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2016年月1月17日
つらさの解決
(新約聖書 マルコの福音書 6:14〜)
『イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にもはいった。人々は、「バプテスマのヨハネが死人の中からよみがえったのだ。だから、あんな力が、彼のうちに働いているのだ。」と言っていた。別の人々は、「彼はエリヤだ。」と言い、さらに別の人々は、「昔の預言者の中のひとりのような預言者だ。」と言っていた。しかし、ヘロデはうわさを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが生き返ったのだ。」と言っていた。
実は、このヘロデが、自分の兄弟ピリポの妻ヘロデヤのことで、――ヘロデはこの女を妻としていた。――人をやってヨハネを捕え、牢につないだのであった。これは、ヨハネがヘロデに、「あなたが兄弟の妻を自分のものとしていることは不法です。」と言い張ったからである。ところが、ヘロデヤはヨハネを恨み、彼を殺したいと思いながら、果たせないでいた。それはヘロデが、ヨハネを正しい聖なる人と知って、彼を恐れ、保護を加えていたからである。また、ヘロデはヨハネの教えを聞くとき、非常に当惑しながらも、喜んで耳を傾けていた。
ところが、良い機会が訪れた。ヘロデがその誕生日に、重臣や、千人隊長や、ガリラヤのおもだった人などを招いて、祝宴を設けたとき、ヘロデヤの娘がはいって来て、踊りを踊ったので、ヘロデも列席の人々も喜んだ。そこで王は、この少女に、「何でもほしい物を言いなさい。与えよう。」と言った。また、「おまえの望む物なら、私の国の半分でも、与えよう。」と言って、誓った。
そこで少女は出て行って、「何を願いましょうか。」とその母親に言った。すると母親は、「バプテスマのヨハネの首。」と言った。そこで少女はすぐに、大急ぎで王の前に行き、こう言って頼んだ。「今すぐに、バプテスマのヨハネの首を盆に載せていただきとうございます。」
王は非常に心を痛めたが、自分の誓いもあり、列席の人々の手前もあって、少女の願いを退けることを好まなかった。そこで王は、すぐに護衛兵をやって、ヨハネの首を持って来るように命令した。護衛兵は行って、牢の中でヨハネの首をはね、その首を盆に載せて持って来て、少女に渡した。少女は、それを母親に渡した。』(新約聖書 マルコの福音書 6:14〜28)


つらさをどのように解決するか

   ヘロデは、「ピリポの妻ヘロデヤを、自分の妻にしていることは不法だ」とバプテスマのヨハネに指摘されたことに腹をたて、ヨハネを牢屋につなぎました。さらにヘロデヤは、ヨハネを恨み、ついにヨハネの首をはねて殺しました。
   二人は、自分の心のつらさを解決するために、ヨハネを投獄し、殺害したのです。多くの人は、ヘロデやヘロデヤと同じように、自分がつらくなると、その相手や環境が悪いと考えて、環境を変えたり相手を変えたりすることで、つらさから逃れようとします。しかし、これはまったく解決になりません。根本的な問題が変わっていないので、他の人から何か言われると、またつらくなることを繰り返します。いったい、どのように解決すれば良いのでしょうか。
   ヘロデとヘロデヤがつらくなった原因は、自分が良く思われなかったからです。悪口を言われたり、誤解されたりするとつらさを感じるのは、私達が、人から良く思われたいという願望を持っていることを表しています。これは、裏を返すと、自分はダメなものだと信じているということです。自分は愛される価値がない、ダメなものだと思っているから、人から良く思われたいという願望を持ち、もし、頑張ったのに認められなかったり愛されなかったりすると、腹が立ちます。つまり、自分をつらくさせている本当の理由は、自分はダメだと信じていることです。ですから、これを解決せずにまわりが悪いと言っている間は、つらさの本当の原因は何も解決しないのです。
   あなたはダメなものではありません。イエス様は、自分をダメだと思ってしまうその間違いに気づかせ、あなたの考えを変えるために、この世に来られたのです。自分は良いものであることに気づくこと、これが本当の問題解決です。

あなたは良いものである

『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」
ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。
また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべての緑の草を与える。」すると、そのようになった。
そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。』(旧約聖書 創世記 1:26〜31)


   神は、この世界で最も良い存在です。この神に似せて造られた人間は、当然良きものです。私達が良きものであるがゆえに、神は私達を信頼し、何度でも赦すと言われます。

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。』(新約聖書 マタイの福音書 18:21〜22)

   赦すとは、「あなたを信頼するから、もう一度がんばりなさいね。」ということです。490回赦すとは、何度でも赦し続けることであり、相手に怒りを覚えず、裁かず、憎まないことが、聖書の教える赦しです。神が人にこのように教えているのは、神様ご自身が、あなたを信頼し何度でも赦す方だということを表しています。

『まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。』(新約聖書 マルコの福音書 3:28〜29)

   聖霊を汚す罪とは、私達を死から贖い出し救おうとする聖霊様の呼びかけに応答しないことです。この呼びかけに応答しなければ救われませんが、信じた者は、神に罪を問われることはありません。
   神があなたを何度でも赦すのは、あなたが良きものであり、あなたを信頼しているからです。聖書が教える「良きもの」とは、「良きものを愛する」ことです。つまり、人は、神という良きものを愛し、人という良きものを愛するように造られているのです。これが、聖書が教える「良い行い」です。聖書が、「人は良い行いをするように備えられている」と言っているのは、人は、神を愛し、人を愛するように造られているということです。この本来の機能と違う状態になっている時、人はつらさを感じるのです。
   つらさは本来の機能が失われているサインです。体が本来の機能と違う状態が病気であり、体がつらいと感じます。心も同様に、神と人を愛さずに怒りや敵意を覚えていると、つらくなるのです。目に見えない神を愛するとは、神を信じ、神の言葉を信じることです。たとえば、不安な時につらさを感じるのは、「あなたの将来を私に任せよ。先のことは心配するな。」という神様の言葉を信じないからであり、この言葉を信じると平安になります。
   私達の心は、神の言葉を信じると平安になり、信じられないとつらさを感じ、また、人に怒りや敵意を感じて愛せなくなるとつらさを感じます。それは、良いものとして造られた私達に備えられた警報です。

『大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:5)

   キリストが良いものであられる以上、キリストの一部である私達も良いものです。人はキリストにあって一つの体であり、互いに良いものとして愛し合うように造られています。ですから、そうでない状態になるとつらさを感じるのです。自分が良きものであり、相手が良きものだと認識できるようになると、つらさの問題が解決されます。

心の一新によって自分は良いものだと認める

   自分が良いものだと認めなければ、人のこともダメなものだと思ってしまってつらくなります。これが問題の本質です。その解決は、「自分は良いものだ」と、自分の心を一新するしかありません。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)

   あなたは泥の中に落ち込んだダイヤモンドのような存在です。聖書が教えるその泥とは死です。人の目には、汚れた醜い面しか見えず、これを隠すために、きれいな服をかけるなどしてきれいに見せようとしますが、それを人から認めてもらえないとつらくなります。しかし、もし汚いのは外側だけで中身はダイヤモンドだと知っていれば、まず外側の泥を落とそうと考えるでしょう。これが、神のなさることです。イエス様にとって、泥は裁くものではなく、洗い流すべきものです。
   イエス様は十字架にかかる前、そのことを教えるために、弟子の足を洗いました。足についた泥を洗い流すことで、ご自身が何のために来られ、何のために十字架にかかるのかを教えてくださったのです。イエス様は、泥をきれいに洗い、手拭いで拭きました。ペテロは申し訳なさのあまり辞退しようとしましたが、この時、イエス様は、「もし私があなたの足を洗わなければ、私とあなたは何の関係もない」と言われたのです。それを聞いたペテロは、イエス様と関係を深めることを願って、「足だけでなく、全身洗ってください。」と頼みました。するとイエス様は、「あなたの全身はきよいから、洗うのは足だけでよい」と言われたのです。つまり、あなたはもともと良いものだから、泥を落としさえすればいいという意味です。これが、イエス様と私達の関係です。神は、ご自身が泥を取り除くから、ダイヤモンドであるあなた自身を輝かせなさいと言っておられるのです。
   私達についた泥とは、死によって神に愛されていることが見えないためについたものです。ダメな自分を隠すために、人の目に良いと思われるものを手に入れるのですが、それを人と比べることによって、こんなのではダメだと思い、泥となります。そして、その上にまた新しいものを塗りたくり、新たな泥を作り出すことを繰り返しているのです。
   イエス様は、私達を覆う泥である罪を背負って十字架にかかられました。その罪とは、神に愛されていることが見えないことです。イエス様が十字架で示してくださった愛を知り、愛されていると知れば知るほど、罪の泥は洗い流され、自分が良きものだと気づくようになります。こうしてつらさから解放されることが、問題解決になるのです。

神からの私達へのメッセージ

『ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。』(新約聖書 ルカの福音書 15:11〜24)


   この放蕩息子の話は、イエス様は、あなたは良きものだと教えるための話です。
   弟息子は、神から離れた自分を見て、自分は愛される価値がないと考え、行き詰まりました。これは私達の姿と同じです。この時、弟息子は、神の元に帰ろうと決心しましたが、神に立ち返っても、自分はダメな人間だから愛されないだろうと思っていました。ところが、父は、良いものがやっと戻ってきたを喜び、最高のもてなしをしてくれました。
   人は、神に立ち返り、罪が洗い流されると、神に愛されている良きものの姿を取り戻します。神は、あなたを牢屋に入れて懲らしめるようなことはなさいません。 しかし、その後に、問題は起こります。

『ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』』(新約聖書 ルカの福音書 15:25〜32)


   多くの人は、見えるもので愛を確認しようとし、祈りがきかれたり、見える祝福を手にしたりすると、愛されているなぁと思うものです。しかし、その考え方は、良いことをしたのに祝福されないとか、クリスチャンなのに何もしてもらえないなどというつぶやきを生み、どうせ私は愛されていないという判断に至るものです。神は、そんな私達に「お前はいつも私といっしょにいる。私のものはお前のものだ。」と言われます。
   あなたは兄息子のように愛されていることを確認しようとして、つぶやき続けますか。それとも、神と共にいて愛され、すべての祝福の中に入れられていることに気づいて、感謝して生きますか。 自分はダメだと判断する根拠にしている、あなたについた泥は、主が洗い流してくださいます。だから、何も心配しなくてよいと、主は言われます。ヘロデとヘロデヤは、ヨハネが悪いと思って殺しました。兄息子は、すべての祝福を持っていることに気づかず、弟に与えられたものを見て、つぶやいて怒りました。あなたは、つらくなると人のせいにしていないでしょうか。
   あなたがつらいのは、人を愛せないからです。それは、あなたが良きものとして造られた証しです。ですから、愛せるようになることでしか、あなたのつらさは解決しません。神に造られた良きものを愛せるよう、あなた自身が神に造られた良きものであることを受けとりましょう。