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2015年月8月23日
永遠のいのちの望み
(新約聖書 テトスの手紙1章)
『神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒パウロ――私は、神に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのために使徒とされたのです。』(新約聖書 テトスの手紙 1:1)

   「神に選ばれた」とありますが、救う人と救わない人を、神が選んでいるわけではありません。「選ばれた」とは、人の側の働きによって救われたのではなく、神の働きかけによって救われたという事実を強調した表現です。 『神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 2:4)とある通り、神はすべての人に対して、救いの御手を差し伸べておられます。その手を握るかどうかは一人一人の選択に任されていますが、決してその行いが義と認められて救われるわけではありません。神が手を差し伸べてくださり、信仰を与えてくださらなければ、決して救われないのです。

永遠のいのちののぞみ

『それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。』(新約聖書 テトスの手紙 1:2)

   人間が、この地上において持つことの出来る望みは富や名声や健康であり、人々はより良い生活を求めて、ある人は一流大学や出世、ある人は幸せな結婚などを希望として生きています。そして、多くの人が、宗教にそれらの望みをかなえることを求めています。しかし、はたしてそれは本当の望みと言えるのでしょうか。
   聖書は、この地上には希望がないと教えています。それは、この地上にある望みは、すべて死によって砕かれるものだからです。死によって失われる望みは本当の望みではなく、私たちにとっての希望は永遠のいのちしかないと教えているのです。それが、神が昔から約束して下さっている永遠のいのちの望みです。皆さんは神に何を望んで生きているのでしょうか。この世での成功でしょうか。それとも永遠のいのちでしょうか。
   人は、世の中で成功を収めた人を見ると、その人を希望とし、その人にあやかろうとして、日本では神社まで建立されます。しかし、イエス・キリストは真の希望を教えるために、この地上に来られた時、人間が希望を持つような姿では来られませんでした。キリストは、絵や文学や音楽や建物のような文化的な資産は何一つ残さず、人々が憧れるような偉大な業績もありません。むしろその姿はみすぼらしく、最後は罪人としてののしられ、迫害され、十字架で殺されました。しかし、その方が神、キリストであったのです。キリストは、人間が抱くような希望は希望ではないと教えるため、あえてこの世の人があがめるものとは逆の姿で来られました。馬小屋で生まれ、神という身分を隠し、人と変わらない姿で生きられたのです。そのことは、キリストが来られる以前から、聖書に次のように預言されています。

『彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』(旧約聖書 イザヤ書 53:2〜5)


   弟子に裏切られ、罪人として処刑されたその姿は、人が憧れるようなものではありません。しかし、その方がキリストであり、私達を救うために来られた神なのです。神であるキリストは、死によって滅びる希望ではなく、真の希望を私達に示されました。それが永遠のいのちです。永遠のいのちのためにキリストはよみがえり、死がもたらした病である罪を癒してくださるのです。

『もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 6:5)

   イエス・キリストを信じる者は、イエス様が死んで復活したのと同様に復活します。この希望を手にして、死に勝利すると信じることで、罪は癒されていきます。
   罪とは神と異なる思いのことです。人が、神と異なる思いを持つようになったのは、死のせいです。死が神との関係を壊し、関わりを閉ざしてしまったため、人は見えるもので安心を得ようとすることしかできません。こうして私達は、神ではなく見えるものを愛するようになり、神とは異なる思いを持つようになりました。そして、人からよく思われることが善であり、人から悪く思われることが悪であるという、神と異なる善悪の基準を持つようになりました。これが私達の罪です。この罪は、死がもたらしたものですから、よみがえりを本当に信じるなら、罪は癒されていくのです。

『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』(新約聖書 ローマ人への手紙 12:2)

   私達の中にある神と異なる思いを廃棄し、神と同じ思いを持つように自分を変えることを求めるならば、何が善悪かが見えてきて、それが私達の心に平安をもたらします。本来、私達は神に造られたものであり、神と共に生きるように造られています。私達が感じている虚しさや不安は、神とのつながりがなく神と同じ思いを共有できないことが原因ですから、不安や恐れを取り除くには、神との関わりを回復し、神と異なる思いを廃棄する必要があるのです。
   神と異なる思いは死によって誕生しました。その死をイエス様は廃棄したのです。イエス・キリストの復活によって、私達は永遠のいのちを持つようになったのですから、もはや死の恐怖の奴隷である必要はありません。神があなたを養ってくださいますから、何を食べようか何を着ようか思い煩う必要はないのだと、あなたの心を一新するように、神は教えておられるのです。このことを信じ、受け入れるならば、あなたの心はいやされ、平安を得ます。

私達が目指す模範


『神は、ご自分の定められた時に、このみことばを宣教によって明らかにされました。私は、この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。――このパウロから、同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。
私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。
それには、その人が、非難されるところがなく、ひとりの妻の夫であり、その子どもは不品行を責められたり、反抗的であったりしない信者であることが条件です。
監督は神の家の管理者として、非難されるところのない者であるべきです。わがままでなく、短気でなく、酒飲みでなく、けんか好きでなく、不正な利を求めず、かえって、旅人をよくもてなし、善を愛し、慎み深く、正しく、敬虔で、自制心があり、教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。』(新約聖書 テトスの手紙 1:3〜9)


   ここで述べられているリーダーを選ぶ際のポイントは、そのまま私達が目指す行いの模範と言えます。

1.非難されることのない者
   パウロにとって最大の関心は、救いの福音を伝えることです。人から非難されない行いを目指すのは、福音宣教の妨げにならないためです。行いが神の前に義と認められるのではありません。

2.家庭をおさめる者
   人をおさめる者は、家庭をよくおさめ、子どもを正しく育てなければなりません。まずは、家族・家庭を顧みることが基本であると、聖書は一貫して教えています。

3.心を神に向けようとする
   「わがまま、短気、酒飲み、けんか好き、不正な利を求める」……これらに共通しているのは、人に心が向き、見えるもので平安を得ようとする生き方です。自分の心が神に向いているかどうかは、人に対する態度でわかります。人に怒ったりするのは、人との関わりで平安を得ようとしており、神からの平安を得ようとしていないということです。リーダーは、このような人であってはなりません。さて、このような行いを目指すのは正しいことですが、間違ってはならないのは、これらは、神にほめられ、義と認められるための行いではないということです。このことは多くの人が誤解しやすい点ですから、よくよく注意が必要です。

『実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けた人々がそうです。……彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。』(新約聖書 テトスの手紙 1:10,16)

   「割礼を受けた人々」とは、良い行いで自分の義を証ししようとする人達の象徴的表現です。彼らは、一生懸命良い行いをして、非難されない生活をしたうえで、自分は立派なクリスチャンになったから、リーダーになれるだろうと考えます。しかし、この人々は、罪を正しく理解していません。神は、自分を正しいとするこのような人ほど、神に対して反抗的だと言われます。
   罪とは、悪い行いのことではなく、神と異なる思いのことです。聖書が良い行いを目指すように教えているのは、罪に勝つためではなく、福音を伝えることが第一目的です。何が罪かを理解できないと聖書の言葉が表面しか理解できません。悪い行いは、神と異なる思いが生んだ結果であり、行いを変えることが出来ても罪そのものがなくなったわけではありません。たとえば、姦淫していなくても、情欲を抱いて女性を見るなら、それは姦淫と同じ罪だと聖書は教えます。つまり、問題は思いにあるのであり、神と違う思いを抱くことが罪なのです。神と異なる思いを持つから、神の言葉に逆らうことが出来、悪いことをしてしまうのです。
   人は、良い行いができるようになると、罪がなくなったと錯覚しがちです。ところが、良い行いを目指す人は、悪い行いをする人を裁きます。罪は決してなくなっていません。神と異なる思いを抱く人は、悪い行いに走るか、良い行いに走るかのどちらかです。どちらも間違いです。
   行いによって義を立てるとは、簡単な表現を使うと、「私は悪くない」と主張する生き方です。間違っているのは私ではないと人を責めて攻撃するこの生き方こそが神に反抗した生き方なのです。それは、正しい人は一人もいないと神が教えているにも関わらず、自分を正しいとすることが、神への反抗だからです。このような神と異なる思いが、あなたを苦しめているのです。

神はあなたを義と見ておられる

   私達の間違った生き方の究極の原点は、「I am not OK=私はダメな者」という考え方です。この世界は、死によってすべてが滅びます。死に閉ざされた世界では、神が見えず、人は恐れと不安を抱き、この不安が、私はダメなものだという自己否定感を抱かせています。人は、この自己否定感を払いのけようとして、着るものや持ち物で人の歓心を得ようとしたり、愛される価値があるとアピールしたりして、価値ある者になろうと一生懸命努力し、ほめられようとするのです。
   クリスチャンになっても、この願いがかなえば幸せになれるという間違った信仰を持っている人が大勢います。しかし、これを神に祈っても、神は、その願いをかなえて、あなたをさらに罪深い人間にしようとは思わず、むしろ、その思いを破棄しようとなさいます。悪い行いをするのも、良い行いをするのも、悔しいから頑張るのも、自分はダメだという死から来た思いによるものです。死によって、神の愛が見えなくなり、自分はダメなものだという思いが植え付けられ、頑張って愛されるものになろうという生き方が生まれました。これが、比較、嫉妬、落ちこみを生み、私達を苦しめているすべての罪の原点です。これをなんとかしない限り、どんなにあなたが良い行いをしようとも何もなりません。
   神はあなたは良いものだと語り、神を信じることで義と呼んでくださいます。義とは「100%正しい」ということです。義なる方は神しかおられません。神は、「あなたは私と同じだ」と言っておられるのです。私達は、自分自身が義でないことは、自分が一番よく知っています。しかし、神は永遠に残るものに目をとめられます。今の罪の姿はすべて滅び去り、永遠のものではありませんから、真実ではありません。永遠に残るあなたの姿は、キリストの姿に変えられていくあなたの姿です。私達が復活する時の姿は、罪人ではなくキリストの姿です。神は、すでにこの姿を見て、義と呼んでおられるのです。

『私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 3:18)

   あなたがキリストと同じ姿に変えられていくのは、あなたの働きによるものではなく、御霊の働きです。私達は元々神に似せて造られましたから、その元の姿に戻されていきます。これは、神のなさることであり、あなたは何もすることはありません。永遠に残るあなたの姿は、罪人ではなく、キリストの姿ですから、あなたはダメなものではなく、良いものです。それがわからずに、自分で悪いものだと思っている苦しみを、神は癒したいのです。
   イエス・キリストは十字架で死んで復活し、永遠のいのちを示して、あなたも同じように復活するのだと示してくださいました。あなたの姿は、神に似せて造った私の姿であり、非常に良いものだと言っておられます。それなのに、永遠のいのちの希望を見失ったことで、自分はダメなものだと思い続けていることが罪なのです。
   復活の時、罪人のあなたは死んでいなくなり、キリストの姿だけが残ります。ですから、あなたは義人であり、義でしかないのです。これをあなたが心から信じられるようになることが、神の奇跡です。真の奇跡とは、あなたの心が変わることなのです。ですから、私達が戦う相手は自分はダメだという思いです。自分が良きものだということがわかると、人を裁くことはなくなり、自分はダメだと言って落ち込むこともなくなります。これが、神が私達に語っている福音です。十字架の贖いによるいやしを受けとりましょう。