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2015年月12月27日
悪霊を追い出すとは
(新約聖書 マルコの福音書 5:1〜)
悪霊を追い出す

『こうして彼らは湖の向こう岸、ゲラサ人の地に着いた。イエスが舟から上がられると、すぐに、汚れた霊につかれた人が墓場から出て来て、イエスを迎えた。この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまったからで、だれにも彼を押えるだけの力がなかったのである。それで彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた。彼はイエスを遠くから見つけ、駆け寄って来てイエスを拝し、大声で叫んで言った。「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください。」それは、イエスが、「汚れた霊よ。この人から出て行け。」と言われたからである。それで、「おまえの名は何か。」とお尋ねになると、「私の名はレギオンです。私たちは大ぜいですから。」と言った。そして、自分たちをこの地方から追い出さないでくださいと懇願した。ところで、そこの山腹に、豚の大群が飼ってあった。彼らはイエスに願って言った。「私たちを豚の中に送って、彼らに乗り移らせてください。」イエスがそれを許されたので、汚れた霊どもは出て行って、豚に乗り移った。すると、二千匹ほどの豚の群れが、険しいがけを駆け降り、湖へなだれ落ちて、湖におぼれてしまった。豚を飼っていた者たちは逃げ出して、町や村々でこの事を告げ知らせた。人々は何事が起こったのかと見にやって来た。そして、イエスのところに来て、悪霊につかれていた人、すなわちレギオンを宿していた人が、着物を着て、正気に返ってすわっているのを見て、恐ろしくなった。見ていた人たちが、悪霊につかれていた人に起こったことや、豚のことを、つぶさに彼らに話して聞かせた。すると、彼らはイエスに、この地方から離れてくださるよう願った。それでイエスが舟に乗ろうとされると、悪霊につかれていた人が、お供をしたいとイエスに願った。しかし、お許しにならないで、彼にこう言われた。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい。』(新約聖書 マタイの福音書 5:1〜19)

悪霊とは

   悪霊(汚れた霊)とは、悪魔に仕える手下です。悪魔や悪霊について、人は様々な想像力を働かせ、いろいろなイメージを抱きますが、そのような理解ではなく、聖書はどのように教えているかを正しく知りましょう。聖書は、次のように語ります。

『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。』(旧約聖書 創世記 1:31)

『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に 立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 8:44)

    「罪を犯す者は悪魔から出た者である」とは、後半で説明します。
    まず、聖書は、神が造られたものはすべて非常に良いものであり、悪魔は初めから罪を犯し神に逆らう存在だったと教えています。ここからわかることは、悪魔は神が造ったものではないということです。よく悪魔は堕落した御使いだと言われますが、もしそうなら、悪魔は初めは良いものだったと言われるはずです。堕落した御使いの話は、旧約聖書に3回出ていますが、それが悪魔や悪霊になったと書かれているわけではありません。良きものとして造られた人間が悪魔にだまされて罪を犯したように、そのような御使いがいたということです。
    では、悪魔はどのようにして誕生したのかというと、神が初めからおられたように、悪魔も初めから存在したとしかわからないのです。私達は神や悪魔の始まりについて、何もわかりません。もっとも頭の良い動物であるチンパンジーをどんなに教育しても、人と同じように喋ったり文化を理解したりすることは出来ないのと同じように、人は神や悪魔を理解できるようには造られていないのです。
    大切なことは、悪魔がどこから来たかということではなく、現実に私達が影響を受けている問題をどのように解決するかということです。聖書はその点について、私達に詳しく教えています。

悪魔・悪霊は何をするのか

   悪魔は、人の意志をコントロールすることは出来ません。私達の意志をコントロールすることは誰もできず、神様も私達の人格を尊重し、ただ情報を与え、私達が自ら情報を選択するように導かれます。ですから悪魔は、偽りの情報を与え、私達が神に逆らうよう導くのです。そのため、イエス様は、悪魔を偽りの父と呼んでいるのです。
   例えば、イエス様が十字架にかかる前、 『悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた』(新約聖書 ヨハネの福音書 13:2)とあります。悪魔はユダの心に間違った情報を入れましたが、それを選択するかどうかユダは自分で選択できました。冒頭の汚れた霊につかれた人も、悪霊に操られていたのではなく、偽りの情報を信じた結果、あのような行動を繰り返しているということです。アダムとエバが蛇にだまされた時も、蛇は二人の心を勝手に操作することは出来ませんでした。ただ、「この実を食べても死なない」と嘘を言っただけです。そして、アダムとエバが蛇の情報を信じたことによって、神様との関係が壊れ、人類に死が入ったのです。
   死とは、神との関係を失うことです。神との関係を失った結果、人は永遠に生きることが出来なくなり、死ぬ体になりました。また、神が見えなくなったために神に愛されている自分が見えなくなり、自分が何者なのかわからなくなりました。これが、人間にとって肉体の滅び以上の恐怖となりました。神との関係を失った人間は、裸の自分の姿しか見えなくなり、恐れて隠れました。これは、神が見えなくなったことを表しています。神は彼らをもう一度呼び、その呼びかけに応答して彼らは救われるのですが、すでに関係は一度壊れていますから、体は死ぬものに変わり、自分の力で生きていかなくてはならなくなり、世界もまた死ぬべきものに変わったことを、神は二人に説明しました。
   この死の恐怖こそ、今日、悪魔が私達に嘘の情報を信じこませるための道具です。このパターンは、この世のマインドコントロールにも使われます。何らかの恐怖心を植え付け、そこから逃れるには○○しなさいという情報を流すと、人はそれを選択してしまうものです。手品を信じこませるのに何らかのトリックがあるように、蛇を使って私達に植え付けられた恐怖心によって、悪魔が流す嘘の情報を選択するようになり、それが今日の私達にまで影響がおよんでいるのです。
   今日の私達は、死ぬべき体を引き継ぎ、生まれながらに神との関係を失っています。そして、悪魔は死の恐怖を媒体に偽りの情報を流し、人は必死になって見えるものにしがみついています。すなわち、人の愛を得ようと人の目を気にし、体が滅びる恐怖から遠ざかるために豊かな生活を求めて生きるようになりました。神の愛が見えないため、それしか選べなかったのです。人から良く思われていないと不安になり、人が自分をどう思っているかを気にして、自分は正しいことを主張する生き方をしてしまうのは、神が見えず、自分が神に愛されていることが見えないという死の恐怖が原因なのです。こうして、世の心遣いが定着し、それが正しいと信じ、それをもとに生まれた善悪の基準で人の価値を判断するため、聖書を読んでも人の言葉に従う習慣が抜けません。また、人の価値を上辺で判断することで、世界に、差別と争い、富の奪い合いが生まれました。すべては悪魔が死を持ち込んだ結果です。ですから、罪を犯す者は悪魔から出た者と言われるのです。私達の中に死を持ち込むことで、悪魔は私達を罪の奴隷としたのです。

悪魔の仕業を打ち壊す

『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 3:8)

    イエス様が現れたのは、悪魔の仕業を打ち壊し、死の世界をいのちの世界に変えるためです。そのためにイエス様は、人と同じように死ぬべき体でこの地上に来られ、十字架で死に、復活することによって、悪魔がもたらした死を滅ぼしました。こうして、死の恐怖の奴隷となっていた私達を解放してくださったのです。

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 へブル人への手紙 2:14〜15)

    今日、私達を支配している実態は、悪霊そのものではなく、悪魔によってもたらされた死から生まれた恐怖です。人は死の恐怖によって罪を犯さずにはいられなくなりました。イエス・キリストは、根本原因である死の恐怖を追い出す力を持っておられます。イエス様が十字架にかかった時に、悪魔は力を失いました。つまり、この地上において悪魔や悪霊はすでに滅ぼされており、何もすることはできません。ただ、そうだからといって、私達が死の恐怖に支配されている事実は変わりません。
    ちょうど、ウィルスをばらまいたテロリストを捕えたところで、拡散したウィルスの感染を止められないのと同じように、悪魔の働きを止めても、ばらまかれた死の恐怖は私達を罪に導きます。聖書が、悪魔・悪霊と戦うように教え続けているのはそのためです。ただし、イエス様の十字架前と十字架後では、その戦い方は全く違います。十字架前には、悪魔は実際にこの地に存在して嘘の情報を囁いていたので、イエスの御名の権威によって悪霊を追い出し、働きを封じました。しかし、悪魔の働きが滅ぼされた今は、パウロもペテロも、悪霊を追い出すのではなく、恐れと戦うように教えています。
    つまり、現代において悪霊を追い出すとは、何か悪さをしている悪霊そのものを追い出すのではなく、悪魔が私達の中に残していった恐れを追い出すことを意味しているのです。何か問題が起こった時に、悪霊のせいだと考えてしまうと、問題解決の本質を見失ってしまいます。悪魔の目的は、私達を死の恐怖の奴隷とすることです。死の恐怖と戦わない限り、敵に勝利することは出来ません。

悪霊に打ち勝つ武器

    悪魔に打ち勝つとは、死の恐怖を締め出すことです。イエスの御名によって悪霊を追い出すとは、悪魔が住み着かせた死の恐怖を、あなたの中から追い出すことが出来ると、イエス・キリストは教えておられるのです。

1.永遠のいのちを持っている

    イエス様は、あなたが御子を信じているなら、すでに永遠のいのちを持っていると言われました。あなたは死の世界からいのちの世界に移され、キリストと共に生きています。あなたを支配しているのは、もはや死ではなく、永遠のいのちです。それを認識するのが信仰です。あなたが永遠のいのちを持っていることを信じることが、悪霊を追い出す武器です。
    人が苦しむのは、誰かの言葉のせいではなく、それを信じてしまったことによるものです。人は、恐怖心をもてば持つほど、恐れから相手の言うことをきくようになります。聖書の言葉が実行できないのは、死の恐怖が根強く住み着いているせいです。無意識のうちに、恐怖心が御言葉を完全にシャットアウトしているのです。死の恐怖を打ち消すには、正しい情報を信じなければなりません。それが、「あなたは永遠のいのちを持っている」という事実です。

2.罪は赦される

    私達は、罪は罰を受けなければ赦されないと思い込んでいます。死の恐怖が、罪には罰があると思わせているため、失敗しても罰を受けることを恐れて、罪を言い表わそうとしません。しかし、それは正しい情報ではありません。罪を言い表すことによって得られるものは、赦された平安と神の愛です。自分の犯した過ちを告白し、「私の犯した罪を赦して下さい」と祈るなら、イエス様の十字架が見え、自分が愛されていることに気づきます。神は、そうやって私達の心からすべての恐れを締め出してくださるのです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

3.明日のことは心配するな

   神様は、永遠のいのちだけでなく、この世界においても私が責任を持つから心配するなと語ります。何を食べようか何を着ようか心配しなくても、神様は必要な時に必要なものをくださいますから、ただ信頼すればよいのです。

   神様は私達に信仰を与え、永遠のいのちを持っていること、罪の赦しと愛を受けとること、先の心配はいらないことがわかるようにしてくださいました。私達は、信仰によって神の言葉を信じることが出来、愛されていることが見えるようになります。この信仰を通して、死の恐怖を締め出しなさいと教えられているのです。
   イエス様は、「私が悪霊を追い出しているのを見たなら、神の国が来たと信じなさい」と言われました。イエス様が、悪霊を追い出すのを人々に見せたのは、人々を死の恐怖から解放して自由にするために来たことを示すためであり、それを通して、「神の国が来た」という信仰を持たせるためです。「神の国が来た」とは、「イエス・キリストという永遠のいのちがあなたの中にある」ということです。イエス様は、それを信じなさいと言われました。つまり、イエス様は、私たちは永遠のいのちを持っているから、もう何も心配はいらないと言われたのです。
   そして、イエス様はそう言われただけでなく、実際に十字架にかかられ、私たちの永遠のいのちが決して失われることがないように「死」を滅ぼされました。また、私たちがイエス・キリストの十字架を見上げたときに、死の恐怖を締め出すことができるようにと、全き愛を示されました。
   イエス様の十字架の全き愛を思い出せば、私たちは死がもたらした「愛されていない」という恐怖に打ち勝つことができます。
   私たちはただその十字架の愛を信頼し、自分の心にある不安や恐れを神に言い表せばよいのです。神の前に正直に祈るとき、恐れは締め出されます。あなたの怒りや不安に対抗する武器は、イエス様の十字架しかありません。もう永遠のいのちが与えられていて、決してそれが取り消されることがないということを知るとき、人はまことに死の恐怖から解放され、ますます神を信頼し歩くことができるようになっていくのです。