ホームに戻る 教会の紹介 集会の案内 礼拝メッセージ アクセス English ノアの紹介
メッセージ集TOPへ
2015年月10月18日
罪は病気である
(新約聖書 マルコの福音書 1:16〜33)
神は呼びかける

『ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」すると、すぐに、彼らは網を捨て置いて従った。また少し行かれると、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった。彼らも舟の中で網を繕っていた。すぐに、イエスがお呼びになった。すると彼らは父ゼベダイを雇い人たちといっしょに舟に残して、イエスについて行った。』(新約聖書 マルコの福音書 1:16〜20)

   神と人との関係は、神様が呼びかけ、人がそれに答えるという形で築かれていきます。人は、自分自身で神を信じたと思っているかもしれませんが、神様が呼びかけてくださらなければ、神を信じることは不可能です。神様はいつも私達に呼びかけておられるのですが、人はなかなか耳を傾けず、神に心を向けようとしません。私達が神に心を向けるのは、残念なことに、患難にぶつかってつらい時です。イエス様が呼びかけられたこの場面は、弟子たちが一晩中漁をして何も取れなかった時であるとルカの福音書に記されています。希望を失った時、初めて神の声に気づくことができます。ですから、「闇の中に光は輝く」(ヨハネ1:5)と、神様は言われるのです。

悪霊の追い出しと神の国の関係

『それから、一行はカペナウムにはいった。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂にはいって教えられた。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。すると、すぐにまた、その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。「ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です。」イエスは彼をしかって、「黙れ。この人から出て行け。」と言われた。すると、その汚れた霊はその人をひきつけさせ、大声をあげて、その人から出て行った。』(新約聖書 マルコの福音書 1:21〜26)

   マルコの福音書の冒頭で、イエス・キリストは「神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じさない。」と宣言しておられます。それは、悪が滅ぼされて神が支配する国が到来するという旧約聖書からの約束が、イエス・キリストによって成就したという意味です。そのような宣言の後に、イエス様が最初に行った奇跡が、悪霊の追い出しだったことには意味があります。イエス様は、次のように言われました。

『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。』(新約聖書 ルカの福音書 11:20)

   「神の国はあなたがたに来ている」とは、ギリシャ語では「来た」という、単純な過去形になっています。イエス様は悪霊を追い出すことによって、神の国が来たことを証明なさったのです。
   神の国とは、悪を滅ぼし神が支配する国です。悪を滅ぼすとは、すべてを滅ぼす死を滅ぼすということです。イエス・キリストは悪霊を追い出すことで、私達を苦しめてきた死を滅ぼしていのちの世界に移すために来られたことを人々に伝えているのです。

病のいやしと罪の赦し

『人々はみな驚いて、互いに論じ合って言った。「これはどうだ。権威のある、新しい教えではないか。汚れた霊をさえ戒められる。すると従うのだ。」こうして、イエスの評判は、すぐに、ガリラヤ全地の至る所に広まった。イエスは会堂を出るとすぐに、ヤコブとヨハネを連れて、シモンとアンデレの家にはいられた。ところが、シモンのしゅうとめが熱病で床に着いていたので、人々はさっそく彼女のことをイエスに知らせた。イエスは、彼女に近寄り、その手を取って起こされた。すると熱がひき、彼女は彼らをもてなした。』(新約聖書 マルコの福音書 1:27〜31)

   神の国の到来を示す悪霊の追い出しに続いて、イエス様は病をいやす奇跡をなさいました。イエス様がこの地上に来てくださった目的は罪を赦すためですが、病は罪と同様に死によって生じたものです。ここで、「熱が引き」と訳されているギリシャ語(アピエーミ)は、「いやされる」あるいは「ゆるされる」という意味のある言葉です。つまり、罪が赦されるとは病がいやされるのと同じことだという概念がここに示されているのです。
   神の国と私達が住む世界との違いのひとつは、時間です。私達が住む世界は死に支配されていますが、神の国は永遠です。永遠には始まりも終わりもありませんから、時間というものがありません。今私達は、終わりがある世界で、終わりに向かって時を刻み、時間に拘束されて生きています。時間は私達に結果を要求します。生きている間に満足したい、幸せになりたいと願うことで、時間に追われ、残り時間がどれほどあるのか、早く結果を出させようとします。「○○までに結果を出さねばならない」「今は○○しなければならない」と、結果を求めて要求をつきつけることを、聖書は律法と呼びます。私達はお互いに律法を突きつけ、もし相手が結果を出すことができなければ怒りを感じます。この時、私達は「あなたの隣人を愛しなさい」という神の戒めに違反しているのです。
   死の世界に生きることが律法を生み出し、律法が怒りを生じさせて人を愛せなくさせ、罪を生み出しています。その結果、この世に戦争や殺人や憎しみが存在するのです。聖書は、『律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 4:15)と教え、さらに、『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)と教えます。今の私達にとって死のとげは時間です。時間に追われ、結果を要求される恐怖が、私達に律法を突きつけ、罪を生み出しているのです。その元凶は死です。

『そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:12)

   神が造られた初めの世界に死はありません。死は後から入ってきたものです。死が入ってきたことによって、すべての人は死へのカウントダウンが始まり、その結果、人は弱さを覚えるようになり、病や老いが始まり、心までも病むようになりました。また、死があることで、私達は時間に追われて「○○ねばならない」という律法が生み出され、罪を生み出しました。
   死は、老いと病によって体を死ぬものとし、律法を突きつけて私達の心までも罪の病に陥れました。なぜギリシャ語が、病気が癒されることと罪が赦されることに同じ言葉を使うのかと言えば、病も罪も原因が同じものだからです。罪はもともと人に備わったものではなく、後から住み着いて、私達を苦しめています。つまり、罪は死という病原菌によって発症した病気です。体の病気と全く変わらない病気なのです。

『私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。』(新約聖書 ローマ人への手紙 7:19〜20)

神は私達をさばかない

『だれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。』(新約聖書 ヨハネの福音書 12:47)

   神は悪い者を鞭打ち、さばく方だというイメージを持つ方が多いようですが、それは間違ったイメージです。イエス様は世を救うために来られたのであって、世を裁くために来たのではありません。多くの人は、神は悪い人間を裁き、良い人間を天国に連れて行くために来たのだと勘違いしているのですが、決してそんなことはありません。ギリシャ語の「救い(ソーゾー)」という言葉にも、「癒す」という意味があります。イエス・キリストは私達を癒すための医者として、私達を助けるために来られたのです。この事を正しく認識しないと、私達は神様との関わり方を間違えてしまいます。神がさばくのは、この世の君(悪魔)であり、私達ではありません。聖書は、人はすでにさばかれ、神との関係が断たれて死んだものとなり、滅びるしかないと教えています。滅びるしかない人間に対して、どんなさばきが必要だというのでしょうか。滅ぼすつもりなら放っておけばよいし、そうでなければ私達は救い出されるしかない存在なのです。
   私達が神との関係を回復することを、「罪が赦される」と言います。これには二つの意味があり、一つは、永遠に神との関係を回復することです。罪が赦されることで神との関わりのない死の状態から、命の状態に移され、関係が回復し、その状態は永遠に続きます。ところが、神との関係が回復しても私達の体は死の世界に属しています。そのため、常に律法を突き付けられ、愛せない状況に陥り、罪を犯してしまうのです。「罪の赦し」の二つ目の意味は、あなたがその自分の罪を言い表すならば赦される、すなわち、あなたが悪い行いで苦しむことのないようにあなたを苦しめている律法から解放するというものです。私達を苦しめている罪という病気は、結果を出せと脅迫して人を愛せないようにしています。恐れを締め出すことが癒しにつながるため、恐れが取り除かれることを罪が赦されるとも言います。

イエス様はいやすために来た

『イエスはこれを聞いて、彼らにこう言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』(新約聖書 マルコの福音書 2:17)

   イエス様は、神と人との関係を医者と病人にたとえ、「私は病人を招き、いやすために来た。」と言われました。ところが、多くの人がこの事実を理解できません。体の病気には癒しを祈り求め、病院にも行くのに、心の病気である罪はできる限り隠そうとします。それは、罪には罰があると思っているからです。しかし、罪も病と同じで神の癒しの対象です。神にいやしを求めて罪を差し出せば癒されるのです。
   聖書は、「神は全ての人を罪に閉じ込めた」「義人はいない。神を求める者は一人もいない。」と教えます。私達は皆、神の前から迷い出て死の世界に閉じ込められ、死の恐怖におびえながら生きているのに、神を求めようとしないで、律法を守ることで安心しようとしています。この律法という基準によって生きる限り、どんなに立派なことをしようとも、どんなに悪い人間であろうとも、人は皆同じ病人です。ところが、そのことに気づかずに、人は人を裁きます。それは、自分はお前と違って立派だと主張しているのと同じことなのです。こうして罪は私達を支配し続けているのです。
   しかし、罪は死がもたらした病気であり、イエス様はその罪をいやすために来たと知れば、状況は変わります。つらくなるたび、愛せなくなるたびに、体の病気を癒してほしいと祈るのと同じように、「神様、助けてください。」と祈ればよいのです。ヤコブの手紙には、「あなたがたが病気になったら罪を言い表しなさい。いやされるためだ。」と書いてあります。それは罪と病の根は同じものだからです。私達は皆罪という病気にかかり、死の恐怖の奴隷となっています。聖書はこのことを繰り返し教えているのですが、人はどうしても罪と病気を分けて考え、罪は罰せられるものだという考えから、なかなか抜け出せません。これが、私達が取り除かなければならない不信仰です。

『夕方になった。日が沈むと、人々は病人や悪霊につかれた者をみな、イエスのもとに連れて来た。こうして町中の者が戸口に集まって来た。イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をお直しになり、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである。』(新約聖書 マルコの福音書 1:32〜34)

   イエス様が、「私は医者としていやすために来た。」と言われるのは、「救うために来た。」というのと同じ意味です。つまり、「私は、悪を滅ぼすために来た。神の国が来たのだ。」と人々に知らせているのです。
   興味深いのは、悪霊は、イエスがキリストであり、神の子だと知っているということです。しかし、イエス様は黙れと言われました。それにはいくつか理由があります。イエス様は、私は神であると宣言して信仰を持たせようとするのではなく、あくまで人として生き、父なる神を信じる信仰を持たせようとなさいました。また、イエス様は、ご自分がキリストであることが知れるとパリサイ人や律法学者達に殺されることもわかっておられました。事実、イエス様が十字架につけられたのは、自分を神としたという罪状によります。ですから、この時はまだイエス様の戦況は始まったばかりで神の御業が完了していなかったので身分を隠しておられましたが、次第に御業が完了に近づくとご自分を証しし始められたのです。

人と同じ姿で共に生きる神

『バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。』(新約聖書 マルコの福音書 1:4)

   イエス様は罪を犯していないのに、悔い改めのバプテスマをお受けになりました。それは、罪を犯していないにも関わらず、私達と同じ罪人の姿になり、罪人として生きられたということです。常にイエス様はご自分を低くなさいました。神であることを隠し、人を憐れんで、人と同じ姿となってくださいました。ここに神の愛があります。

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(新約聖書 へブル人への手紙 4:15〜16)

   イエス様は、キリストであることを伏せ、私達と同じ姿になって共に生きてくださったので、私達が何に苦しんでいるかをわかってくださいます。ですから、神の前に出て恵みにあずかろうとすることを心配しなくて良いのです。神は決して、神の立場を使って私達をさばく方ではありません。私達の罪の病気を癒すために、罪人として来て、共に生きた方です。
   私達は境遇の異なる人の話になかなか耳を傾けることをしません。イエス様はそのことをわかって下さり、罪人と同じ姿になってくださったのです。こうして、私達はイエス様を信頼し、信じることができるようになりました。イエス様はここまでして、私達を助けようとしてくださっているのです。イエス様が来られたのは、さばくためではありません。神としてではなく罪人としてこの世で共に生きることで、あなたの苦しみを知り、その思いを私にゆだねなさいと声をかけてくださっているのです。
   神はあなたを救いたいし、いやしたいし、助けたいと願っておられます。神に対してこのような正しいイメージを持つなら、私達は自分の苦しみやつらさ、自分の罪を正直に神に言い表すことができるようになります。神はあなたに、「罪は赦され癒されるから、神の恵みの座に大胆に進み出なさい。」「一人で悩み苦しむのはやめわたしのところに来なさい。」と呼びかけておられます。