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2015年月11月8日
礼拝メッセージ
(新約聖書 マルコの福音書 2:18〜)
『ヨハネの弟子たちとパリサイ人たちは断食をしていた。そして、イエスのもとに来て言った。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか。」 イエスは彼らに言われた。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです。しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します。』(新約聖書 マルコの福音書 2:18〜20)

   イエス様がこの地上に来られたのは、私達が神との関係を回復して永遠のいのちを得るためです。永遠のいのちを得たら、次は、このいのちを育てる歩みが始まります。ところが、私達の価値観が神との関係の邪魔をし、永遠のいのちを育てる邪魔をします。そこでイエス様は、この価値観を壊そうとなさいます。
    「なぜ断食をしないのか」というパリサイ人の質問は、「断食すべきだ」という価値観を持っていることを表しています。人の行いや見た目でその人の価値を判断するこのような基準のことを、聖書は律法と呼びます。
    律法という価値観は、神との関わりを失ったために生まれました。人は神によって造られているため、すべての人の魂は神を慕い求め、神との結びつきを取り戻したいと願っています。ですから、この世には多くの宗教があるのです。しかし、神の見えない世界で神に認めてもらおうとしために、人は行いによって認められようと考え、律法が生まれました。イエス様は、それは間違っていることを教えておられます。

新しいぶどう酒は新しい皮袋に

『だれも、真新しい布切れで古い着物の継ぎをするようなことはしません。そんなことをすれば、新しい継ぎ切れは古い着物を引き裂き、破れはもっとひどくなります。また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。そんなことをすれば、ぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒も皮袋もだめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるのです。』(新約聖書 マルコの福音書 2:21〜22)

   新しいぶどう酒とは、救われて神との関係を回復し永遠のいのちを手にした人のことです。では、新しい皮袋とは何を意味するのでしょうか。
    私達の魂は、目や耳などの肉の体から得た情報によって自分が何者かを認識し、何を選択して生きるかという意志を働かせます。しかし、肉の体はこの世の情報しか魂に伝えることができず、私達の魂が求めている神の情報はそこにありません。死に向かっているこの世界が与える情報は死であり、死は生きている間に○○しなければならないと私達に結果を要求します。このような肉の価値観によって、行いによって神に認めてもらおうという律法が生まれ、私達は、行いによって人から愛されようとして人の目を気にし、律法で人を見てさばくようになり、肉の価値観が人を支配するようになりました。
    このような状態の私達のもとにイエス様が来てくださり、永遠のいのちをくださいました。このいのちを「御霊のからだ」とも呼びます。肉の体はこの世の情報しか届けることができませんが、御霊のからだは私達の魂に神の情報を届けます。目で見たことのない方を信じることができるのは、御霊の働きです。つまり救われた人は、永遠のいのちという新しいからだを通して神と交わり、信仰という神の情報を受け取ることができるようになったのです。
    つまり、救われた人は二つの情報源を持っています。一つは、今まで通り肉の体による情報です。それは死の情報であり、私達に結果を要求して律法に導きます。もう一つは、御霊のからだによる信仰の情報です。それは肉の体とはまったく逆の情報で、あなたはよみがえり、常に神と共にいて、愛され、もうあなたに死はないという情報です。救われた者には常に二つの選択があり、どちらの情報を信じるか、魂に葛藤が生じるようになるのです。
    「新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなさい」とは、「救われた人は、古い価値観を捨て、信仰によって生きなさい」ということです。この世の価値観という肉の律法によって神との関係を築くことはできません。パリサイ人は神に応答し救われましたが、律法の行いで神との関係を築こうとしていました。イエス様は、それでは神との関係が進まないから、そのようなものは早く捨てて、神から与えられた信仰に生きなさいと言われたのです。

『ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:1〜3)

   せっかく永遠のいのちという御霊のからだをいただいて神様との関わりを持つことができたのに、「なぜ断食しないのか」というような、肉による価値観では神との関係を築くことはできません。新しい皮袋とは信仰です。古い皮袋とは、行いで人を判断し、愛されようとする肉の価値観のことです。肉の価値観は、いいつけを守って聖書の教えを行えば神様がご褒美をくださり、神との関係が築けるという考えに私達を導きますが、決してそんなことはありません。
    パリサイ人と取税人の祈りを思い出してみましょう。パリサイ人は、律法を守ることができた感謝の祈りを捧げ、取税人は罪人の私をあわれんでくださいと祈りました。パリサイ人は、これが神との関係を築く道だと思ったからそう祈ったのでしょう。しかしイエス様は、私との関係を築くのはこの取税人だと言われました。神との関係は、この取税人と同じように、神にあわれみを求めることで築くものなのです。

神の律法の目的

    では聖書の行いは守らなくてよいのかというと、決してそのようなことはありません。それは、聖書の行いを守ることを目指すことで、必ず取税人と同じように、神にあわれみを求める結果を招くからです。ですが、残念ながら多くの人は、御言葉を行う意味が分かっていません。
    神の律法は「神を愛し、人を愛しなさい」という言葉に要約されます。しかし、この御言葉を完全に実行できる人がいるでしょうか。見ず知らずの人を自分自身と同じように愛し、すべてを尽くして神を愛せるでしょうか。私達は、大部分を自分自身のために生き、見えるところの限定された人を愛し、限定された中で神と関わっています。これは、神を愛しているとは言いません。聖書は完全であることを求めると同時に、そんなことは誰にもできないと言っています。ですから、神の律法を実行しようとすればするほど、罪人としての意識が生じるようになっているのです。これを自覚したら、神にあわれんでくださいと祈るしかありません。

『しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。・・・・・・こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 3:21,24)

    神の約束とは、私達に安息を与えるという約束です。それは、立派な行いをする人ではなく、イエス・キリストを信じる人に与えられるものであり、信じるとは、神に助けを乞うことです。
    神の律法を行おうとすることで、キリストにあわれみを乞うようになることが大切なのです。行いによって神との関係を築こうとすれば、行いによって人をさばき、自分は立派だと誇るようになります。それは神の御心ではありません。神の御心は、あなたが罪人に過ぎないことに気づいて、神にあわれみを乞うことで関係を築くことです。これが新しい皮袋の生き方、信仰の生き方です。
    「私たちが信仰によって義と認められるため」の「信仰」というギリシャ語は、「ピスティス」が使われていて、「信実」という意味があります。神は、罪人である私達が「助けてください」と言う時、その言葉を「信実」だと見なされます。ところが、私達が行いを誇る時、それは神には偽りにしか見えません。
    神と私達の関係は、医者と病人の関係です。病人が助けを求める姿こそ、神の目には信実と映ります。その信実によって神は私達を助け、私達の罪を赦し、いやしてくださいます。このような関係によって平安を得ることが、新しい皮袋の生き方です。誤った価値観で神との関係を築こうとするのはやめましょう。

新しい皮袋の特徴

1.あなたは愛されている

    この世の価値観は、「愛されていない」という前提で成り立っており、「愛されたければ○○をしなさい」と組み立てられています。それは、この世が神との関係を失うところから始まっているからです。肉によって生きるなら、行いのいい人や頭のいい人が愛されるものだと考え、愛されていないから愛されるように頑張ろうという生き方になります。しかし、あなたは神の作品であり、生まれる前から神に愛されています。ですから、私達はこの前提から価値観を変えなければなりません。それが信仰によって生きるということです。

2.私達は病人であり、神は医者である

    神の前に私達は皆同じ病人であり、偉い人は一人もいません。近代社会において、収入や学歴などによらず選挙権を持っているのは、この聖書の価値観によるものです。 すべての人が愛を必要とし、癒しを必要としています。それは、神の前に皆同じです。この前提がわからないと、頑張らなければ愛されないのだという恐怖を感じ、神との関係を築くことができません。

3.人を生かすのは神である

    神を知らない世界では、人を生かすのは人の言葉であり、富だと教えられます。しかし神は、人を生かすのはパンだけではなく神の言葉であると教えます。この「私達を生かすのは神でしかない」という考え方にしっかり立って生きることが、新しい皮袋の生き方です。
    新しい価値観に根付いて生きると、この世での生き方も変わってきます。あれをしなければ、これをしなければと律法にしばられ、この世の価値観に生きる限り、いつも希望を失ってしまいます。しかし、神の価値観に生きるなら、何があってもいつも神が生かしてくださっているという希望があります。せっかく神様から新しいいのちをもらったのですから、新しい価値観で神との関係を築いて生きましょう。

新しい価値観を築く方法

    私達が新しい価値観を手に入れるには、自分の価値観が使えなくなる体験が必要です。それは、自分の行いで人の義を手に入れられなく状態です。それは人にとってつらい体験ですが、そのようにして初めて価値観を変えようという勇気を持つことができるのです。
    価値観を変えるのはつらい作業です。今まで自分が頼ってきたものが価値を失うのは、人にとってとてもつらいことです。今までの価値観で生きたほうが楽なのです。しかし、そのつらい作業に取り組まない限り、私達は見えるもので平安を得る生き方を放棄できず、いつまでたっても中途半端で、神との関係を築くことができません。
    ですから、落ち込み、打ちのめされ、絶望することが、人生にとって素晴らしいチャンスとなります。聖書はこれを患難と呼び、この時、見えるものに逃げ込まないでつらさと向き合うなら、あなたは変わることができると教えています。

『彼らはイエスを捕え、引いて行って、大祭司の家に連れて来た。ペテロは、遠く離れてついて行った。彼らは中庭の真中に火をたいて、みなすわり込んだので、ペテロも中に混じって腰をおろした。
すると、女中が、火あかりの中にペテロのすわっているのを見つけ、まじまじと見て言った。「この人も、イエスといっしょにいました。」ところが、ペテロはそれを打ち消して、「いいえ、私はあの人を知りません。」と言った。
しばらくして、ほかの男が彼を見て、「あなたも、彼らの仲間だ。」と言った。しかし、ペテロは、「いや、違います。」と言った。
それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから。」と言い張った。しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません。」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。
主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う。」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。』(新約聖書 ルカの福音書 22:54〜62)


    ペテロが遠く離れてイエス様についていったのは、人から良く思われたいと人の目を気にしたからです。私達も同様です。愛されようとして相手に合わせてしまうのです。それは、あなたがすでに愛されていることを知らないからです。
    この出来事の直前に、ペテロは「たとえ死ななければならないとしてもイエス様についていきます」と言いました。それなのに、イエス様を裏切ってしまった自分に、ペテロはどれほど絶望していることでしょうか。自分は何とみじめな人間か、この現実を受け入れることが、神様との関係を築くには重要なのです。
    この時、ペテロの魂は自分のみじめさに打ちひしがれ、主のあわれみを求めていました。ですから、イエス様は振り向いたのです。イエス様は怒ったり、悲しんだりしていたのではありません。「何があってもついていく!」と豪語していたペテロが、ようやく信仰で神を呼び求めたのです。イエス様は、やっと神と正しい関係を築くことができたペテロに、彼を見つめて、愛していると伝えたのです。ペテロは激しく泣きました。そして、愛されていることを知ったペテロは、この後、大胆にイエス様を証しするようになり、別人のように変わりました。
    ペテロの価値観がまるで変ってしまったのは、愛されていると知ったからです。「光は闇の中に輝いている」と語られているように、人は絶望の中で初めて神に愛されることの素晴らしさに気づきます。自分の弱さや自分の限界に気づく時、神に「助けてほしい、あわれんでほしい」と叫ぶことを、聖書は信仰と呼びます。そして、この時神は、あなたを愛しているというメッセージを必ず伝えてくださいます。こうして私達の価値観は変わることができ、人は真に希望を手にして生きていくことができるようになるのです。
    せっかく神様から新しいいのちをいただいたのですから、肉によって神と交わろうとする生き方をやめ、神に助けを求める信仰によって神様と関係を築いていきましょう。