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2015年月12月6日
からし種のたとえ
(新約聖書 マルコの福音書 4:21〜)
「聖霊に照らされる」

『また言われた。「あかりを持って来るのは枡の下や寝台の下に置くためでしょうか。燭台の上に置くためではありませんか。
隠れているのは、必ず現われるためであり、おおい隠されているのは、明らかにされるためです。』(新約聖書 マルコの福音書 4:21〜22)


   ここでの灯りは、聖霊を表します。 『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 3:16) とある通り、神を信じている人の内には、心を照らす光として、聖霊が住んでおられます。ですから、救われると、その光によって、自分の闇が見えてくるようになり、以前よりも罪に気づくようになります。この世界で罪と言えば、せいぜい道徳に反することぐらいですが、聖霊が住まわれることによって、妬みや怒り、人を愛せないことなどが罪だと気づくようになるのです。
   しかし、自分の闇を知ることは大変つらいことです。このつらさに対して、私達は二つの選択肢を持っています。一つは灯りを隠して、心の中のごみを見ないようにすること、もう一つは、ごみを取りのぞいてくださるように神に願うことです。
   灯りを灯しておきながら、わざわざ隠すようなことはしないように、つらくてもあなたの心を照らす聖霊を消してはなりません。聖霊が罪を照らして下さったら、この罪をなんとかしてくださいと神に叫べば良いのです。そうすると、神は罪を赦し、私たちをいやしてくださいます。
   私達が、平安の実を多く結ぶためには、心の中のごみを取り除かなくてはなりません。そのために、御霊が私達の内に住まわれて心の中を照らすのです。平安を得るためには、ただ神の前に罪を言い表せば良いだけです。これが、救われた者の次の作業になります。罪に気づいたら、心の中のごみを掃除するチャンスです。

「さばくと平安を失う」

『また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。』(新約聖書 マルコの福音書 4:24〜25)


   イエス様は、『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 7:1〜2)と言われました。人をはかるはかりで自分もはかり返されるから、人をさばかず正しいはかり方をするように教えられているのです。
   しかし、私達はニュースなどを聞いては、日々、人をさばいて生活しています。なぜこんなにもさばくことが好きなのでしょうか。実は、人をさばくことによって、自分は正しいと主張しているのです。
   人はもともと神に似せて造られた素晴らしい存在です。ところが、アダムとエバによって、人間の中に死が入り込み、神との関係が断ち切られました。この結果、人は、神の愛が見えなくなり、自分は価値のない存在なのだと思うようになったのです。死が人間にもたらした最大の変化は、心の中に「I am not OK.」という思いを生じさせたことです。
   もともと神に似せて造られた「OK」な存在である人間は、「I am OK」を取り戻したいと願うようになりました。アダムとエバは、罪を犯したその時、「私は悪くない。悪いのは妻だ」「いや、蛇だ」と言って、「I am OK.You are not OK.」と主張しました。これが、自分の物差しで人をさばき、自分は正しいと主張する罪の誕生です。
   死によって、自分は「I am not OK.」だと思わせられ、「I am OK.」を手に入れるために、人から良く思われようと、自分で自分の義を立て、人をさばくようになったのです。イエス様は、それをやめるように言っておられるのです。
   イエス様は、あなたを救い、関係を回復し、「私はあなたを愛している。私の目にあなたは高価で尊い。」と言っておられます。このことに気づけば、あなたは人をさばいて自分で自分の義を取り戻そうとする必要がなくなります。「持つ者はさらに与えられ、持たない者は持っているものまで取り上げられる」とは、人をさばくことで平安を得ようとしても、平安にならないばかりか、大切なものまで見失ってしまうが、あなたが神に愛されていることに気づけば、平安を増し加えることができるということです。
   自分は正しい者なのだから愛されよう、と求めることは間違っていません。しかし、人をさばくことや人からほめられることによって、それを得ようとするのは間違っています。神に愛されていることを知るならば、今までとはまったく違う平安が、心を占めるようになります。平安の実を結ぶためには、さばかないことです。人をさばいて自分を満たそうとする生き方をやめて、神に愛されていることに目を向けて生きましょう。

「からし種のたとえ」

『また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。』(新約聖書 マルコの福音書 4:26〜29)


   神の国とは、知らないうちに成長して多くの実をならす種のようなものです。イエス様を信じた時に、私達の中に聖霊が住まわれるようになり、私達の内側に神の国が来ました。その神の国は、人の努力によらず、勝手に大きく成長して、肉体の死を迎える時、天国に引き上げられます。救われた者は、心配しなくても、寝ている間に天国に行ってしまうのです。

『また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。』(新約聖書 マルコの福音書 4:31〜33)


   からし種はゴマよりも小さく、吹けば飛ぶような種ですが、成長すると2メートルくらいになります。あなたの中の神の国は、初めは気づかないくらい小さなものですが、やがて大きく成長するから、心配はいりません。
   イエスはこのように、2度続けて種のたとえをお話しになりました。その理由を考えてみましょう。
   統計を取ると、自分が本当に天国に行けるかどうか確信が持てないクリスチャンが数多く存在します。そうすると人は、行いを頑張って救われたことを確認しようとするものです。ところが、頑張ることによって律法主義に陥ってしまい、行いで人をさばくようになります。こうして、御霊によって救われたにもかかわらず、律法で救いを完成させようとする過ちに陥ります。イエス様は、私達がさばくことをやめられるように、不安を払拭しようとして、一度救われた者は、必ず天国に行くことをたとえで話されたのです。
   永遠の命に関する聖書の教えは、すべて現在形で書かれています。それは、永遠の命は将来得るものではなく、すでに今持っているものだからです。肉体の死を迎える時、あなたの中にある神の国によって引き上げられます。何もせずとも、神の国は成長して、天国に行けるのですから、心配はいりません。
   それなのに、ただ信じるだけで救われると言われても、人はだんだん不安になるもので、一生懸命頑張って行いを確認したほうが安心できるのです。これは神の言葉を信頼しないで自分の行いを信頼する行為であり、神の教えに反します。

「なぜ神はあなたを無条件で救うのか」

   なぜ神は、私達が何もしなくても、素晴らしい恵みを与えて神の国に連れて行ってくれるのでしょうか。ここに神の深い恵みがあるのです。

『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:23〜24)

   「値なしに」とは、行いが伴っていなくてもということです。そもそも私達は皆罪人で、神からほめられるようなものを何も持っていません。だからこそ、神であるイエス様が私達の知らないところで十字架にかかり、恵みを与えてくださったのです。私達はただそれを受けとればいいだけなのですが、行いが大切だという考えが根底にあるために、自分みたいな人間がクリスチャンになっていいのかという不安が消えず、多くの人が恵みを拒否してしまいます。神は、信じるだけで行いは関係ないと言われるのに、人の側で救いを難しいものにしてしまっているのです。そして、救われた後も、行いがなければならないのではないか、救われた後も努力しなければクリスチャンと言えないのではないかと勝手に考えて、自分ばかりではなく人をさばくようになるという悪循環に陥ってしまいます。しかし、聖書が教えているのは、神の国は人の努力によらず、勝手に成長するものだということです。

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)

   この御言葉は、前半と後半では意味が合っていないため、理解が難しいところですが、ギリシャ語の原文を読むと、アダムとエバが罪を犯したために死が入り、世界は死でおおわれてしまい、そのことによって全人類が罪を犯すようになったと、読み取ることが出来ます。上記のような訳になってしまったのは、死は罪の罰だという思い込みと、罪は自分の欲が原因だという思い込みがあるからです。自分が罪を犯していることを自覚しているために、罰があるものと思い込み、その罰が死なのだと勘違いしているのです。しかし、聖書を注意深く読んでみると、死はあなたの罪によって引き起こされたものではなく、死が入ったことによってあなたは罪を犯す者となってしまったと読み取ることができます。ですから、神は一方的にあなたを助けようとなさるのです。

『それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:21)

   私達が罪を犯すようになったのは、死が入り込んだせいです。私達は生まれながらに神を知りませんから、神に目を向けることができず、罪を犯すしかない存在です。このように、自分のあずかり知らぬところで死ぬ者と定められ、罪に苦しむようになってしまったため、神はあなたの罪を問うことをせず、行いに関係なく救ってくださるのです。自分が何かをしたわけでないのに罪人となってしまった私達を憐れみ、神は、あなたが何もしなくても無条件で助けてくださるのです。
   これが、罪は外から入ってきた病気とされるゆえんです。私のもとに来れば罪をいやし休ませてあげようと、主は言われます。医者が病人を治すためにいるのと同様に、主はあなたの医者であり、そのいやしが十字架なのです。神が十字架にかかるという、そこまでして私達を救ってくださったのは、私達を苦しめる罪が自分自身のあずかり知らぬところで起きた死を原因にしているからです。
   罪は自分から出たものと考えるから、自分はダメなものだと思い、自分を卑下し、人を見て裁いてしまいます。しかし、罪は病気であり、死が原因なのですから、私達は互いにさばくのではなく、憐れみ合い、それぞれが神にいやしていただかなくてはいけません。
   このままでは、あなたを待っているものは死しかありません。あなたを愛する主は、救いを信じて受けとりなさいと、切望しておられます。そして、一度救われたら、行いとは一切関係なく、救いが取り消されることはありません。神が責任を取ってくださいます。
   これが、からし種のたとえが言わんとしている内容です。あなたを苦しめている罪は、あなたの知らないところで起きたものだからこそ、神はあなたを無条件に救ってくださるのです。