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2016年月1月24日
五つのパンと二匹の魚
(新約聖書 マルコの福音書 6:30〜)
神様との交わり

『さて、使徒たちは、イエスのもとに集まって来て、自分たちのしたこと、教えたことを残らずイエスに報告した。そこでイエスは彼らに、「さあ、あなたがただけで、寂しい所へ行って、しばらく休みなさい。」と言われた。人々の出入りが多くて、ゆっくり食事する時間さえなかったからである。そこで彼らは、舟に乗って、自分たちだけで寂しい所へ行った。』(新約聖書 マルコの福音書 6:30〜32)

   「寂しい所に行って休みなさい」とは、「人のいない所で神と交わりの時を持ちなさい」という意味です。人々と交わり福音を語ってきた弟子達に、次は神との交わりの時を作るように、イエス様は教えておられるのです。
   人には交わる相手が2種類あります。それは人間か神かのどちらかです。実は、人と交わるには、相当なエネルギーを使います。相手に悪く思われないように、常に緊張し、自分を制する必要があるからです。本当の自分を出すことができないので、人と交わるほどに疲れ、そのために心を病んでしまうこともあります。疲れた心をいやすため様々なレクリエーションが必要となり、少しでも休んで元気を取り戻そうとするのは、人との交わりはそれほど疲れるものだということを表しています。
   イエス様が、弟子達を寂しいところに向かわせたのは、魂を休ませるには、神との交わりが不可欠だからです。神様は、ありのままの私達と交わって下さるので、神様の前にはあなたの罪すら隠す必要がありません。むしろ罪を言い表すならば、その重荷を背負うと言ってくださいます。神様との交わりを通して魂は養われ、疲れはいやされ、こうして再び人との交わりができるようになるのです。
   神と交わるとは、自分の思いを打ち明け、神の言葉を受けとることです。一般的にこれをディボーションと呼び、祈り、聖書の言葉を読むことで、安らぎや励ましを受けとる静かな時間を意味します。
   聖書を読む時には、私達の内に住んでおられる助け主なる聖霊様が、神の言葉を一つ一つ食べさせてくださいます。その御言葉が自分にとって意味することは何か、神様は自分に何を語りたいのかというメッセージをわからせてくださるのです。聖書的な意味や御言葉の背景を知らなくても、文学的に意味を理解しようとしなくても、御言葉を素直に読む時、心に残るものがあります。神様はこのようにしてメッセージを語ってくださいますから、ぜひ積極的に聖書に親しんで生きましょう。
   さらに聖書は、信仰の成長に応じて、同じ御言葉からさらに深い意味を悟ることができるものです。小さい時には断片的にしか理解できなかった親の言葉が、成長に伴って深い意味が理解できるようになるのと同様です。こうして、神との交わりが深いものになっていくのです。
   私達の魂は、神に養われるものとして造られました。人との交わりでは本当の平安を得ることはできません。神との交わりをきちんと持ってから、人との交わりを持つようにしましょう。魂に必要な心の糧を得るために、一日一回聖書を読むことを習慣づけ、ディボーションの時を持てるようになれば幸いです。

羊飼いの働き

『ところが、多くの人々が、彼らの出て行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ徒歩で駆けつけ、彼らよりも先に着いてしまった。イエスは、舟から上がられると、多くの群衆をご覧になった。そして彼らが羊飼いのいない羊のようであるのを深くあわれみ、いろいろと教え始められた。 』(新約聖書 マルコの福音書 6:33〜34)

   魂が飢え乾き、御言葉を求める人々の姿は、羊飼いのいない羊のようでした。聖書は、イエス様と人との関係を、羊飼いと羊の関係になぞらえます。それは、羊飼いが次のような働きをするからです。

1.羊を導く

   羊飼いは、羊に行くべき道を示し、羊を導きます。羊飼いのいない羊とは、自分の生きる目的が明確でない人のことです。あなたは自分が行くべき道、進むべき方向が見えているでしょうか。 多くの方は、日常生活の中で日々解決しなければいけない問題を神に祈りはしますが、人生の目的を明確にしないまま生きています。そのために、定年退職後に不安を覚えたり、生きる目的を失ったりする人々が多いのです。しかし、自分の人生がどこに向かっているかの確信を明確に持っていれば、人生の最後の時までその目標に向かって生きていくことができます。イエス・キリストは、あなたが進むべき道を明確に示してくださいます。

2.羊を守る

   羊飼いは、オオカミのような外敵から、命をかけて羊を守ります。イエス・キリストは、患難から私達を守ってくださいます。もし試練や患難にぶつかった時に、あなたがあきらめてしまうなら、それは羊飼いがいない生き方と同じです。羊飼いを知っている羊は、オオカミが襲ってきたらすぐに羊飼いのもとに逃げ込みます。あなたは問題にぶつかった時、まずどのような対応をしているでしょうか。もし、自分が身を寄せるところがわからないのならば、あなたは羊飼いを知らない生き方をしていることになります。すぐにイエス様に助けを求めましょう。

3.食物を与える

   羊飼いは、どこに牧草があるかを知り、羊達の食べ物の心配をしてくれるものです。イエス・キリストは、私達の必要をすべて知り、余すところなく与えてくださいます。山上の垂訓の中で、何を着ようか何を食べようか心配する必要はない、野の花も空の鳥も神が養ってくださるのだから、あなたも明日のことを思い煩うことなく、神を第一に求めるように教えられています。もしあなたが将来のことに不安を覚えて生きているなら、それは羊飼いのいない生き方です。

   このように、イエス・キリストは、私達に道を示し、あらゆる問題を解決し、私達の心配をしてくださり、必要を与えてくださいます。もしあなたが、行くべき道を知らず、問題にぶつかったらあきらめ、明日のことを心配して思い煩っているのならば、イエス様がいない生き方をしているのと同じことになります。それは、イエス様を無視して生きているということです。それはあたかも、羊飼いに従うことを拒否して群れから離れた羊のようです。イエス様は、そのような生き方をしていた人々を憐れみ、御言葉を語られました。
   どうか、羊飼いのいない羊のような生き方をせず、自分の行くべき道を祈り求めてしっかり確認し、問題にぶつかったら羊飼いのもとに逃げ込み、明日の心配はイエス様がしてくれると信じて心配することをやめましょう。

五つのパンと二匹の魚

『そのうち、もう時刻もおそくなったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここはへんぴな所で、もう時刻もおそくなりました。みんなを解散させてください。そして、近くの部落や村に行って何か食べる物をめいめいで買うようにさせてください。」
すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
するとイエスは彼らに言われた。「パンはどれぐらいありますか。行って見て来なさい。」彼らは確かめて言った。「五つです。それと魚が二匹です。」
イエスは、みなを、それぞれ組にして青草の上にすわらせるよう、弟子たちにお命じになった。そこで人々は、百人、五十人と固まって席に着いた。するとイエスは、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて祝福を求め、パンを裂き、人々に配るように弟子たちに与えられた。また、二匹の魚もみなに分けられた。人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごにいっぱい取り集め、魚の残りも取り集めた。パンを食べたのは、男が五千人であった。』(新約聖書 マルコの福音書 6:35〜44)


   五つのパンと二匹の魚を1万人以上と思われる人が分け合い満腹したというこの出来事は、イエス様がなさった奇跡の中でも有名です。同じ出来事が、ヨハネの福音書にはもう少し詳しく次のように記されています。

『イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:5〜9)

   この後、マルコの福音書にある通り、イエス様がパンと魚を人々に分け与え、人々が食べて満腹したことが記されています。
   ここで、「イエス様がピリポを試した」とは、ピリポにチャレンジするチャンスを与えたということです。イエス様が私達に願っておられることは、イエス・キリストを信頼できるように信仰を成長させることです。神様を信頼できるようになる方法は、神の助けを受け、困難を乗り越える経験を積むことです。私達は生きている限り、必ず様々な問題にぶつかります。仕事や人間関係で必ず問題は起こり、誰しも体は衰え、病気になることもあります。いずれも、神様が引き起こすものではありませんが、これらの問題を通して、神様はあなたに、問題にどう対応するか信仰のチャレンジをしておられます。神様はその間、ご自身の手を出さずにじっと待っておられるので、あたかも沈黙しておられるように感じられますが、神様はあなたの選択を待っておられるのです。その選択とは、一つは、あきらめてやめるという選択です。もう一つは、神様なら助けてくれるのだから脱出の道があると信じて問題にぶつかる選択です。
   弟子達の意見も、二つに分かれました。200デナリと言えば、今の感覚では200万円くらいに相当します。近隣には店もなく、ピリポは無理だと考え、あきらめるほうを選択しました。それに対してアンデレは、ある少年が持っていた五つのパンと二匹の魚をイエス様に差し出しました。アンデレ自身も、これで皆が満腹するとは思いませんでしたが、無理だからやめるという選択ではなく、イエス様を信じればなんとかなると望みを持ち、あきらめないで自分にできることをしたわけです。そのきっかけが少年の持ってきた五つのパンと二匹の魚です。
   私達も、同じチャレンジを神様から常に受けています。あなたは、どちらの弟子の生き方を選びますか。問題にぶつかるたび、あきらめるか、自分にできることを見つけてチャレンジするか、神様は見ておられるのです。

困難にぶつかったらチャレンジしなさい

『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。』(新約聖書 ヤコブの手紙 1:2〜5)

   困難を喜ぶとは、問題から逃げないで向き合い、チャレンジしなさいということです。しかし、そこには忍耐が伴います。忍耐が生じることによって、信仰が成長するのです。例えば、ピアニストを目指す人は、いきなり大曲が弾けるわけではありません。皆、バイエルのような簡単な練習曲から始め、それを積み重ねることによって、様々な曲が弾きこなせるようになっていくのです。信仰も同じです。小さなことだと思っても、忍耐して、あなたのできるところから始める必要があるのです。
   ところが、多くの人が、祈るだけで終わってしまい、自分では何もしようとしません。しかし、本気で求める人は、ただ何もせずに待っているということはなく、たとえ小さなことであっても忍耐を持って自分にできることを始めるものだということを、神は知っておられます。「自分にできることをする」それが、五つのパンと二匹の魚が教えてくれていることです。あきらめず、忍耐を持って続けることによって、神への信頼が成長し、神が求める者になっていくことができます。
   私達の忍耐を支えるものは、必ず脱出の道を用意しているという神の約束です。神様は、試練と同時に、脱出の道を用意しておられます。脱出の道、つまり、問題の答えは、神が持っておられます。この答えを知る方法は、神に知恵を求めることです。旧約聖書に、ペルシャの王妃になったイスラエル人エステルの書があります。エステルは、ペルシャに住む全イスラエル人に命の危機が迫った時、断食して祈り、神様から知恵を頂いてイスラエルを救った女性です。私達は奇跡というと超自然的なことを想像しがちですが、解決に導いてくださる神の知恵もまた神の奇跡なのです。
   神の約束を信じ、解決を信じて、知恵を与えてくださるよう祈り求めましょう。あきらめずに祈り求めるならば、必ず問題の解決が得られます。そして、この結果、神への信頼が育ち、神を信頼できるようになればなるほど、心に平安が与えられます。
   人は、自分の人生にどのような出来事があるのかに関心を持ちますが、神は、出来事そのものではなく、あなたの人生で起こった出来事を通して、どれほど神を信頼できるようになったかに興味を持っておられます。どのような出来事があったにしても、そのことを通して神を信頼できるようになったかどうかが重要なことなのです。これこそが、真の魂の平安です。これこそ、神が私達に目指すように教えておられるものです。
   神様は常に私達に神を信頼するチャレンジをしておられます。問題から逃げずに、できることを行い、神のもとに解決の道があることを知って祈り求めましょう。神は、様々な形で私達を助け導いてくださいますから、あきらめないで祈り続け、神への信頼を増し加えていきましょう。