖書 マルコの福音書 7:1〜5)

   パリサイ人とイエス様の会話は、自分とは関係のない話だと思わないで、パリサイ人を自分のこととして考えてみましょう。そうすることで、神様が私達に伝えたいことが、より理解しやすくなります。
   この時、パリサイ人は、食事の時に手を洗わない弟子を批判しました。これは、行いで人を判断するという、世界中すべての人に共通した物の見方です。日本にもさまざまなしきたりがあり、それを守らないと批判の対象になります。パリサイ人の物の見方こそ、私達の物の見方を表すものです。
   イエス様は、この質問に何と答えたでしょうか。

『イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」』(新約聖書 マルコの福音書 7:6〜8)

   イエス様は、パリサイ人が、人間の教えを持ち出して弟子の行いを批判したことに対して、「あなたがたは口先では神を敬うが、心は神から離れている」という預言者イザヤの言葉を語りました。イエス様のこの言葉は、クリスチャンに対する指摘でもあります。あなたたちは、日曜ごとに神を礼拝し、賛美してはいるが、神に心を向けず、神の教えに心が向いていないと言われているのです。確かに、クリスチャンであっても、常に神に対する思いが心を占め、神の教えに従おうと生きているわけではありません。残念ながら、私達は、いつもこの世の教えを気にして、人から良く思われたいと願っています。心が神に向いていないということは、人に向いているということです。これこそが私達の問題であり、罪の本質です。パウロ自身、自分は神を愛し、神の教えに従いたいと願いながら、それを実行せずに生きているみじめな人間であると告白しています。自分が、神に目を向けると言いながら、実は人の教えを実行しようとしている偽善者であることに気がつけば幸いです。
   聖書は神を愛し、人を愛するように教えます。それは、本来人間はそのように生きるものとして造られたからです。本来の生き方ができないということは、病気の状態です。罪は、人間にとって病気なのです。体が病気になるとつらさを感じるように、本来の生き方である人を愛することができないとつらくなります。自分に平安がない時、その理由は、本来の生き方をしていないからなのです。
   人は人間関係のトラブルが起きると、自分に原因があるとは考えず、相手が変われば問題は解決するのだと考えがちです。しかし、そうではありません。聖書は、「汝の敵を愛せ」と教えます。神を愛し、人を愛するように造られているのに、愛せない自分に問題があるのです。
   私達が人を愛せない理由は、「○○でなければならない」と条件をつけ、行いで人を判断するからです。私達が人に条件をつけるのは、自分自身が人から良く思われようとして、自分の行いに条件をつけているからです。イエス・キリストは、「裁いてはいけない。あなたが裁かれないためだ」と言われました。人を行いで裁くほどに、愛せないというつらさを感じ、自分自身を裁くことになり、つらくなるのです。
   イエス・キリストは、弟子を批判するパリサイ人に対して、「私の弟子を愛さないのは、あなたの心が神から離れているという、あなたの心の中の問題だ。」と言われたのです。問題は相手ではなく、自分は正しいとして、相手に条件をつけていることにあると認めることは、なかなか受け入れにくいものですが、本当のつらさの原因をしっかりと認識しましょう。

■神の言葉がふさがれる

『また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 7:9〜13)

   当時、パリサイ人達は、神の戒めを教えはしましたが、勝手に教えをつけ加え、変更して教えていました。たとえば、聖書は「あなたの父と母を敬え」と教えていますが、もし神に献金を捧げるならば、親の面倒は見なくても罪には問われないと教えていたりしたのです。このような例はほかにもたくさんあり、イエス様は、あなたたちはこうして神の教えを空文化していると指摘なさったのです。なぜこのような教えをするようになったのか、結局は、富を手にしたいという彼らの願望によるものです。
   彼らの問題は、第一に、人から良く思われたいために世の中の律法を大切にするということであり、第二に、どうすればお金が儲かるかということなのです。

『もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。』(新約聖書 マルコの福音書 4:18〜19)

   イエス・キリストは、種まきのたとえ話の中で、世の心づかいと富の惑わしとが、神の言葉をふさぐ罪なのだと教えています。世の心づかいとは、神ではなく人に心を向けて、人から良く思われようとすることです。富の惑わしとは、どうすればお金が儲かるかに目を向けることです。パリサイ人達は、この二つのために、神の教えを適当に変え、御言葉をふさいでしまいました。
   このパリサイ人達の問題点は、そのまま私達の問題点です。人間の願望の究極は、人から良く思われたいということと、富を得たいということの二つに行きつきます。しかし、このようなもので安心する生き方を目指すと、神の言葉がまったく入らないのだとイエス様は言われます。
   イエス様は、さらに次のような話をなさいました。

『イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」』(新約聖書 マルコの福音書 7:14〜23)


   外側から入ってくるものとは、食べもののことです。食べ物をいくら制限したところで、それは心に何の影響も与えません。あなたが罪を犯すのは、あなたの外側から入るもののせいではなく、内側にあるもののせいだということです。私達は問題が起きると、相手や出来事のせいだと思いがちですが、そうではなく、私達自身の中に問題があり、その結果、この世の心づかいと富の惑わしに心を奪われるのです。
   このように、イエス・キリストのたとえ話は、私達の問題点を指摘し、救いの手段を教えてくださいますが、なぜそうなるのかという理由を解き明かすのは、弟子の仕事になります。神に似せて造られた私達が、なぜ内側に問題を抱えているのかという点については、パウロが次のように解き明かしています。

■罪は死によって広がった

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)

   この御言葉は、人間が死ぬものとなった理由について、前半ではアダムが罪を犯したために死が入ったことが原因だと述べ、後半では全人類が罪を犯したことが原因だと述べられており、非常に理解が難しい御言葉ですが、ギリシャ語の原文を見ると、「それというのも」と訳されている「エピ ホー」という言葉がポイントであることがわかります。
   「エピ ホー」は、長い間「なぜなら」という意味で使われているのだと思われてきましたが、そうではなく「その結果」と訳すべきであるという論文が、近年、ある学者によって発表されました。彼は、多くの文献・資料を調べた結果、すべての文献において「その結果」と訳したほうが、整合性が取れることを発見したのです。その論文の内容を受けて、ギリシャ語の権威ある辞書は、「エピ ホー」に「その結果」という訳を記載するようになりました。
   すると、ローマ5:12は次のような訳になります。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がった。その結果、すべての人が罪を犯すようになった。」
   長い間、「エピ ホー」は「なぜなら」という意味だと思われてきたのは、人々は、自らの経験によって自分が罪人であることを知っており、罪の原因は自分の中にあると考えてきたことにあります。また、罪に対しては罰があるものだと思い込むことで、死は罰だという考え方が容易に受け入れられたのです。つまり、私達が死を背負っているのは自ら犯した罪の罰だという前提で、現在のような訳になったのです。
   確かに、アダムだけではなく、私達自身も罪を犯しています。これまでの理解によると、それは、祖先であるアダムの中にすでに私達がいたからと説明されてきました。あなた自身が祖先であるアダムの中にすでに存在しており、その時に犯した罪によって死ぬべき体として生まれ、アダムの中にいた時から持っている罪を犯す性質を原罪と呼び、その罰として私達は死を背負わされているのだと理解するようになりました。この御言葉は、その根拠として使われてきたのですが、「エピ ホー」が「なぜなら」と訳されなければ、この説明は成り立ちません。
   それ以前から、そもそも神は、人を良きものとして造ったのに、なぜ罪を犯すのかという疑問がありました。また、イエス様がこの地上に肉体を持って生まれたということは、イエス様もアダムの中にあった者として罪を犯したのかという問題もありました。しかし、これらの問題に関しては、共通の見解が見出されないまま、今日に至っているのです。  さて、「エピ ホー」を「その結果」と理解することによって、ローマ5:12から、私達が罪を犯すのは死が原因だということがわかります。そして、全人類に死が広がった結果、全人類は罪を犯すようになったのです。
『それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:21)とある通り、死が入ったことによって、罪が人間を支配するようになったのです。死とは、神との関係を持っていないことです。アダムの罪によって、神との関係が断たれ、死の状態に陥ったために、人類は神が見えなくなり、また、永遠に生きることが出来なくなりました。その結果、人類はこれまで知らなかった願望を持つようになったのです。それは、愛されたいという願望と生きたいという願望です。
   神が見えないために愛されていることがわからず、不安になった私達は、人からの愛を得ようとして、相手に自分を良く見せようと頑張ります。また、生きたいという願望は、快適に長生きするためのお金を得たいという願望に変わります。これが、たねまきのたとえで語られている「世の心づかい」と「富の惑わし」です。
   すべての人は、神との関係を失っているために、神が与える真の平安を得ることができず、愛と富を求めて生きています。そして、これが私達を苦しめている悪い思いを生じさせているのです。

■信じれば救われるという恵み

   私達の罪は、アダムの罪によって入り込んだものであり、私達のあずかり知らぬところで感染してしまった病気だと言えます。だから、イエス様は、罪の中で苦しむ私達をいやし助けたいと願ってこの地上に来られ、私達のために十字架にかかって死を滅ぼし、よみがえり、私達を無条件で赦してくださるのです。私達は、このイエス・キリストを信じることで、永遠のいのちを持ち、神との関係を回復することができるのです。
   こうしてイエス様は、信じれば救われるという新たな恵みを与えてくださいました。それは、私達を死から贖い出し、神との関係を回復する恵みです。
   この恵みによって、イエス・キリストを信じた人は永遠のいのちを持ち、神との関係を回復して死からいのちに移されました。その人の中には、すでに死は存在しないのですが、この地上での肉体を持っているために、それを理解することができません。肉体の滅びは、自分自身の滅びではなく、ただ朽ちない体に着替えることを意味しています。あなたはすでに救われて、神と共にいますから、神の国はあなたの中に実現し、あなたは神の国の中にいます。あなたと神の間には死は存在しないのですから、これからはそのように生きていきなさいと、神様は教えています。

    私達を苦しめている罪は、私達の中から出たものではなく、アダムによって人類に死が入り込んだために生じた病気です。罪という病は、神の愛を見えないようにさせます。神は、その罪をいやしたいと願い、神が愛していることに気づかせようとなさいます。そこで、人は本来神を愛し人を愛するものであることを教え、それができない自分に気づかせ、神に助けを求めるように導かれます。私達が人を愛せないのは、罪という病気のせいなのだから、神に罪を言い表すことで、神に愛されていることを知り、いやしを受けとるように導かれるのです。
   「あなたは高価で尊い」という神の言葉は事実です。人はみな良き者です。神が造られたのですから、ダメな者など一人もいません。あなたが罪を犯すのは、死が入ったことが原因なのですから、神の福音を信じ、本来の姿を取り戻しましょう。