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2015年月10月4日
「荒野に追いやられた」
(新約聖書 マルコの福音書 1:1〜14)
『神の子イエス・キリストの福音のはじめ。預言者イザヤの書にこう書いてある。
見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」
そのとおりに、バプテスマのヨハネが荒野に現われて、罪が赦されるための悔い改めのバプテスマを説いた。そこでユダヤ全国の人々とエルサレムの全住民が彼のところへ行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けていた。』(新約聖書 マルコの福音書 1:1〜5)


神の子イエス・キリストの福音のはじめ

   「神の子」という表現は、イエス様と父なる神は一つだということを表しています。イエス様は父なる神が造ったという意味ではありません。三位一体とは、父・子・御霊は同じ位であり、それぞれが同じ思いを共有し、助け合って一つのことをなす神であるという意味です。つまり、「父と子」という表現は上下関係を意味するものではなく、父なる神とイエス・キリストは、同じ思いを抱く同じ神だということです。
   今日、「キリスト」という言葉は、イエス様にしか使わない固有名詞ですが、当時は、救い主を意味する一般名詞で、それが誰なのかはわかっていません。「イエス・キリスト」とは、イエスこそが、待ち望んでいたキリスト(救い主、メシヤ)であるという意味です。ここで、イザヤ書の御言葉が引用されているのは、イエス様こそ旧約聖書で約束されてきた、神の国を実現し私達を悪から救い出してくださる救い主なのだということを明確にする意味があるからです。
   また、福音とは、私達にとっての良き知らせのことです。マルコの福音書は、イエスはキリストであり、神であり、良き知らせをもたらしてくださった方であるという前提から始まっています。

罪が赦されるための悔い改めのバプテスマ

   罪が赦されるとは、一般的には自分が犯した悪さを赦してもらえることだと考えます。自分が犯した罪の罰を受けるのでないか、報いがあるのではないかとおびえて、当時も多くの人が赦しを求め、バプテスマのヨハネのところに来て洗礼を受けました。
   その理解は間違っていませんが、さらにもう少し深い意味があります。というのも、「罪」とは「死」を意味します。「死」とは、神との関係が断たれ、神との結びつきがない状態ですから、罪が赦されるとは、神との関係が回復するという意味があるのです。これが「救い」です。 バプテスマのヨハネは、神を受け入れ、神によって救われることを、罪が赦されると表現しているのです。神との関係が回復した者は、二度と罪に定められることはありません(ローマ8章)。これが「罪の赦し」の霊的な意味です。
   では、そのために必要な「悔い改め」とは何でしょうか。日本語の「悔い改め」には、後悔とか反省という意味がありますが、原語にはそのような意味はありません。本来は「神に助けやあわれみを請い叫び求める、神に立ち返る」という意味です。これが「悔い改め」と訳されたため誤解を生みやすいのですが、聖書は、罪を悔い改めよとは一言も教えていません。ただ神に心を向けさえすれば、罪は赦され、誰でも神との関係が回復するという意味なのです。神は私達を救いたいと願って、御手を差し伸べておられます。助けてほしいとあわれみを請い、この手を握ることが、罪が赦されるための悔い改めであり、信じるということです。
   バプテスマは、「浸す」という意味のギリシャ語です。ただ浸すだけでなく、本来は沈めて溺死させるという意味があります。つまり、あなたは死になさいという意味があるのです。ヨハネのバプテスマには、水に浸した者をヨハネが引き上げるというところに意味があります。そこには、死んだ者を神が引き上げてくださるという霊的な意味があるのです。実は、ヨハネ以前のユダヤ教にもバプテスマはありましたが、それは水に入って自分自身で汚れを洗うというものでした。引き上げてくれる人はいなかったのです。それをヨハネが引き上げることによって、バプテスマに霊的な意味が加えられました。神にあわれみを請い、あなたが死ぬ時、神があなたを引き上げてくださるのだということをヨハネのバプテスマは示しています。
   罪を言い表して悔い改め、赦しを請うて水に沈められることで、バプテスマは「あなたは死に、そして神が今あなたを引き上げ、新しいいのちになった」ことを象徴しています。重要な点は、彼らは神を受け入れたということです。ヨハネの働きである「道を整える」とは、イエス様が来る前に神との関係を回復することです。神との関係を回復すれば、イエス様の言葉を聞くからです。

聖霊のバプテスマ

『ヨハネは、ラクダの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。 彼は宣べ伝えて言った。「私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊のバプテスマをお授けになります。」』(新約聖書 マルコの福音書 1:6〜8)

   イエス・キリストが授ける聖霊のバプテスマとは何でしょうか。ヨハネは水に浸すことによって溺死を表しましたが、イエス様は十字架の死によって、私達の中に助け主である御霊が住まわれるようにしてくださいました。その御霊によって罪をあばき、私達を殺すのです。そして、死んだ者に新しいいのちを与えて、造り変えてくださいます。つまり、御霊によって、私達がこの世に対して死に、神に頼るしかない状態に追い込み、神と共に生きるようにしてくださるということです。

イエス様がバプテスマを受ける

『そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。』(新約聖書 マルコの福音書 1:9〜10)

   イエス様は神ご自身ですから、神との関わりを回復するためならば、バプテスマを受ける必要はありません。重要な点は、イエス様はこの地上で人として生きられたということです。ですから、人として正しいことを行ったのです。
   イエス様は、ご自分が神でありキリストだと公言して、人々を従わせることもできました。しかし、それをなさらず、病人を癒すたびに口止めし、最小限の奇跡を行い、弟子達にもキリストであることを言ってはならないと口止めなさいました。
   このように、イエス様がこの地上で徹底的に己を低くして生きられたのは、私達に人としての希望を示すためです。イエス様は神の姿を捨て、人として私達と同じように生き、人として十字架につけられ、復活なさいました。これは、人は私と同じように復活できるという希望を示すためです。もし人ではなく神として力を見せつけたら、人々はキリストのようにならなければ救われないと思ったことでしょう。そうではなく、己を低くすることで、私達にも希望があると示してくださったのです。

『キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』(新約聖書 ピリピ人への手紙 2:6〜11)


『なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(新約聖書 ルカの福音書 14:11)

   自分を低くするとは、自分は価値がない、取るに足らない人間だと自覚することです。この地上で最も低い立場にあるのは、罪人とりわけ死刑囚です。もし仮に、自分がその立場になったとしたら、あなたにとって何が希望になるでしょうか。それは復活です。もし私達が、自分を低くし、自分は死ぬしかない人間だと知るなら、十字架という希望が見えるようになります。そして、その希望にすがりつくしかないために、その人は救われ、よみがえることができます。これが、「自分を低くする者は高くされる」という意味です。この世でどんなに素晴らしい人でも、死が訪れることは確定しています。死が訪れるのは、罪人の証拠です。罪人だから処刑されるのです。このことを自覚することが、自分を低くするということです。
   死に対する希望は、いのちしかありません。十字架の贖いが見えるようになり、神によって引き上げられる希望が私達に平安をもたらします。イエス様は自分を低くし、罪人として処刑されてよみがえることによって、私達に「あなたも同じようによみがえることができる」と示してくださったのです。ですから、自分が罪人であると知れば知るほど十字架を知ることができ、十字架を知れば知るほど魂が引き上げられ、栄光の中に入ることができるのです。
   反対に、自分を高くする者とは、自分は正しいと主張し、良い行いや学歴や肩書によって、自分の立派さを義と主張する人です。このように自分を高くすることによって見える希望は、暮らし向きが良くなることや称賛を得ることです。これらを希望とする人にとって、十字架のよみがえりは、希望に見えません。すると、十字架にすがりつくことはありませんから、その人のいのちは永遠に滅びます。そういう人は死を待つしかないのです。
   自分は罪人だと素直に認める者にとっては、復活しか希望がありません。その人たちはそれを手にすることができ、神と共に生きられるようになります。しかし、自分を高くする人は、イエス様にすがりつけないのです。
   光は闇の中に輝きます。闇とは、自分が低くなった状態のことです。闇の中に落ちた時、光が見えます。この世の光が輝く中に生き、この世の評価を尊び、自分を立派だと思っている人には、キリストの光が見えず、何も見出すことはできません。こうして、ある者は命を失い、ある者は命を得ます。イエス様はそれを教えるために、自ら低くなられて、罪人としてののしられ、その者が復活することを教えられたのです。その出発点が、ヨハネからの洗礼だったということです。
   私達がイエス・キリストに持つべき希望は、罪人の救いであり、神の愛です。イエス様は、私達がこの世の希望を抱いたまま間違ったあこがれや信仰を持って間違った方向に進むことがないように、身分を隠し自らを低くなさったのです。

荒野に追いやられる

『そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」そしてすぐ、御霊はイエスを荒野に追いやられた。 イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた。野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた。 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。』(新約聖書 マルコの福音書 1:11〜14)

   人として活動なさったイエス様を、神様が荒野に導いたとは、信仰を持った私達に何が起きるかを表しています。荒野とは何もない砂漠です。私達は信仰を持ったらすぐに幸せを感じられるようになるかというと、そうではありません。イエス様は、「私がこの地上に来たのは平和ではなく争いをもたらすためだ」と言われました。それは、人の義を食べて生きている私達を、人の義が届かないところに追いやることで、神の義を食べるように導くためです。
   人の義とは、人から「あなたはOKだ」と思われることです。人から良く思われたり、自分で自分の行いを見てOKを確認したりすることで、人は幸せや平安を確認しています。どんな人間も義を求めていますから、人の中で生きている以上、誰もが人の義を得たいという願望を手放すことができません。人の義を得るキーワードは「行い」です。頑張って働いて富を手にし、評判を上げ、行いで義を得ようとすることを、聖書は律法で生きると言っています。ところが、人の義によって得られる平安は、失敗したらどうしようという不安が伴います。ですから、一時的な平安を得てもすぐに次の不安に襲われます。
   神は、人の義を食事にする生き方をやめさせ、神の義を食べるように導きたいと願っていらっしゃいます。人が義を求めていることを神は知っておられますから、「その義は私が食べさせよう、私があなたをOKとしている」と言われるのです。この神の義は、信じさえすれば、誰でも手に入れることができます。しかし、行いで手に入れることは決してできません。神の義を食べる事で得た平安は、この世が与える平安とはまるで違います。神が与えてくれる平安は、恐れや不安がなく、見える状況がどんなに困難でもゆるぎません。これは、体験すればわかります。
   人は平安を求めているにも関わらず、神が与える義を食べようとしません。そこで神は人の義が届かない状態に私達を追いやり、人の義を食べることができないように追い込むのです。誇れない、評価されない弱点が明らかになり、人と比べて高ぶることができないようになることを、患難や試練などと呼ぶこともあります。これは神が故意に与えるものではありません。しかし、このような状況を神が放置することがあるのは、新たな人の義を求めるのか、神の義を食べるのか、あなたの選択を待っておられるからです。荒野とはそういうところです。そうして、人の義を放棄して神の義を食べる時、真の平安が訪れるのです。
   イエス様は荒野で40日間誘惑に会いました。誘惑の詳しい内容は他の福音書に書いてありますが、要は富の誘惑と人から良く思われたいという誘惑です。しかし、イエス様は人の義を選ばず、神の義をとりました。ここに私達の進むべき道が明らかにされています。神は私達に「患難にぶつかったら、人の義を食べようとしないで神の義を食べなさい。あなたが欲しているものは、安心と平安なのだから、私の義を求めなさい。神の国と神の義を求めなさい。」と語っておられます。
   この「40日」という数字は、イスラエルが紅海を渡ってエジプトを脱出した出来事をなぞらえています。この出来事は水のバプテスマを象徴するものであり、イスラエルの民は御霊の水を飲んで救われたと記されています(Tコリント10)。彼らは、救われた後40年間荒野で、神の言葉を食べる信仰の訓練を受けました。信仰とは神の言葉すなわち神の義を食べることであり、不信仰とは人の義を食べることです。神は、この不信仰を取り除くための訓練をなさいましたが、ほとんどの民は人の義を食べ続けようとしてつぶやき続けました。なぜこんな状態になったのか、なぜ神は私を助けてくれないのか……このような不満は、神の助けとは人の義を食べさせることだと勘違いしているから生まれます。結局彼らは最後まで神の義を食べることができず、カナンの地に入れませんでした。神は、神の義を食べるようにしてくれたのに、彼らは平安を得られなかったということです。

『神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。』(新約聖書 へブル人への手紙 3:17〜18)

   彼らは神の義を食べるように導かれましたが、不信仰ゆえに、その義を食べることが出来ずにつぶやきました。安息に入れなかったとは、平安を手に入れられなかったということです。救われた者は皆神の国に行くことはできますが、神の義を食べなければ、平安を得ることができません。神様は、私達が神の義を食べるようになって真の平安の義を結ばせたいと願っておられるのです。

『すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』(新約聖書 へブル人への手紙 12:11)

   神は私達に真の平安を与えたいと願って、荒野に連れて行き、人の義を食べないように追い込みます。御霊がイエス様を荒野に連れて行き40日間訓練したという出来事には、私達が歩むべき道が示されています。神様は、私達を決して見捨てず助けてくださいます。ですから、どうしたら本当の平安が手に入るのか、とにかく祈り続けましょう。見える状況が改善されたら、本当の平安を得られるわけではありません。あなたが神の義を食べたら平安が手に入ります。神の義を食べ、神があなたを愛しているということを知りなさい。私達の不安はすべて愛されていないのではないかという不安から発しています。神に愛されていることを知れば、病や人間関係や仕事の上でどのような状況にあろうとも、平安でいることができます。これが神の与える安息です。神の言葉を食べて真の安息を手にすることを神は願っておられます。
   人間関係が上手くいかない原因は、安息を自らの行いで手にしようとしているからです。行いで安息を手に入れる一番簡単な方法は、自分は正しいと思うことです。人を裁くと自分が偉くなった気がして、自分はOKだと感じることができます。しかし、そうして人を裁けば裁くほど、まわりには嫌な人ばかりが存在することになり、不快な事ばかりです。もしあなたが、自分を低くして真にイエス様の十字架を見上げ神の義を食べるなら、誰を見ても自分も同じ罪人であることに気づき、皆が愛する兄弟姉妹に見えるようになります。これが、マルコの福音書が冒頭で私達に教えている福音です。