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2015年月9月27日
「信仰の交わり」
(新約聖書 ピレモンへの手紙)
『キリスト・イエスの囚人であるパウロ、および兄弟テモテから、私たちの愛する同労者ピレモンへ。また、姉妹アピヤ、私たちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。私は、祈りのうちにあなたのことを覚え、いつも私の神に感謝しています。それは、主イエスに対してあなたが抱いている信仰と、すべての聖徒に対するあなたの愛とについて聞いているからです。』(新約聖書 ピレモンへの手紙 1〜5)

   「ピレモンの手紙」は、パウロが弟子のピレモンに宛てた手紙です。パウロの手紙では、よく「恵みと平安」という表現が使われます。「恵み」とは、私たちの罪が取り除かれることです。罪とは、心が神に向かず、見えるもので安心しようとすることで、罪が取り除かれることによって、神との関わりが深くなり、平安が訪れるようになります。また、「平安」の原語は「平和」とも訳されますから、「平安があるように」とは、神と私達の間に平和が築かれますようにという意味もあります。
   この手紙で、まずパウロが神に感謝していることは、聖徒たちが抱いている信仰と愛についてです。愛とは、行いではなく、神を信頼する思いのことです。そして、神を信頼する働きをするものが信仰です。つまり、信仰と愛の実体は同じです。信仰が育つと神を信頼できるようになり、希望が持てます。聖書が永遠に残るものとして教えている「信仰・希望・愛」は一つのものを表し、その出発点が信仰なのです。

信仰による交わり

『私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ないをよく知ることによって、あなたの信仰の交わりが生きて働くものとなりますように。』(新約聖書 ピレモンへの手紙 6)

   信仰とは、「神を知り、さらに神を知るようになること」と定義できます。それは、「神を知り、神との関係を深め、信頼を増し加えること」とも言い換えられます。喩えるなら、信仰とは、神の義を食べるためのお箸のようなものです。神の義とは、「神はあなたの行いに関係なく、あなたを愛している」ということです。信仰という箸がなければ、この神の義を食べることはできません。
   信仰は、神が私達に与えてくださる賜物です。人は、自分の力で信念のような信仰を持つことはできますが、そのような信仰は、神を知り、神と深い交わりをするには、何の役にも立ちません。イエス・キリストを信じて救われた人は皆、神から信仰の賜物を与えられています。ですから、信じた人々は、信仰を通して交わりをするように、教えられているのです。
   人間はもともと神のいのちで造られ、神と共に生きていました。しかし、悪魔によって罪を犯し神との関係が断ち切られたことで、人は自分の中に「自分はダメな存在だ(I am not OK.)(アイアムノットオーケー)」というイメージを持つようになったのです。しかし、本来良きものとして造られた私たちはそのイメージを受け入れることができず、自分は正しい、良いものだと確認しようとするようになりました。これを、「義を求める」と言います。「義」とは、「I am OK. (アイアムオーケー)(私は良いものだ)」という価値のことです。アダムは罪を犯した時、「私は悪くない。悪いのは妻だ。」と言い、エバも「私は悪くない。悪いのは蛇だ。」と言いました。これが、今日の私達の生き方の基本形です。私たちは、このアダムとエバのように、「自分は正しい」すなわち、自分は義だと主張して生きています。
   「義」には二通りあります。一つは人が与える義です。頑張って人から認められ、「あなたは素晴らしい」と言ってもらうことです。そのために、私達は相手の期待に応えようと努力し、行いによって自分の正しさや価値ある人間だということをアピールします。こうして、人からほめてもらい、これを心の食事とするパターンを繰り返しています。人から義を得るためには、どうしても行いが必要です。このような生き方を、聖書は律法に生きると呼びます。律法とは行いの規定のことです。
   もう一つの義は、神が与える義です。あなたがどんな人であっても、行いとは関係なく、神はあなたを「すごい」「愛している」と言い、あなたのためなら命をも惜しまないと言われます。この義は、信仰でしか食べることができません。
   信仰の役割は、神の義を食べさせてくれるということです。神は私達に、人の義を食べ合う交わりではなく、互いに神の義を食べる信仰の交わりをするように教えています。
   教会で起こる問題の中で多いのは、つまずきです。教会の人、とりわけ牧師先生の言葉や態度につまずいた、傷ついたという相談は少なくありません。つまずきという問題は、聖書の中にも出てきます。パリサイ人にとっては、イエス様がつまずきの石となりました。それは、イエス様が彼らに人の義を与えずに、神の義を食べさせようとしたからです。イエス様は、良い行いを評価するのではなく、むしろ、この世の基準で取るに足らない人を愛したため、彼らの中には、「なんであんな奴が愛されるんだ?赦されるんだ?」という思いがわきました。イエス様が罪人を愛し、義とすることは、行いによって義を求めている人にはつまずき以外の何物でもありません。こうして彼らはイエス様に反発し、迫害し、殺したのです。
   「つまずく」「傷つく」とは、人からの義を求めて行いを頑張ったのに、求めていた義が手に入らなかったということです。ですから、つまずき、傷つきたくなければ、人の義を求めなければよいのです。人の義を食べても、人に心が向くだけで、神に向くことはありません。信仰を語り、御言葉を語ることは、人の義を求める人には、つまずきになります。しかし、神に心を向け、神の義を食べない限り、いつまでも平安を手にすることはできません。ですから、信仰による交わりが大切だと教えられているのです。
   人をつらくさせている悩みの原因は、「自分は正しい」という思いです。自分こそが「OK」だという立場を取れば、自ずと周りの人は間違っている人になり、嫌な人になってしまいます。言うなれば周りはみんな敵。だからつらくなるのです。ところが、ほとんどの人がこのからくりに気づかず、必死に自分は正しいと自分の義を主張し、人を愛せなくなり、憎み、傷つき、愛がないと相手を責め、人を軽蔑して、繰り返しつらさを味わっています。聖書は、行いによって正しい人など一人もいない、神はあなたの行いに関係なくあなたを愛していると教えます。この神の義を知ることなく一生を終えるとしたら、何とつらいことでしょうか。

『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:10〜12)

   善を行う人なら、世の中には大勢います。しかし、自分を義とするための善は、神の目には善ではありません。それはただ、「I am OK. (アイアムオーケー)」を目指しているだけで、神に心を向けていないからです。聖書は、愛がなければ、あなたの命をささげても、全財産をささげても、それは虚しいことだと教えます。善とは、神と一つ思いになり、神と共に生きることです。しかし、それは人には不可能です。
   どんなに神に近づき、良い行いが出来るようになっても、私達の中には肉の思いがあり、人の義を求める自分がいます。これが私達の現実であり、人間の限界です。人は罪の律法にも仕え、神の律法にも仕えています。行いに熱心なパリサイ人であったパウロが自分自身を罪人の頭と呼んだように、世の中的には立派なクリスチャンでも、神の前には罪人なのです。人は、何をしようと善ではないし、善人ではありえません。悪いことをする人たちは、彼らなりに人から注目を集めることで「I am OK.」を求めており、良いことをする人は、人からほめてもらいたい、良く思われたいという義を求めています。こうして、自分は正しい、悪くないという主張を繰り返していますが、その結果、怒りや敵意が生じて、自分自身を苦しめています。世の中には良い人と悪い人がいるように見えますが、どのみち、みんな義を求めているに過ぎないのです。

罪人同士の交わり

   信仰による交わりとは、人は互いに罪人であるということを理解する交わりです。私達は皆、神のあわれみにすがるしかない罪人です。そこに上下も優劣もありません。ですから、クリスチャンは互いを兄弟姉妹と呼び合います。互いに罪人であることを意識して、次のことに注意を払いましょう。
   第一に、人をさばいてはいけません。イエス様は、くりかえし「さばいてはならない」と教えています。人をさばくとは、自分の義を主張することです。つまり、「さばいてはならない」とは、「あなたは自分を義としてはならない」と教えているのです。
   あなたを義とするのは、あなたの行いではなく、神様ご自身です。あなたが求めている義は、神様が食べさせてくださる義です。神様があなたを認め、愛しておられるから、人の義を食べるのをやめ、神の義を食べなさいと神は命じておられます。
   第二に、人を責めてはいけません。互いに罪人である私達には、相手を責める資格も、偉そうにする資格もありません。お互いに神にあわれみを求めましょう。このような交わりを可能とするのが信仰です。世の交わりは人の義を求め「○○するからダメ、○○してがんばれ」と、相手を責めます。しかし、神の義を求めることで、自分が愛されていることを知ると、相手を責めて自分を正しくする必要がなくなります。むしろ、弱さに出会うとき、それでもあなたは愛されている、と共に感謝することができます。
   第三に、人の言葉に対してではなく、神の言葉に希望を持ちましょう。相手の言葉に一喜一憂するのではなく、聖書の言葉を信じましょう。これが信仰の交わりです。
   人は皆、「自分は正しい」という義を求めています。それをこの世の行いによって手にしようとすると、自分を正しいとするために周りの人々は間違っていると責めることになり、まわりの人々が敵になってしまいます。しかし、自分は義人ではない、お互いに罪人であることが意識できるようになると、互いに神に赦しを請い、助けを求める交わりになり、世界中すべての人が兄弟になります。

役に立たなかった者が役に立つようになる

『獄中で生んだわが子オネシモのことを、あなたにお願いしたいのです。
彼は、前にはあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにとっても私にとっても、役に立つ者となっています。』(新約聖書 ピレモンへの手紙 10〜11)


   パウロは、獄中で出会ったオネシモについて、「彼は役に立つ者に変わった」と証ししています。私達には、変わることができるという希望があります。
   役に立つ者とは、行いが変わったという意味ではありません。罪人が神を愛せるようになったということです。自らの欲に生き、義を求めるという罪人でありながら、神との交わりができるようになり、神を愛するように変えられていくのです。
   人を変えるのは、あなたの行いに関係なくあなたを愛する神の義です。この神の義を信仰で食べるとき、心に平安を得ます。人の義で平安を得ようとすると、自分自身のつらさを増し加え、人を愛せなくなります。わたしたちは皆罪人で、神の義で生きるしかできません。

自発的な行い

『あなたの同意なしには何一つすまいと思いました。それは、あなたがしてくれる親切は強制されてではなく、自発的でなければいけないからです。』(新約聖書 ピレモンへの手紙 14)

   神は私達の行いは強制されるものではなく、自発的であってほしいと願っておられます。
   人間の行動の動機は、大きく分けて3つあります。
   一つは、人の欲望です。見返りや対価を得られるから行動します。お金をくれるから働く、ほめてくれるから手伝う、これらが人の義を求めるということです。
   二つ目は「○○しないと××するよ」という脅しです。親は子どもに、上司は部下に、脅していうことを聞かせようとします。恐れから頑張る、これも人間の行動の動機の一つです。
   三つ目の動機は、愛です。人は、「神の義」を得、愛されていると知ると自発的に何かしたくなるものです。罪が赦された感謝によって、何かしたいという願いが生まれます。神が与えてくださる動機は、これです。
   神が与えてくださる「愛」という動機から何かをしたのなら、一生懸命やったのに誰もほめてくれない、誰も認めてくれないというつぶやきは生まれません。もしそういうつぶやきを自分の中に見つけたなら、動機が愛ではなかったのだと素直に認め、心を神に向け直し、「神の義」を求めることです。そうすることで、少しずつ動機も変えられ、自発的な行いへと導かれていきます。人は行いを何とか変えようとしますが、大切なのは、まず「神の義」を手にすることです。

『彼がしばらくの間あなたから離されたのは、たぶん、あなたが彼を永久に取り戻すためであったのでしょう。』(新約聖書 ピレモンへの手紙 15)

   オネシモは、投獄されたことによって、永遠のいのちを得る者となりました。人は患難に出遭うと、初めはその意味が分からず苦しみます。しかし、神はそのつらさを通して「神の義」を与えてくださいます。
   闇がなければ光は見えません。絶望の中に光は輝きます。人は苦しみに出遭って、神の義を知り、その中に意味を見出すことができるのです。
   つまり、私達はつらさを通してでなければ、神の義を手にすることができないのです。神にどれだけ愛されているかを知ることができるのは、絶望の時だけです。私達は、絶望によってまことの平安を手にしていくのです。