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2015年月8月30日
聖められるとは
(新約聖書 テトスの手紙2章)
何をして生きるべきか

『しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。』(新約聖書 テトスの手紙 2:1)

   聖書に書かれている健全な教えには、この世の希望を否定し、この世で見捨てられたものに希望を見出すというパターンがあります。イエス・キリストは、最初に語られたメッセージで、心の貧しい者は幸いであり、富んでいる者は災いだと言われました。つまり、世の中で人々が失望している時に同調するのではなく希望を語り、この世で自慢されることに対しては希望がないという真実を語ることが、健全な教えにふさわしいことなのです。

『老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。』(新約聖書 テトスの手紙 2:2)

   「信仰と愛と忍耐」は、心を神に向けて生きる姿勢です。老人は、これまでの人生から、世の中には希望がないことをすでに悟っただろうから、神の言葉に希望を抱いて生きるようにということです。

『同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。』(新約聖書 テトスの手紙 2:3〜5)

   年をとった婦人たちに対して、これらのことを教える目的は、若い婦人たちにアドバイスをするためです。それは、家庭が社会の基本であり、家庭の要は婦人だからです。
   神を愛するとは、神と人格的な交わりをすることであり、そのためには家庭できちんとした交わりを学ぶことが大切です。家庭という交わりの土台があってこそ、社会との関わり、神との関わりへと発展します。妻であり母である婦人が、夫に仕え、子どもを愛することが、家庭の土台を築く要なのです。
   そこで、婦人に特に守っていただきたいことは、子どもの前で夫を責めたり叱ったりしてはならないということです。妻が夫を責めることによって、子どもは権威に反抗してもよいのだということを学びます。権威への反抗は、本来の人間に備わった要素ではなく、妻が夫に反抗する姿を見ることによって、子どもが反抗する者に育っていくのです。同様に、夫も妻を子どもの前で責めてはいけません。つまり、子どもの前で夫婦喧嘩をしないことです。夫は常に妻をかばわなければなりません。妻と夫が助け合うことが、そのまま子どもへの教育になります。家庭は人間関係の基本であり、神との交わりの基本となるところですから、相手を裁かないで補い合うことを実践しましょう。

『同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。』(新約聖書 テトスの手紙 2:6)

   思慮深くあれとは、終わりを考えて生きることです。人生には必ず終わりが来ます。若いときは、何でもできると思って目的の定まらない生き方をしがちです。しかし、年を取って終わりが見えてくると、思慮深く生きるようになります。人生を無駄に過ごさないために、あなたが目指していることの先には何があるのかを考えて生きましょう。
   未来を考えると、今この世で抱いている望みは望みではなく、私たちが持つべき望みは永遠のいのちしかないことに気づきます。神と共に生きることをせずに、何を誇って生きることができるのでしょうか。この世のものは、すべて消え去ります。永遠に残るもののために生きること、それが思慮深い生き方です。聖書は、いつまでも残るものは信仰と希望と愛だと教えます。一人一人が何を選択して生きるかは自由ですが、その中で、愛を育て、神を信頼する心を育てることが重要です。それが天国に持っていくことの出来る唯一の財産です。後悔することのないように、思慮深い生き方をしましょう。

『また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。
   奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めなさい。それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。
   というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。』(新約聖書 テトスの手紙 2:7〜13)


   「模範となる良い行い」をする目的を理解することが肝心です。なぜなら、一般に私たちが良い行いをするのは、人に認めてもらい、人からよく思われるためです。しかし、神が良い行いをするように命じているのは、福音を語るためです。あなたの行いを見て、人々が、あなたの言葉に耳を傾けたいと思うようになれば幸いです。人に気に入ってもらおうとして尽くすのではなく、常に福音を語ることを目的として、非難されない生活を目指しましょう。

『キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。あなたは、これらのことを十分な権威をもって話し、勧め、また、責めなさい。だれにも軽んじられてはいけません。』(新約聖書 テトスの手紙 2:14〜15)

   不法とは罪のことで、罪から贖い出すとは、死から救い出し、永遠のいのちを与えるということです。また、良いわざとは神との関わりのことで、良いわざに熱心な民とは、神との関係が回復した者という意味です。永遠のいのちを得、神との関係を回復した者に対して、神が次になさることは、その人をきよめることです。神は、この福音を人々に伝えてほしいと願っておられるのです。
   神が人をきよめるとは、罪が取り除かれることですが、具体的にはどのようなことかを正しく理解しましょう。人は罪というと悪い行いであると考え、悪い行いをしなくなることがきよめられることだと理解しがちなのですが、そうではありません。罪とは何かという理解が非常に重要です。
   聖書は、罪とは律法に反することであり、神に逆らうことであると教えています。つまり、罪とは、神と異なる思いのことです。これが人を悪い行いに至らせる原因です。行いは、思いの結果に過ぎません。
   つまり、神が人をきよくするとは、行いを良くすることではなく、あなたの思いを変えることです。良い行いは、神の助けを受けずとも、頑張ることができます。しかし、思いを変えることは神にしかできないことです。
   神と異なる思いの中でも、最も神の考えに逆らう究極の思いは、「自分はダメだ。(I am not OK)」という思いです。すべての悪はこの思いが発展したものであり、この思いこそすべての犯罪行為の源です。ですから、罪からきよめられるとは、あなたが、「自分は良いものだ」という思いに変わることです。

なぜ人は神と異なる思いを持つのか

『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。』(旧約聖書 創世記 1:26〜27)

   神は、神に似た者、いうなれば神のコピーとして、人間を造られました。ご自身を「われわれ」と呼ばれていることからもわかるように、神は三位一体です。三位の神が、一つ思いを共有し、お互いに絶対的な信頼関係で一つに結ばれています。人も同じように、神と一つとなり、信頼し合って生きる者として造られたのです。『そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。』(旧約聖書 創世記 1:31)とある通り、人の完成を見た神は大変満足なさいました。
   神が人間を「非常に良い」と言われたのは、どのような点なのでしょうか。それは、人がどのように造られたかを見るとわかります。

『神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』(旧約聖書 創世記 2:7)

   つまり、人は神のいのちを分けられて造られ、神との関わりの中で生きるものとなったということです。義であり正しい方である神は、どの一部分をとっても義です。すなわち、神がOKである方ならば、神の一部である私たちも、OKなのです。ですから、私たちは神の子と呼ばれているのです。もともとの私たちの姿は、神の子であり、神のいのちを持ち、神と同じ思いを共有して、神との関わりの中で生きる者として造られた良きものなのです。
   ところがそこに悪魔がやってきて、神と異なる思いを吹き込み、初めの人間であるアダムとエバは、その言葉を信じてしまいました。その瞬間、神と同じ思いが共有できなくなり、神との関係が維持できなくなってしまったのです。この結果、人間に罪と死が入り込みました。

『そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。』(旧約聖書 創世記 3:4〜7)


   このように、神と異なる思いを信じたことが罪であり、死とは神との関係を失うことです。この死は人に恐怖をもたらしました。神とのつながりの中で生きるように造られたいのちは、そのつながりを失った瞬間、非常な恐怖に襲われたのです。人間は、神なしでは生きられない弱さを持っています。この弱さがあるがゆえに人は神と共に生きるのです。ですから、人の弱さは宝です。ところが、神との関係を失い、弱さは行き場を失ってしまいました。神のいのちにつながっていた時は永遠に生きられる者だったのに、つながりを失った今は永遠に生きることもできなくなりました。これが「I am not OK(私はダメなものだ)」という思いを生み出しました。
   人間の体は、病原菌が入ったら、それを追い出そうとする機能があります。そのため、死が入り込んだ私たちの体は、「お前はダメだ、希望が無い」という罪の病原菌を排除し、自分はOKだといういのちを取り戻そうと働きます。しかし、それをどうやって神なしで取り戻せばよいのでしょうか。いのちである神との関わりはすでに断たれています。
   そこで、まず手を出したのが、いちじくの葉です。「I am not OK(私はダメなものだ)」を隠そうとしたのです。こうして、見えるものを手にすることで、自分を立派に見せ、誇る生き方が生まれました。この生き方は、ものに頼り、ものを欲するために、悪い行いを引き寄せます。
   さらに、人は「I am not OK(私はダメなものだ)」を隠そうとして、「私は悪くない」という主張を始めます。

『すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」 そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』(旧約聖書 創世記 3:11〜13)

   アダムとエバは、自分は悪くないと主張し、人から良く思われることで、「I am OK(私は良いものだ)」を手に入れようとしました。これが二つ目のパターンです。
   目に見えるもので自分を隠し、私は悪くないと主張することで、私たちは「I am OK(私は良いものだ)」という価値を取り戻すことが出来たのでしょうか。決してそんなことはありません。そんなことで罪からきよめられることはなく、人は「I am not OK(私はダメなものだ)」を抱え続けていたために、次の悲劇が起こりました。

『人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、主によってひとりの男子を得た。」と言った。彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。 ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来た。また、アベルは彼の羊の初子の中から、それも最良のものを、それも自分自身で、持って来た。主は、アベルとそのささげ物とに目を留められた。 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。 』(旧約聖書 創世記 4:1〜5)

   カインがひどく怒り顔を伏せたのは、自分が手にした宝や称賛を比較して、負けたと思ったからです。このように、私たちが「I am OK(私は良いものだ)」を手に入れるために使う手段は、比較です。しかし、人と比較して自分はOKかどうかを確認しようとしても、必ず上がいますから、比較は、結局「I am not OK(私はダメなものだ)」に行きつきます。
   人は、「I am OK(私は良いものだ)」を手に入れようとして、常に人と自分を比較しています。そして、これを手に入れる一番簡単な方法は、人を裁くことです。「私は間違っていない。間違っているのはお前だ。」と主張する行為です。人はつらくなると、人をさばいて攻撃します。自分は正しいと主張して、「I am OK(私は良いものだ)」を手にしようとするのです。なぜなら、人は本来良きものとして造られたから、OKを目指そうとするわけです。しかし、それを見えるものと人のことばによって手にしようと比較すると、結局は、「I am not OK(私はダメなものだ)」しか手に入りません。

神が私たちをきよめるとは

   私達は、この世界でどんなに頑張ってOKを目指しても、それを手にすることはできません。私達がそれを取り戻すことが出来る方法はただ一つ、神と結びつくことによってです。そのように造られたのですから、それしか方法はありません。これをしてくださるのが、神の作業で、このことをきよめと言います。
   私たちが、見えるものにしがみつき、ほめられたり称賛されたりすることで得るOKを、神はことごとく壊そうとなさいます。それを握っている限り、本当のOKを得ることはできないからです。一つのものを握ればほかのものを握ることはできません。必ず消え去るこの世のものにしがみついてOKを主張するのはやめなさいと主は語り、見えるものから手を放し、代わりに私の手を握るようにと、その御手を差し伸べておられます。神の手を握り締めることが出来た時、私たちは真の「I am OK(私は良いものだ)」を取り戻すことができるのです。これがきよめです。こうして、真に神とつながることによって、私たちの中に真の平安が生み出されます。
   聖書は患難を喜べと教えます。患難とは、この世の希望をすべて失うことです。患難によって、あなたはキリストを見ることが出来るからです。患難の中で、自分は神なしでは生きられないという弱さに気づくことが出来れば、なんと幸いでしょうか。患難を通して神と結びつくことが出来るなら、その時あなたは、すべてを失ったのではなく、すべてを手にしたと言えるのです。
   このことを私たちによく教えてくれる人物が、イスラエルの12部族の父ヤコブです。彼は多くの富を手にして安心を得ようとしていましたが、それらを奪われ、すべての希望を失って神にしがみつきました。そして、真の平安を得て、イスラエルという名をいただき、イスラエルの歴史の土台を築いたのです。
   私達は、神なしで生きることはできず、神なしで平安を手にすることはできない存在です。そのことを忘れないでください。私たちは良きものですから、良きものとして生きたいと願うのは正しいことです。しかし、それは、見えるものによる評価ではありません。永遠のいのちを手にして初めて、真の平安を手にすることが出来、この地上で真の希望を持って生きることが出来るのです。