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2015年月7月12日
死ねば生きることになる
(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:2〜)
『多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:2)

   自分の仕事を多くの人に任せることによって働きは拡大します。しかし、それは忠実な者でなければなりません。「小事に忠実な者は大事にも忠実である」とは、聖書が教える鉄則です。一つ一つのことに、忠実に生きていこうという姿勢が大切です。

『キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:3)

   兵士とは忠実な者です。「苦しみを共にしてほしい」とは、神と共に生きることで出会う迫害や困難という苦しみを避けないでほしいという意味です。なぜなら、その苦しみを通して神の恵みがわかるようになるからです。また、あなたの苦しみを共に分かち合いたいということでもあり、それによってあなたを励ましたいと願っているのです。

『兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:4)

   兵士とは、日常生活のことは心配しないで、戦うことに専念するために集められた者です。私たちも同様に、日常生活のことを心配せず、神にゆだねましょう。イエス・キリストも、山上の垂訓の中で、「何を食べようか何を着ようか思い煩うな。あなたの心配事はすべて神が背負ってくださる」と語っておられます。自分で自分のことを心配するなら、神はその重荷を背負うことはできません。日常生活の心配事をすべて神に差し出してゆだねましょう。

『また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:5)

   神はあなたの重荷を負ってくださいますが、あなたが神の規定に従って生きなければ、その重荷を背負うことは出来ません。栄冠とは、神があなたの苦しみを共に背負ってくださるということです。
   神の基本の第一は、旧約から一貫して、安息日を守る、すなわち、神を礼拝することです。仕事や家族を優先するのではなく、神を礼拝することが中心でなければ、その生活の優先順位は間違っています。あなたは、安息日の礼拝を守り、日々祈りを持って一日を始めることを生活の基本に置いているでしょうか。もし、そうでないなら神様の慰めを得ることは出来ないでしょう。
   何を生活の中心とし、何を優先して生きるかは、あなたが決めることです。もちろん、礼拝さえ守れば良いというわけではなく、霊とまことを持って心から神を礼拝することが大切なことは言うまでもありません。しかし、そのためには、安息日を守り、日々祈りを持ってスタートする姿勢が大切です。この基本があってこそ、私たちは神からの慰めを受け取ることが出来るのです。

『労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:6)

   神は、労苦に対して報いを与えてくださいます。しかし、その報いとは、自分が求めているものが手に入ることや、抱えている問題が解決することではなく、自分の生き方のおろかさに気づかせ、自分は罪人以外の何物でもないという事実に気づかせることです。それは、自分の弱さ・愚かさにこそ、神の恵みが働くからです。
   自分の弱さ・愚かさに気づくなら、私たちは、ただ神のあわれみを求め、神にすがることしかできません。これが恵みの入り口です。神の愛は弱いところに働きます。神に目を向けるしかない状況に気づくことで、自分という罪人を愛し、義としてくださる神の愛が初めて見えるようになるのです。このとき、私たちは言いようもない平安に包まれる体験をします。こうして、神なしでは生きられないことに気づくことが神の恵みです。その結果、私たちは強くなれるのです。これが、神が私たちに与えたい報酬であり、慰めです。
   神の恵みは、私たちの考えの外にあります。物事の解決や富や成功を求める私たちが気づくことのできないところに神の恵みは働いています。

『私が言っていることをよく考えなさい。主はすべてのことについて、理解する力をあなたに必ず与えてくださいます。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:7)

『神はあなたに、御言葉を理解する力を与えてくださり、恵みに気づかせてくださいます。 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』(新約聖書 ローマ人への手紙 3:23〜24)

   私たちの肉体は、やがて朽ちていく存在です。そのような者たちに、何の栄誉が有効だというのでしょうか。どんなすばらしい褒賞を与えても、肉体の死を迎える時に滅んでしまうのですから、私たちは何か栄誉を受けられるような存在ではないのです。人間とは、いつも悪いことを考えてしまい、自分がどう思われるか、自分のためにしか生きていない、そんな罪深い存在です。
   人は、自分に価値がないと認めることを、恐れ恥じているために、それを隠そうとして、自分の見せかけを良くし、価値あるものに見せようとして生きています。自分の正しさを主張したり、人からほめられようとしたりするのは、裏返すと、自分は価値がないものだと叫んでいるのと同じことです。
   しかし、自分はまったく価値のない存在だと気づき、それをへりくだって認める時、あなたは、あなたを素晴らしいと言うイエス様に出会うことが出来るのです。イエス・キリストは、神にとってあなたは価値があり、素晴らしい存在だと言って、あなたを贖い、永遠のいのちを与えてくださいます。こうして、イエス様の十字架が見えるようになるのです。神はこのことを理解する力を、あなたに与えてくださいます。

『私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:8)

   「イエス」とはこの地上での神の名前であり、「キリスト」は救い主なる神という意味です。私たちは、この地上に来られたイエスの中に神を見出し、救われました。
   人は自分の中の善悪の基準によって神のイメージを作り上げ、その枠に神をあてはめようとします。しかし、それは自分の作った神であり、偶像です。神は人間の考えの延長に存在するわけではありません。勝手なイメージで作り上げた神ではなく、イエス・キリストを思いなさいと注意されているのです。
   イエス様は、この地上で英雄ではありませんでした。人間的に優れた力は何一つ示さず、ただの大工の息子でした。イエス様が十字架を背負いながら、よろめき歩く姿は、英雄とは程遠いものです。これを見て、イエスに神や王の姿を期待した人々はつまずきました。しかし私たちは、ここに神がおられると気づいたのです。
   人は、立派なことをする人を神としてあがめたり、優れた者になれば幸せになれると思っています。しかし、イエス様はそのような生き方をなさいませんでした。
   私たちがこんなところに神がおられるはずがないと思うところに、神はおられます。それは、私たちの罪の中です。神は素晴らしいところにおられるはずだと考えるから、私たちは、自分の秀でている部分を用いてもらおうと思いがちです。その結果、弱い自分・罪深い自分に神が目をとめられるはずがないと考え、つい自分の罪を隠そうとするのです。しかし、イエス様は、罪人と共に住まわれ、今も私たちの弱さの中にいらっしゃいます。「イエス・キリストをいつも思いなさい」とは、英雄とは程遠い姿に神を見出したことを思い出しなさいという意味なのです。
   よくクリスチャンは互いに兄弟姉妹と呼び合いますが、それは私たちが神のいのちによって結ばれている神の子だからというだけではなく、神の前では皆等しく罪人であるという意味があります。人をさばいたり、自分を立派な人間だと見せようとしたりするのは、互いに同じ罪人であることに気づかないからです。神が与えて下さる理解とは、そのような私たちの考えの中に神はおられず、かえって私たちが考える形とは正反対のところに神がおられるということです。人々がこんなところに神がおられるはずがないと考えた十字架のイエス様の中に神を見出したように、私たちが「こんな自分を神が愛するはずがない」と考える時、そこに神がおられます。イエス様が、「この小さな者にしたことは私にしたことだ」と言われたように、こんなところに神がいるはずはないと私たちが考えている場所に、神は働いておられるのです。

『私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:9)

   人は、自分の思いによって自分をしばり、苦しめています。しかし、神の言葉はあなたを自由にします。自分の考えに従って生きるのではなく、神の言葉に従う時、自由を手にすることが出来るのです。あなたの支えになっているのは、人の言葉でしょうか。それとも神の言葉でしょうか。私たちは、人からひどい言葉を言われると傷ついて落ち込んでしまうものですが、人の言葉につながることをやめ、神の言葉につながるなら、自由を手にすることが出来ます。

『ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:10〜11)

   キリストと共に死ぬなら、キリストと共に生きるようになるとは、あなたが自分の価値観を放棄するなら、神はあなたを生かすことができるということです。それは、あなたの経験と価値観によって育ててきた考え方が、あなたを苦しめているからです。
   人間は昔から、いろいろなものを求めては、それが手に入れば幸せになれると思い続けてきましたが、真の平安を手にすることはできませんでした。一時は満足して楽しかったものも、しばらくすると虚しさを感じて、また別のものを求めることを繰り返してきました。この虚しさをごまかす生き方をやめることが、古い自分に死ぬということです。あなたが、自分の価値観を放棄すれば、真に生きることが出来るようになるのです。これまで自分が持ってきた考え方や価値観を変えずに平安を得ようとしても、あなたの考えている延長に平安はないのです。
   なぜなら、神から離れて生きてきた私たちが持っていた善悪の基準が間違ったものだったからです。人にとっての善は、人から評価され、人から良く思われる何かであり、悪とは、人に迷惑を掛けたり、人から嫌われる何かです。つまり、自分が愛されるかどうかが基準です。しかし、聖書が教える善とは、神に心を向けることであり、神に心を向けないことはすべて悪です。自分に心が向く限り、どんなに立派な行いをしようとも、それは悪なのです。聖書はこのことを自分の義を建てると言っています。人は、本当は自分は義ではなく罪人であることを知っているため、それを隠そうとして生きています。そのことに気づかず、自分は善に生きていると誇り、満足しようとしますが、その生き方があなたの心に神を見えなくさせて、苦しめているのです。義でない者が義を建てて生きるということは、本当の自分の生き方でないため、まわりの目が気になり、人の言葉が気になり、苦しくなります。だから、神はそのような生き方に死んでほしい、あなたの間違った価値観を砕きたいと考えておられるのです。
   私たちの間違った価値観を砕くために、主は患難を用いられます。患難とは神がもたらすものではなく、生きている限りどうしても出会ってしまうものです。そこで神は、患難を恵みに変えて、真の自分を知り、神の慰めを知るチャンスとしてくださったのです。
   神の前に死ぬとは、自分は誇るところなど何もない人間だと気づき、ただ神様に助けを願う者に変わることです。その時、神はあなたを義とし、あなたは素晴らしい価値ある者だ、私が共に生きるから何も心配はいらないと言われます。イエス様がいつも罪人と共におられたように、神は罪人と共に生きる方なのです。
   イエス・キリストは、「私についてきなさい」と語り、十字架にかかられました。それは、「あなたも十字架で死になさい」という意味です。ところが、多くの人は、自分の考えを放棄することを拒み、「神は〜すべきだ」と、自分の考えの中に神を入れようとします。しかし、神は人間の考えの外におられます。私たちが自分に死ぬことができる時、自分の罪深さに気づき、神の恵みが見えるようになります。これが、神と共に死に、神と共に生きるということです。
   そして、その時、人は互いに兄弟姉妹なのだという意味がわかるようになります。偉い人間などなく、ただ、私たちを良しとしてくださる神の愛がすばらしいことに気づき、神の愛と共に生きるようになるのです。こうして内側が変えられ、『私はキリストとともに十字架で死にました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)という告白につながっていくのです。
   いつ十字架で死ぬことが出来るか、それが人間にとって最大の出来事です。私の中には神しかおられない、神の中でしか私は生きられないことに気づくとき、あなたの人生は変わります。神に生かされる人生こそ、神が与えたい報酬です。神はその弱さを愛し、あなたを素晴らしいと言っておられます。どうか勇気をもって、自分のありのままの姿を見つめましょう。