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2015年月7月26日
罪の実体
(新約聖書 テモテへの手紙第二 3:1〜9)
   人は善人と悪人の区別をしますが、神にとってはそのような区別はありません。それはいったいなぜなのか、私達の罪の実体が理解できると、その理由がわかります。

『終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。こういう人々の中には、家々にはいり込み、愚かな女たちをたぶらかしている者がいます。その女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ね、いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることのできない者たちです。また、こういう人々は、ちょうどヤンネとヤンブレがモーセに逆らったように、真理に逆らうのです。彼らは知性の腐った、信仰の失格者です。でも、彼らはもうこれ以上に進むことはできません。彼らの愚かさは、あのふたりのばあいのように、すべての人にはっきりわかるからです。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 3:1〜9)

   私達を苦しめる罪は、人が自分を愛するところからスタートしています。愛とは関わりを意味し、愛の反対は憎しみではなく無関心です。人が生きるには、体を保つ食物だけではなく、心を満たす関わりが必要です。人は心を満たすために、自分が良く思われて、自分にとって心地よい関わりをしてもらうことを求めます。もしそれが得られなければ、悪い関わりでもないよりはましだと心が欲するので、様々なタイプの関わりが生じます。この「自分を愛してもらうことを求めること」が、そもそもの間違いの始まりなのです。
   この間違いは、人類の歴史の最初の段階で起こりました。それは、神が最初に造った人間、アダムとエバが、悪魔にそそのかされて、神様から食べてはいけないと言われていた善悪の知識の木の実を取って食べた時からです。この実を食べたことによって、人と神との信頼関係は壊れ、人は永遠に生きられなくなってしまいました。これを霊的な死と言います。聖書が教える死とは、神との関係が壊れることです。こうして、肉体の死が人を支配するようになり、その結果、これまで神との関わりによって満たされていた心は、その糧を失ってしまいました。こうして、人は、神に愛されている自分が見えなくなり、ここから人の生き方が180度変わってしまったのです。
   人の中に初めて罪が入り込んだ時の様子は次のように記されており、ここから、私達を苦しめている罪の姿を知ることができます。

『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。)』(旧約聖書 創世記 3:6〜7)

   アダムとエバが実を食べた瞬間こそ、人間に死が入り込んだ瞬間です。この時点で、神との関係が壊れ、その結果、人は神の愛が見えなくなって、自分しか見えなくなりました。すると、二人は自分が裸だということに気づき、生まれて初めて恥ずかしいという恐れの感情を抱きました。恥ずかしいという感情は、愛されたいという願望の裏返しです。そこで、恥ずかしい自分を隠すため、いちじくの木の葉で腰の覆いを作りました。これが罪の姿です。
   現在の私達も、アダムとエバと同様に、恥ずかしい自分の姿を見られないように、何かに依存して自分を隠し、良く思われたいと思って生きています。これが罪の姿であることが理解できると、自分を苦しめる罪と戦うには、何と戦えばよいのかが見えてきます。

『そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。』(旧約聖書 創世記 3:8)

   この時、アダムとエバにはもう神が見えませんから、声しか聞こえません。それでも二人は、自分の姿を恥じて、身を隠しました。

『神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。「あなたは、どこにいるのか。」 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」』(旧約聖書 創世記 3:9〜10)

   神の呼びかけに対して、アダムとエバは応答しました。実は、これが、二人が救われた瞬間です。二人が応答したことによって、神との関係は回復しました。しかし、罪人でなくなったわけではありません。

『すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
そこで、神である主は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」』(旧約聖書 創世記 3:11〜13)


   アダムは、自分は悪くないと言いましたが、自分もエバの横でずっと話を聞いていたわけですから、本来言い訳できる立場ではありません。このように、責任を人になすりつけ、自分は良いものだと見せようとする姿こそ、罪の姿です。聖書では、このような行為を、自分の義を立てると言います。
   今日の私達もまったく同じです。何か問題が起こると、私は知らなかったと言って、なんとか責任を回避しようとします。このような、自分の立場を守ろうとする無責任体質は世界中同じで、結局は、人から良く思われたいという自分を愛する心から生じているのです。
   ですから、善人も悪人も、どちらも自分のために生きているという点で、神の目から見るとまったく同じです。善人とは良い行いによって良い関わりを手にした人であり、良い関わりを手にできなかった人々は、無視されるよりはましだということで、悪い関わりで人からの反応を得るようになりました。両方とも、その根底にあるのは、自分を愛する心です。そのため、聖書は皆同じ罪人だと言っているのです。同じ罪人であるにもかかわらず、裁くあなたは何者か、どこにその権利があるのか、あなたも同じではないかと問いかけているのです。
   イエス・キリストは、ペテロに次のようにおっしゃいました。

『その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」』(新約聖書 マタイの福音書 16:21〜23)

   イエス様はある時から、自分は十字架で殺され、3日目によみがえるという話をなさるようになりました。この話を聞いたペテロが、「そのようなことは言わないでください」といさめるわけですが、この言葉だけを見ると、ペテロは主人を心配し、主人のために生きているようにも受け取れます。しかし、イエス様はペテロの本心を見抜いておられました。それは、もしイエス様がとらえられたら、今弟子として尊敬されている自分の立場はどうなるかという心配です。イエス様には、ペテロが自らの保身のため、人から愛されたいがための言葉であるとわかっていたのです。
   イエス様がペテロに、「下がれ、サタン」とおっしゃったのは、人がこのような生き方になったのは、悪魔がエバをそそのかしたところから始まっているからです。これが私達の罪の姿なのです。
   私達の罪の本質は、自分が良く思われたいという思いです。あなたも、相手のためを思ってアドバイスしているようだけれど、結局は自分が相手から良く思われたい、感謝されたいと願って行動したことはないでしょうか。
   イエス・キリストは、種まきのたとえの中で、私達が神の言葉を食べられないのは、この世の心づかいと富の惑わしが原因だと言われました。これは、イエス様が自ら解説した唯一のたとえ話であり、共観福音書にはすべて載っている重要な教えです。

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   イエス・キリストが語った「この世の心づかい」こそ、Uテモテで語られている「自分を愛すること」です。そして、「富の惑わし」とは「金を愛する者」です。
   人は、自分が良く思われたいために、さまざまな気遣いをするものです。「この世の心づかい」と訳されている原語は、「メリムナ」と言い、心が分裂した状態を表します。本来私達の心は、神を愛し人を愛するように造られているのですが、死が入り込んだことによって、神との関係が遮断され、心が二つに分裂しました。神が見えなくなったことによって、自分が生まれた意味がわからなくなり、その意味を求めて人から愛されたいという思いが入ってきたのです。ところが、人の言葉を求めていると、神の言葉を食べられません。これが私達の罪の状態です。
   人の目を気にして、相手の期待に応えよう、人から良く思われようとする生き方は、常に人と自分を比べ、ある人は落ち込み、ある人は傲慢になります。そこから、嫉妬や怒りが生まれ、それが様々な苦い思いを生じ、悪い行為をもたらすのです。悪い行いが生まれるのは、どちらがより優れて愛されるか、比較をするからです。創世記4章では、カインが弟アベルと自分を比較して、自分は愛されないと想像し、ついに弟を殺してしまいます。アダムとエバから始まった自分が良く思われたいという思いは、ついに殺人にまで発展したのです。
   人は、善人と悪人を区別しますが、それは流れのポジションを見ているだけで、私達は皆同じ流れにいます。たまたま悪の行為に行きつかなかっただけで、皆自分が良く思われたいと思って生きています。これが「この世の心づかいの生き方」であり、罪の本質です。
   相手の事を気遣って、相手のために生きるのは良いことですが、それを通して自分が良く思われようとすることが問題なのです。頑張ったのに思った通りに評価されないと、怒りが生まれ、争いやトラブルのもととなります。人の目には、もてなしや気遣いは美徳ですが、自分のためにやっていれば、見返りがないと腹を立ててしまいます。それは神の目からすると、確かに良い行いではあるが、善ではありません。
   このことに気づかないと、私達は罪と戦うことができず、生き方を変えることができません。いつまでたっても、自分が良く思われよう、愛されようとして、人と自分を比べ、自分が良く思われるために生き、腹を立て、裁く生き方のどこが間違っているかにすら気づかないのです。聖書は、比較をしてさばくことがすべての罪の原因で、私達を苦しめていると教えています。私達の罪の本質は、私達が気づいていない自分の生き方にあるのです。
   いったい世の中の誰が、世の心づかいが悪だと思うでしょうか。おもてなしが悪だと思うでしょうか。人の目を気にして良い行いをすることが悪いと思うでしょうか。しかし、事実、それが殺人を引き起こし、人を戦争に至らせます。聖書は問題の核心部分を教えているのです。
   この問題の解決は、人から心の糧を得るのをやめることです。神との関係を回復して、神の言葉で心を満たすことです。人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉を食べて生きると、キリストは言われました。あなたは、人からの言葉で生きていないでしょうか。人から悪いことを言われると、とたんに落ち込んで悲しくなるのが、私達の罪の姿であり、この世の心づかいです。
   聖書は、たとえあなたが全財産を貧しい人に施しても、愛がないなら虚しいことだと教えます。愛とは、神を愛する愛のことです。あなたが神の愛を受け取って、神に心を向けた中で行動するならそれは良いことですが、もし、人から愛されようとして見返りを求めてするなら、それは神の前に何の役に立たず、虚しいことです。ところが、私達はこのことにまったく気づきません。これこそが、罪の実体だと聖書は教えているのです。
   私達は、罪と言うと、悪い行いだけを想像しがちですが、それは単なる心の思いの結果に過ぎません。問題は、私達が神のことを思わないで人のことを思うところから始まっています。人からどう思われるかという事をいつも思って、人の言葉を食べて生きようとすることが、私達を苦しめている問題です。この問題の解決は、神の愛を食べるようになることです。
   神の愛を食べるようになる一番良い手段は、自分がいかに罪深い人間かに気づくことです。私達は皆、表面を取り繕っても、心は別のことを考えているような偽善者です。パウロは神によってそのことを教えられ、自分は律法の行いで義を立てようとしている偽善者と少しも変わらないみじめな人間だ、自分は罪人の頭だと告白しています。そして、私はその生き方がやめられないみじめな人間だと、神の前にありのままの自分を差し出した時、初めて生まれ変わることができたと証ししています。
   Uテモテ3章が私達に教えていることは、私達は皆、人の関心を引こうとして様々なものを手にいれようとし、それにしがみつく生き方がやめられない、罪深い人間だということです。しかし、その生き方が罪であり、誤りだと気づくなら、その人には救いがあります。もし、気づかなければ、信仰の失格者と同じで先がありません。どうか、自分の罪に気づいて、神の前に差し出しましょう。あなたがそういうものにしがみついて放せないのは、結局は心が満たされていないからです。あなたの心を満たすことができるのは、物でも、人からの評価でもなく、神の言葉だけです。
   神の言葉を聞き、それを信じて食べましょう。神は、あなたは素晴らしいものだと教えておられます。あなたは気づいていないが、私の目には高価で尊いと語っておられます。そして、私があなたをどれだけ愛しているか、十字架を見なさいと言っておられるのです。あなたのためなら、いのちさえも惜しまない、なぜなら、あなたは私の一部だからと神は言われます。
   そうした神の愛が見えるようになる時、私達は本当の意味で人を愛せるようになります。人からの見返りを求めないようになります。そうすると、心が平安になっていき、人に親切にすることができるようになり、人との関わりで怒ったり落ち込んだりする生き方をしなくなっていくのです。
   罪は、すべて自分を愛することから始まっています。あなたはすでに神に愛されているのですから、自分で自分を愛されようとする必要はないことに気づけば幸いです。