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2015年月11月22日
信じることがみこころ
(新約聖書 マルコの福音書 3:7〜)
「ご利益ではなく永遠のいのちを求めなさい」

『それから、イエスは弟子たちとともに湖のほうに退かれた。すると、ガリラヤから出て来た大ぜいの人々がついて行った。またユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が、イエスの行なっておられることを聞いて、みもとにやって来た。
イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう、ご自分のために小舟を用意しておくように弟子たちに言いつけられた。
それは、多くの人をいやされたので、病気に悩む人たちがみな、イエスにさわろうとして、みもとに押しかけて来たからである。』(新約聖書 マルコの福音書 3:7〜10)


   神の国が来たという福音を語り、病をいやされるというイエス様の噂を聞いて、多くの群衆が押し寄せてきました。人は皆、何が大切で何が真実か、何のために生きているのかと、神様から頂いた魂が飢え乾き、光を求めています。しかし、イエス様はこの時、一人一人手を置いて祈るようなことをせず、あえて逃げる道を選びました。実は、ここに福音の本質があるのです。
    人々は宗教にご利益を求め、世の宗教はご利益を掲げ、そのための教えが伴います。ところが、イエス・キリストは宗教に終止符を打ち、「もうそのようなことはしなくていい。私を信じさえすれば、あなたが本当に求めていたものを手に入れることができる。」と教えました。私達が本当に求めているご利益とは、病のいやしでも出世でもなく、永遠のいのちです。
    人は生まれた時から死ぬことが決まっており、それをどうすることもできません。すべての人は余命を宣告された状態であるにも関わらず、人はいつ訪れるか分からない死と向き合おうとはしません。死から目をそらし、自分を楽しませ、自分にとっての幸せを見出そうとして生きています。しかし、どんなものを手に入れても死が訪れることに変わりはなく、死を解決することができない限り、本当の意味での自由や安らぎはなく、本当に問題を解決したとは言えないのです。
    死を解決するために人間が考えた手段は、良い行いをして神に認めてもらえれば、天国に行くことが出来るだろうという考え方です。しかし、この考え方では、良い行いをすることが出来ない人は絶望するしかありません。
    イエス様の教えは違いました。行いではなく、ただ私を信じさえすれば罪が赦されるのだと教えられたのです。イエス様は、人々が現実に目を向けて救いを求め、永遠のいのちを手に入れることができるようにと願って、船を用意して逃げるように指示なさったのです。
    死から目をそらして喜びや幸せを感じ取ろうとする人々は、人から愛されることを求め、物にしがみついて生きています。愛されるためには、相手の期待に応えなければなりません。期待に応えて相手から愛されなければ、相手を愛することが出来なくなり、つらさが生じ、それが怒りや敵意となります。つまり、私達の抱えるすべての問題の根本原因は死にあります。死に対して平安を得るには、永遠に生きる希望を得て、見えるものにしがみつく生き方から解放されるしかありません。イエス様は、このことを伝えるために来られたので、あえて病のいやしを求めるような人々から身を隠そうとなさったのです。

『 また、汚れた霊どもが、イエスを見ると、みもとにひれ伏し、「あなたこそ神の子です。」と叫ぶのであった。イエスは、ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた。』(新約聖書 マルコの福音書 3:11〜12)

    悪霊は、イエス様が神であることを知っていました。イエス様が、その事実を人々に知らせないように戒められたのは、ただご利益だけを求めようとする人々から身を避けるためです。あえて知らせなくとも、誰でもまことに神を求めるなら、真実を求める魂には、それがわかるのです。

「恐れからの解放」

『さて、イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。』(新約聖書 マルコの福音書 3:13〜15)

    イエス様が、弟子達に宣べさせる福音とは、人は行いによって救われるのではなく、イエス様を信じることによって救われるという福音です。救われるとは、神様との関係を回復し、永遠のいのちを持つことですが、永遠のいのちを持ちさえすれば、すべての物事が解決するかというと、そうではありません。というのは、それまで抱いていた死の恐怖が私達の中に残っているため、見えるものを信頼してしがみつく生き方を、なかなかやめることができないからです。
    私達はこれまで、死の恐怖から生まれた恐れに支配されて生きてきました。死があることで、このままでいいのか、早く結果を出さなければという恐れが生じ、それによって突き動かされ、選択を迫られてきたのです。このように人生の選択をしてきた私達が、もう二度と死の恐怖にしばられて生きる必要はないことをしっかりと認識するためには、繰り返しそれを思い起こさせる必要があります。悪霊を追い出すとは、私達を恐れから解放することです。そのためにイエス様が用意した道具が十字架です。
    死の恐怖とは、神に愛されていることが見えないことで生じる恐怖です。物理的な恐れよりも、神に愛されていると分からないことが不安なのです。イエス様は、あなたの罪を背負って十字架にかかることで、あなたを愛してやまないことを伝えておられるのです。神は、あなたに何が出来るかではなく、あなたを造ったあなたの神だから、あなたを愛しておられます。自分が神に愛されていることを知ることで、人は初めて恐れから解放されます。
    ここで「悪霊を追い出す」という表現が使われているのは、これが十字架以前の言葉だからです。つまり、ここで語られている福音には、二つの意味があります。一つは、あなたが救われて神との関係を回復して永遠のいのちを持つようになることであり、もう一つは、神に愛されていることを知ることで、あなたの心に住み着いている恐れを締め出すことです。
    神は、あなたを愛していることを伝えたいと願い、そのために自分の罪を言い表してごらんと教えます。神の前に罪を言い表せば、神に愛されている自分に気づき、心の中に言いようもない平安が訪れます。その時あなたはイエスの十字架が見えるようになり、こうして私達の心から恐れが締め出されて平安が手に入るようになるのです。


「赦されない罪」

『イエスが家に戻られると、また大ぜいの人が集まって来たので、みなは食事する暇もなかった。イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。「気が狂ったのだ。」と言う人たちがいたからである。また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。』(新約聖書 マルコの福音書 3:20〜22)

    イエス様が大工の仕事をやめ、突然宣教活動を始めたのを見た近所の人たちは、あの家の息子はおかしくなったのだと思いました。そのため、人の目を気にした家族のものがイエス様を連れ戻そうとしました。今も昔も、この世の心遣いが御言葉をふさぎます。家族ほど、神の言葉を語る者を受け入れ難いことが往々にしてあるものです。また、律法学者達も、イエス様の力は悪霊によるものだと批判しましたが、イエス様は、悪霊同士が分裂して互いを追い出すなどあり得ないことだとお答えになりました。

『そこでイエスは彼らをそばに呼んで、たとえによって話された。「サタンがどうしてサタンを追い出せましょう。もし国が内部で分裂したら、その国は立ち行きません。また、家が内輪もめをしたら、家は立ち行きません。サタンも、もし内輪の争いが起こって分裂していれば、立ち行くことができないで滅びます。確かに、強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません。そのあとでその家を略奪できるのです。
まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている。」と言っていたからである。』(新約聖書 マルコの福音書 3:23〜30)


   聖霊を汚す罪とは何でしょうか。
   私達が救いを受け入れることができるように、聖霊様は私達の良心に働きかけます。すると私達の中にある隠れた罪があぶりだされ、心につらさを感じます。このつらさをどうすることもできなくなり、神に「助けてほしい」と叫ぶ時、その人は救われるのです。これが、神の呼びかけを受けて応答するということです。この呼びかけを拒否する者は神との関係を回復することは出来ないので、罪が赦されません。つまり聖霊を汚す罪とは、神の呼びかけに応答しないことです。
    神への応答とは、助けてほしいと神に答えることです。聖霊様の働きかけに対して初めは自分のつらさに気づかなくても、医者にあなたは病気なのだと言われ続ければ助けを求めるように、聖霊があなたの心にあなたの罪を示し続けることで、ついに魂が助けを求めるようになります。イエス様は、どんな罪も赦されるから、とにかく医者である神のもとに行きなさいと語っておられるのです。イエス様は、「あなたの重荷を私のところに持ってきなさい。私がその荷をおろして休ませてあげるから。」と言われます。罪という重荷、死という重荷をおろすことができるようにしてくださるのは、イエス・キリストだけです。

「神の言葉を信じるように」

『 さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた。大ぜいの人がイエスを囲んですわっていたが、「ご覧なさい。あなたのおかあさんと兄弟たちが、外であなたをたずねています。」と言った。
すると、イエスは彼らに答えて言われた。「わたしの母とはだれのことですか。また、兄弟たちとはだれのことですか。」
そして、自分の回りにすわっている人たちを見回して言われた。「ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです。神のみこころを行なう人はだれでも、わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。』(新約聖書 マルコの福音書 3:31〜35)


   神にとっての兄弟姉妹とは、神の御心を行う人のことです。では、「神の御心を行う」とはどういうことでしょうか。それは、決して良い行いをするという意味ではありません。

『すると彼らはイエスに言った。「私たちは、神のわざを行なうために、何をすべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:28〜29)

    神の御心とは、キリストの言葉を信じることです。聖書が教える行いは、心の状態を含みます。信じることが行いの原点です。信じさえすれば、神から兄弟と呼ばれるのです。ですから、私達が毎日の生活の中で目指すのは、信じることです。信じることの第一は、イエス様が救い主であるということであり、その後は神が語る言葉を信じることです。
    イエス様が最も悲しまれることは、神の言葉を私達が信じないことです。ラザロという青年が死んだ時、イエス様は「彼は死なない」と言われましたが、誰も信じることができませんでした。この時、イエス様は涙を流しておられます。

『 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
イエスは涙を流された。』(新約聖書 ヨハネの福音書 11:33〜35)


   イエス様が涙を流したのは、不信仰に対する悲しみのためです。神様は、私達が困難にぶつかったら助けると約束しておられます。この約束を信じることが、御心を行う者の生き方です。試練には脱出の道があると神が約束しておられるのですから、何があってもあきらめず、神は助けてくださると信じることが神の御心です。
   問題にぶつかった時にも神の約束を信じ続けるために、ぜひ次の3つのことを日頃から実践していきましょう。

1.感謝する

    どんなことにも必ず脱出の道が用意されているのですから、つぶやくのはやめて感謝しましょう。


2.人の悪口を言わない

    悪口を言えば言うほど何も解決せず、脱出の道が見えなくなります。


3.神が喜ばれると思うことを1日ひとつ実行する

    何を実践しようかと神が喜ばれることを思いめぐらすことで、心が神に向き、信じようとする方向に向かっていくことができます。これが神との関わりの始まりとなるのです。

    私達が人に敵意を覚える時、神に対しても敵意を抱いていきます。神との関係は、人との関係と同じように築かれていくのです。これらのことを実践することによって、心が自然に神の方向に向き、神の言葉が信じられるように成長していきます。こうして、御心を行う人になることができるのです。