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2016年月1月10日
二つの罪
(新約聖書 マルコの福音書 6:1〜)
人をうわべで見ないために

『イエスはそこを去って、郷里に行かれた。弟子たちもついて行った。
安息日になったとき、会堂で教え始められた。それを聞いた多くの人々は驚いて言った。「この人は、こういうことをどこから得たのでしょう。この人に与えられた知恵や、この人の手で行なわれるこのような力あるわざは、いったい何でしょう。この人は大工ではありませんか。マリヤの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。その妹たちも、私たちとここに住んでいるではありませんか。」こうして彼らはイエスにつまずいた。
イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、親族、家族の間だけです。」
それで、そこでは何一つ力あるわざを行なうことができず、少数の病人に手を置いていやされただけであった。』(新約聖書 マルコの福音書 6:1〜5)


   イエス・キリストの郷里の人々は、初めは驚くべき話に耳を傾けましたが、話している人が幼なじみのイエスであると分かったとたん、つまずいて話を聞こうとしなくなりました。そのため、イエス様は郷里では何もすることができず、その村を去って行きました。
   この出来事は人間の性質を良く表しています。人々はイエス様の上辺を見て、話を聞くのをやめました。私達も、学歴や経歴といった上辺が良ければその人の話に耳を傾け、また、身内であればあるほどその話を軽んじるものです。その習慣は、昔から少しも変わっていないのです。
   私達が人を上辺で判断するのは、裏を返すと、自分自身が上辺を良くすることで愛されようとしていることを表しています。私達は、ありのままの自分ではだめだ、少しでも価値のある物を身に着けようと考え、いい大学やいい就職など、評判を良くすることで人から愛されようとしているのです。これは、アダムとエバが罪を犯した時から始まりました。罪を犯したアダムとエバは、こんな自分は愛されないと思って神様から自分自身を隠しました。今も私達は、学歴や容貌や財産などで本当の自分を隠し、自分を隠しているものを使って、互いの価値をはかるものさしとしています。
   なぜ、罪を犯したアダムとエバが自分はダメだと思うようになったのかというと、罪によって神との信頼関係が壊れ、神に造られたことも神に愛されていることもわからなったため、自分が何者なのかわからず、自分に価値があるとは思えなくなってしまったからです。その結果、人からの価値をもらおうとして、相手の期待に応えることで愛されようとするようになったのです。しかし、うわべでは相手の期待に応えても、本当の自分自身を隠しているわけですから、自分自身の中で葛藤が生じ、心の問題や人間関係のトラブルが生じます。この問題の解決は、本当の自分で本当の相手を見ることです。そのためには、あなたの行いや能力には関係なく、神はあなたを愛しておられることに気づかなければなりません。このことに気づかない限り、私達は本当の自分を隠し、人の上辺を見て裁き、苦しむことを繰り返すのです。
   神があなたを愛していることを知るためには、あなたが隠している自分の弱さ・醜さ、汚さといった罪を、何でもいいから神の前に告白するように、イエス様は教えておられます。私達は罪深い人間は愛される価値がないと思い、自分の罪を隠し、人の罪を非難しますが、神の前に罪を告白するならば、そのような罪人であってもあなたを愛する神の愛を体験し、今まで体験したことのない平安に包まれます。この愛に気づくことで、心の問題はすべて解決し、人は変えられていくのです。

神を信頼する訓練

『イエスは彼らの不信仰に驚かれた。それからイエスは、近くの村々を教えて回られた。
また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」』(新約聖書 マルコの福音書 6:6〜9)


   イエス様が、弟子達の不信仰に驚いたということは、神様が私達に望んでいるのは、神の言葉を信頼する信仰を持つことだということです。その信仰を訓練するために、イエス様は弟子達に、伝道に行く時は何も持たないように命じられました。知らない土地で、食料もお金も持っていなければ、神はあなたを助けるという聖書の約束を信じて、祈り求めるしかありません。こうしてイエス様は弟子達の信仰を訓練なさったのです。
   見えるものを見て不安になる時こそ、神を信頼する信仰を訓練する良い機会です。イエス・キリストの弟子訓練とは、何よりもまず神を信頼する訓練のことです。

神が問う罪とは

『また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。』(新約聖書 マルコの福音書 6:10〜13)


   「聞く人がいなければ足の裏のちりを払い落としなさい」とは、福音を聞くか聞かないかは、聞く側に責任があるということを表しています。それはどのような責任なのでしょうか。この事を理解するためには、人間は生まれながらにどのような状態にあるのかを知る必要があります。
   悪魔にだまされたアダムとエバは、神との信頼関係が壊れてしまいました。これが、聖書が教える死です。ですから、すべての人は生まれながらに神との関係を持たず、死んだ状態です。そして、肉体の死によって永遠の死が確定し、この世界で何を手にしようとも、それらはすべて滅び、失われます。生まれながらの死人である私達は、このままでは神の国に行くことはできません。
   死んだ者に対して、神はどのような罪を問うことができるでしょうか。この世的な説明の仕方をするならば、どのような罪を犯そうとも、死んだら刑罰を受けることも、罪を償うこともできません。ですから、神が、私達の肉の行いの責任を問うことはありません。神が死人に対してできることはただ一つ、死から贖い出すことです。神は、死んでいる私達に永遠のいのちを与え、生き返らせることができるのです。神の御心は、死人である私達が、神が差し伸べておられる御手を握り、救われることです。
   つまり、神が問う罪とは、神を信じるか信じないかだけです。神の御心に反する行為とは、私達を救いたいという願いに反する、「信じない」ということだけなのです。ですから、神様を信じ、救い出された者に対して、問われる罪は何もありません。そのため、救われることを「罪が赦された」と言うのです。
   足の裏のちりを払い落とすとは、神が御手を差し伸ばしておられることを聞いたが、それをつかもうとはしなかったことに対する証しなのです。

『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:24)

   イエス・キリストは、この言葉を非常に重要なものとして語られました。神の福音を聞いて信じる者は、裁きにあうことがない、永遠の死を迎えることはない、とはっきり語られています。神様が問う罪はこれだけで、他の罪は一切問いません。ですから、イエス様は次のように言われます。

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)

   神様は、私達が考えるような罪で裁くことは決してなさいません。神様が言われることは、「わたしを信じなさい。」ただそれだけです。
   聖書は、罪という言葉を二つの意味で使っています。一つは、神を信じるかどうかという罪であり、もう一つが不道徳などの行いによる罪です。便宜上、神を信じない罪を「罪A」と呼び、行いの罪を「罪B」と呼んで、区別してみましょう。人間が罪だと思っているのは「罪B」です。多くの人は、天国に行けるか行けないかを決めるのは、この「罪B」だと思っています。どれだけ徳を積んだかによって救われると信じ、互いの不道徳を裁き合うのはそのためです。
   ところが神様は、あなたの行いを一切問いません。ただ信じるか信じないかだけが問われます。なぜなら、「罪A」が解決されなければ、人は必ず死ぬのですから、「罪B」を問うても何の意味もないのです。そもそも「罪B」の原因は、死にあります。死が神の愛を見えなくさせ、上辺で人をさばかせ、憎しみ・殺人を生み出しているのです。聖書は、罪は死によって生じた病気であり、病人の病状を責め立てるのはナンセンスなことだから互いに裁き合うのはやめ、いやしの手を差し伸べておられる神を信じるように教えているのです。それが、イエス・キリストの十字架です。イエス・キリストを信じるなら、永遠のいのちがあります。

『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』(新約聖書 ヨハネの福音書 3:18)

   すでにさばかれているとは、すでに死んでいるということです。死んでいる人をさばくことはできません。神が問うているのは信じるか信じないかだけなのですが、ほとんどの人が罪と言えば、「罪B」だけを意識し、神を信じないことが罪だという意識を持てません。しかし、自分の現状をよく考えてみましょう。あなたは心臓が止まったらどこに行くのでしょうか。死が確定するだけです。イエス・キリストだけが永遠のいのちに導くことができるのですから、神を信じ、差し伸ばされた御手をつかみましょう。

「罪」という言葉の理解

   罪という言葉が示すものは、2種類あることが分かると、聖書の御言葉の意味がよくわかるようになります。Tヨハネの手紙の中の次の二つの御言葉を読み比べてみましょう。

『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8〜10)

『だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:9)


   まず「自分は罪を犯さないと言うなら、あなたは神を偽り者とする」とあり、そのすぐ後に「救われた人は、罪を犯すことができない」と書かれています。この矛盾するように思える表現は、「罪」という言葉に二つの意味があることを知っていると、すぐに理解することができます。1:8で述べられている「罪」は、不道徳等の行いを表す罪(罪B)で、聖書の原文では、たいてい、複数形が使われています。次の3:9で述べられている「罪」は、神を信じない罪(罪A)で、原文では、たいてい単数で書かれています。ですから3:9の意味は、「救われた人は、イエスを神ではないと否定することはできない。なぜなら、神が共に生きておられるから。」となります。
   救われた人は神を否定できないので、罪Aから解放されています。しかし、まだ肉の体を持っており、神を目で見ることはできないので、不安や恐れから、どうしても見えるものに頼るという罪Bを犯してしまいます。ですから、クリスチャンになったら神の前に「罪B」を差し出して、神に取り除いていただき、平安を得なさいと聖書は教えているのです。このようにして罪と戦うなら、不安や恐れが取り除かれて、神がもっと見えるようになり、私達の心に安息が訪れます。罪を言い表せば愛に気づきます。見えるものにしがみつけばしがみつくほど、この世の平安は手に入っても、神の安息は手に入りません。
   つまり、救われた者は、「罪B」を犯しても「罪A」を犯すことはないのだから、救われているかどうか心配する必要はないということです。ですから、Tヨハネのその先には、次のように書かれています。

『だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。死に至る罪があります。この罪については、願うようにとは言いません。
不正はみな罪ですが 、死に至らない罪があります。
神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 5:16〜18)


   死に至らない罪とは、罪B(悪い行い)であり、死に至る罪とは、罪A(神を信じないこと)です。罪Bを神に告白するならば愛に気づき、神への信頼が増し加わり、永遠のいのちが豊かになります。神を信じた者は、神が共にいてくださるので、悪魔がアダムとエバを誘惑したようなことはもう起こりません。死に至る罪については願うように言わないとは、イエス・キリストを否定し福音を拒絶して死に至る人々に対して、私達にできることは何もありませんが、祈りをやめる必要もありません。しかし、それ以上に、イエス・キリストをただ知らないだけの人も大勢いますから、その人たちが救われるように福音を語りましょう。
   ともかく、罪には二つの意味があり、イエス・キリストを信じた者は、死に至る罪は完全に赦されて、永遠のいのちを持っているから心配する必要はありません。聖書は、このことを、念を押して次のように書かれています。

『私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 5:13)

   Tヨハネの手紙は、あなたがたはもう救われていて何の心配もないことをわからせるために書かれたものです。ですから、罪Bという死に至らない罪と戦い、神への信頼を増し加え、さらに平安を手にしなさいと書かれているのです。あなたの救いは確定しているから心配しないで自分の中にある罪Bと向き合い、病気をいやす事に専念しなさいと励ますために書かれたのです。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9)

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)


   あなたを恐れから解放し、平安で満たすのは、あなたの罪を赦す十字架の全き愛だけです。自分の罪を言い表しさえすれば、いやされ、神への信頼が増し加わる、と主はあなたを励ましておられるのです。罪は二つあるということを知らないと、罪を犯す自分は救われていないのではないかと思ってしまうものですが、そうではなく、信じるあなたはすでに赦されて永遠のいのちを持っているのです。
   クリスチャンにとっては、裁かれる罪はもう残っていません。あとは、自分自身が神の愛が見えなくなっている病気にかかっていることに気づき、いやされれば良いだけです。それは、愛されていることに気づくだけです。神の愛が見えるようになり、全き愛によって心はいやされ、やがて罪Bを犯さなくなり、神と人を愛せるように変わります。この安息を目指して生きていくように、聖書は教えているのです。