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2015年月9月6日
神の意志
(新約聖書 テトスの手紙3章)
『あなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。また、だれをもそしらず、争わず、柔和で、すべての人に優しい態度を示す者とならせなさい。』(新約聖書 テトスの手紙 3:1〜2)

   聖書は、目に見える兄弟を愛せない者は目に見えない神を愛せないと教えます。ですから、目に見える権威に従えない者は、目に見えない権威に従うこともできません。権威に従うのは、私達が自分勝手な考えで生きることをやめ、神のことばで生きる者となるためです。また、私達が良いわざを行うのは、私達自身が人から良く思われるためではなく、神の福音を伝えるためです。この世界の人々は、私達を通してキリスト教を判断します。ですから、神の言葉がそしられることのないように(テトス2:5)、正しい生き方が教えられているのです。

神の意志と人の意志

『私たちも以前は、愚かな者であり、不従順で、迷った者であり、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活し、憎まれ者であり、互いに憎み合う者でした。
   しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。』(新約聖書 テトスの手紙 3:3〜5)


   私達は、神の意志によって救われました。神の意志と私達の意志との決定的な違いは、神の意志は何人にも拘束されないということです。神は、罪人の私達を、姿や行いと関係なく、ご自分の意志でお救いになります。
   人間の意志は、人の行いに左右されます。立派な人だから○○しようとか、おろかな人だから○○しようなど、相手に合わせて自分の意志を変えます。たとえば、子どもに物をねだられた親が、子どもの行いや熱意を判断して与えるかどうかを決めるのは、親の意志が子どもの行いに左右されているということです。子どももそのことをよく理解し、親に気に入ってもらえるようにがんばったり、わめき散らしたりすることによって、親の意志をコントロールしようとします。人間はこのように相手の意志をコントロールする生き方を身につけ、自分の思いではなく相手の上辺に左右されているのです。
   しかし、神の意志は、何人にも左右されません。聖書の中に次のような話があります。
   「ある青年が、救われるために何をするべきかを尋ねに、イエス様の元に来た。イエス様が、神の律法を守っているかどうか尋ねると、青年は、それらはすべて守っていると答え、他に何か自分に足りない点はあるかと問うた。そこでイエス様が、持ち物を売り払って貧しい人に施してから私についてきなさいと言われると、彼は悲しんで立ち去った。」
   この話は、行いで神の意志を動かすことはできないことを教えています。青年は、良い行いをすれば、神は自分を救ってくれると考えました。しかしイエス様は、私の意志はあなたの行いに左右されるものではないと拒否なさったのです。
   救いには、神の意志が貫かれます。神にとっては、皆同じ兄弟姉妹であり、皆同じ罪人です。この世でどんなに立派だと評価される人でも、悪人でも、神が誰かを特別に愛するなどということはありません。すべての人を愛し、分け隔てなく救おうと願って、手を差し伸べておられます。ですから、誰でも神を信じるならば救われるのです。これが神の意志です。
   ○○だから救われないとか、○○だから救われたなどと考えるのは人の意志であり、神の意志とはかけ離れたものです。神の意志は人に左右されません。このように、神がうわべで人を見ないのですから、私達も、うわべで人を裁くようなことをしてはいけません。うわべで人を判断し、人からどう思われるかを気にするために、自分はダメだ、あの人は立派だと、勝手な判断を下し、つらくなってしまうのです。
   さて、神の意志が人の行いに左右されないならば、なぜ聖書は「求めなさい。そうすれば与えられる。」と教えているのでしょうか。頑張って祈るから神は祈りをきいてくださるのではないかとか、断食して祈ればきかれるのではないか、と考えている方もおられると思いますが、聖書は「神があなたがたに願いを起こさせ、志を立てさせる。」「願っても聞かれないのは自分の快楽のために求めているからである。」とも教えています。つまり、神が願いを起こした祈りはきかれますが、神の意志と関係のない自分勝手な祈りはきかれないということになります。すべてに神の意志が働いており、神の意志しか残らないということです。

神の選び

   人間は、神の舞台です。神という監督が、私達に働きかけ、ご自分の意志を貫くことが、神と人との関わりです。それが、キリストのからだの一部であるということです。ところが、そのことを知らない人間は、神は自分の考えや努力に応えて祈りをきいてくれるものだと考え、神を自分の下に置こうとするのです。それはちょうど子どもが、親に言うことを聞かせようとして何かをがんばることで、親を自分の下に置こうとするのと同じです。ここに私達の誤りがあります。
   人の行いにはまったく左右されない神の意志のことを、「神の選び」と言います。『その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるように…』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:11)とあるように、人が生まれる前から神の選びの計画があります。これは、救われる人と救われない人があらかじめ定められているということではなく、救いには神の意志が貫かれるということです。神の呼びかけに応答する者すべてを救うという神の意志が、その人が生まれる前から存在しています。それは、善人か悪人かその人の行いには左右されません。『事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:16)とある通りです。

『神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。……高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』(新約聖書 ローマ人への手紙 8:33〜35、39)

   神の意志が貫かれるとは、人は神の意志の前に降伏するしかないということです。イエス様の弟子の中には、取税人というやくざのような仕事をしている人や、売春婦の女性がいました。今の時代でも、どうしてあんな人が救われるのかと思う人達もいるでしょう。しかし、これが何人にも左右されない神の意志なのです。実はここに素晴らしい福音があるのです。
   というのは、多くの人が、救われた後、自分の行いが全く変わっていないことに気づき、こんな自分はクリスチャンと言えるのか、本当に救われたと言えるのかと不安になります。しかし、これは神の意志に逆らうことです。つまり、私はこんなに罪深い人間だから救われる価値がありません、どうか私を見捨ててくださいと、神の愛から自分を引き離そうとする思いなのです。
   神は、神が救った者を誰も引き離すことはできないと言われます。これが、何にも左右されない神の意志です。この意志が貫かれることにこそ希望があるのです。もし、自分の行いに救いが左右されるなら、希望はありません。しかし、神は行いに関係なく人をお救いになります。一度救われた人は、誰も滅びることはなく、その人は永遠に生きるのです。
   罪深い人間であるにもかかわらず、行いによらず救ってくださり、一度救われたら誰も引き離すことが出来ない――これが神の意志です。神の意志は誰にも変えることはできず、人はただ神に降伏するしかありません。自分の考えで自分を見ると何の希望も持てませんが、神はあなたの罪を完全に消し去り、永遠に生きる者とし、キリスト似た姿に変えると言われます。神の意志は左右することが出来ませんから、神がそうすると言われたらそうなるのです。現実がどうあろうと関係ありません。もし、神の意志が人の意志のように常に左右されるものであるなら、悪いことをしたらおびえるしかなく、永遠に平安を手に入れることはできません。 患難と神の愛

『神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。』(新約聖書 テトスの手紙 3:6〜8)

   キリストの恵みによって義とされるとは、神の意志によって救われたということです。この時、聖霊様が私達の内に住まわれるようになり、私達は永遠のいのちの相続人となりました。天国に行く権利と、神と交わる権利を相続したのです。ただし、この段階ではまだ神と交わる権利を取り戻しただけで、親しい信頼関係を手に入れたわけではありません。交わりを深めることによって、神との交わりで平安を得ることが出来るようになるのです。
   神は、神との平安を築く者として私達と接せられます。もし、神以外のもので平安を得ようとしていると、それが神からの平安の邪魔をします。神以外の心のよりどころ、それが罪です。神との関係を築く前の私達は、お金や健康や人との関わりといった見えるものを心のよりどころとし、平安を手にしようとしてきました。自分が何を心のよりどころにしているかは、何を失った時につらいと感じるかでわかります。人から良く思われないとつらさを感じたり、テストで思うような点数をとれないとつらさを感じたりするのは、そこから平安を得ているということです。しかし神は、これからは、永遠のいのちをあなたの平安の根拠とするように命じておられます。永遠のいのちとは、イエス・キリストのことです。見えるものに平安の根拠を置いていると、神との関係を築くことができません。神の恵みを受けとるためには、見えるものから手を放さなければなりません。どうやったら手放せるのでしょうか。

『陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。それも、神が栄光のためにあらかじめ用意しておられたあわれみの器に対して、その豊かな栄光を知らせてくださるためになのです。神は、このあわれみの器として、私たちを、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中からも召してくださったのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:21〜24)

   人は、あわれみの器であると同時に怒りの器です。神のいのちで造られた人間はあわれみの器です。このあわれみの器が、神の怒りを受けるべき罪とつながってしまったことによって、罪人となりました。罪とは、健康や富や評判というこの世の見えるものにしがみついて平安を得ようとする生き方です。神は、神のあわれみの器が生きるように、罪を滅ぼそうとなさいます。これが神の意志であり、神の恵みです。あなたが見えるものにしがみついている手を放し、しっかりと神の御手を握ることが出来るようにと、あなたがしがみついている健康や富や評判を虚しいものとするのです。いくら見えるものにしがみついたとしても、あなたの体が滅びると同時に罪は滅び、あわれみの器だけが残ることになるのですが、このあわれみに早く気づいて、神の手を握るなら、それだけ早く平安を得ることが出来ます。
   しかし、その先に神のすばらしい喜び、平安があるとはいえ、神の平安を得る過程は、人にとっては患難であり苦痛以外の何物でもありません。滅びの器に対する忍耐とは、このような患難を神は静観なさるという意味です。人が握りしめているこの世の様々な喜びや平安は、本当の平安ではありません。そのことに気づかず、必死になって見えるものを与えてくださいと求めている人間に対して、神は豊かな寛容を持って見守っておられるのです。神が患難を静観なさるのは、私達に握りしめているものを手放させたいからです。病気も、仕事の失敗も、人からの非難も、評判を失うのも、握りしめていたものが役に立たなくなることで、真の平安、本当の希望に気づくチャンスとなります。神はそれを忍耐して静観し、私達が気づくのを待っておられます。見えるものを握り締めても平安が得られなくなり、神に助けを求める時、神はその手をしっかりつかみ、あなたを引き上げてくださるのです。
   旧約聖書に登場するイサクの子ヤコブは、大変頭のよい人間でした。兄をだまして長子の権利を奪い、兄の恨みを買って逃げ出しますが、そこで彼は富を築き、恵まれた家庭を手に入れます。ところが、そこでもおじの妬みを買って命を狙われ、兄のいる故郷に帰るしかなくなってしまいます。砂漠では他に逃げるところはないからです。この時ヤコブは、どんな富も自分に平安を与えてくれないことに気づき、神にしがみつき、神と格闘します。こうして彼は、神から「イスラエル」という新しい名をいただき、真の平安を得て故郷に帰り、12部族の父となるのです。
   今私達が心の安らぎだと思っているものは、本当の安らぎではないことを教えるために、神は私達を砕こうとなさいます。神はヤコブが患難に遭った際、静観し、助けませんでした。これが私達に対する神の恵みです。しかし、私達が神に助けを求めた時、神はその手をしっかりとつかみ、祝福してくださいます。患難が私達を砕き、真の希望に導くのですのです。

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 5:3〜5)

   患難によって神に心が向くことで、神の愛を確認し、希望を持つことが出来るようになります。神の愛とは、あなたを滅ぼすことです。間違ったものを求めて幸せだと思っている生き方を滅ぼし、それを取り除くことが神の愛です。そこには失望に終わることのない真の希望が待っています。それが、キリストの相続人とされる恵みであり、滅びの器を滅ぼし、あわれみの器として生きるようにするということです。ですから、患難に出会ったら、ただ神に助けを求めればいいのですが、なぜか人は悔い改めを拒否してしまうのです。聖書は、『それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。』(新約聖書 ローマ人への手紙 2:4)と語り、私達を悔い改めに進むように促します。
   悔い改めとは、神に助けを求めることです。神は、患難によって私達の心を神に向けさせ、神につながる平安に気づかせようとしてくださっているのです。見えるものの平安は一時的で必ず滅びるものですから、一生懸命になって神に心を向け、神の平安を拒まないようにしなければなりません。この真の神の平安を手にすることを、十字架に死ぬというのです。

『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:4〜6)


   古い人を十字架につけるとは、見えるものに平安を求めて苦しむ生き方からあなたを解放するということです。永遠のいのちを得て、神との関係を回復したのだから、この世の見えるものを求める生き方を十字架につけ、神の手をしっかり握らせたいと、神は切に願っておられます。私達は、永遠のいのちの望みによる相続人ですから、見えるもので平安を手にする必要はもうありません。神に平安があり、何人もその平安を奪うことはできず、神の意志は絶対に変えることができません。ここに真の希望、平安があるのです。