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2015年月7月5日
恵みによって強くなりなさい
(新約聖書 テモテへの手紙第二 1:15〜2:1)
『あなたの知っているとおり、アジヤにいる人々はみな、私を離れて行きました。その中には、フゲロとヘルモゲネがいます。オネシポロの家族を主があわれんでくださるように。彼はたびたび私を元気づけてくれ、また私が鎖につながれていることを恥とも思わず、ローマに着いたときには、熱心に私を捜して見つけ出してくれたのです。――かの日には、主があわれみを彼に示してくださいますように。――彼がエペソで、どれほど私に仕えてくれたかは、あなたが一番よく知っています。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 1:15〜18)

   パウロの偉大な働きには、多くの人たちの支えがありました。今あなたが生きているということ自体、あなたを支えている人がいる証です。ともすると私たちは、自分一人で生きているように思い、傲慢になってしまいますが、誰かに支えられていることを忘れてはなりません。なぜなら、あなたを支えている人の先には神がおられるからです。支えてくれている人たちに目を向けることによって、神によって支えられ、神によって生かされていることを悟りましょう。

『そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 2:1)

   イエス・キリストを信じた時、一人一人の内側に、キリストが共に住んでくださるようになりました。キリスト・イエスの恵みによって強くなるとは、自分自身が強くなることではなく、一人一人の中で、神が強く働くようになることです。自分の力によってではなく、神の恵みによって強くなるのです。
   神は私たちを強くしようとしておられるのですが、私たちの罪がそれを邪魔します。神の考えに逆らう肉の思いが一人一人の中にあり、そのために神は私たちの中で自由に働くことが出来ないのです。神に対する反抗心の元となっている、私たちの中にある願望を、大きく3つに分けて考えてみましょう。


神の働きを妨げる願望

1.人から良く思われたい

   すべての人は、人から良く思われたいという願望を持ち、そのために、友達を大切にし、良い人間関係を築こうとしています。私たちは、自分が求める相手から良く思われれば願望が満たされて安心できると思っているのですが、実は、その先にあるのは、人の目にしばられた奴隷の生活です。なぜなら、人から良く思われるためには、相手の期待に応えなければなりません。すると、気づかないうちに相手の期待がそのまま自分を拘束する力となり、律法になってしまいます。そのため、もし本当の自分を見せたら、相手の期待通りではなくてがっかりされるのではないかと、多くの人が本当の自分を見せられずに悩んでいます。こうして心を病み、人と関わりたくないとか、人からどう思われるかにおびえるようになってしまいます。人は、自分の願望を満たすと喜びや平安を感じて自由になると信じて、神の言葉を無視して自分の生き方を主張しますが、その願望の先にあるものは、自由でも平安でも喜びでもなく、人の目にしばられた奴隷の生き方です。ここに神の恵みは働きません。

2.お金

   人は幸せになるために、できるだけお金が欲しいと願っています。お金が手に入れば、自由なことができ、平和に幸せに暮らせると思っているのですが、実は、その願望を満たそうとすればするほど争いが生じます。戦争の発端も、もとはといえば富の奪い合いです。私たちは知らないうちに富の奴隷になっています。お金があると安心するかもしれませんが、今度は、それを失ったらどうしようという恐れにつきまとわれます。富は私たちを自由にするどころか自由を奪い、お金に仕えて生きさせます。富を求めることの行きつく先は、自由ではなく苦痛です。

3.娯楽

   人の目の奴隷となり、お金の奴隷となり、気づかないうちにストレスを抱えた人間が、次に求めるものは快楽です。人が快楽を求める理由は、現実に失望しているからです。遊びや娯楽や快楽などの肉を喜ばせるものは、ストレスから逃げ出す手段なのです。人やお金を求めた結果、むしろ失望しているという現実を認める勇気がないので、何かでごまかそうとして様々なものに身を投じますが、その先に待っているのは、依存というコントロール障害です。アルコールや薬物、ギャンブルや買い物やネット、人との関係依存など、それがないと不安だという、物や行動の奴隷になる生活です。

   このように、人間の願望の先にあるものは自由ではなく奴隷の生活です。人は、自分の願望を満たせば幸せになれると思って、神に逆らってまでも願望を追及しようとしますが、それらは決して人を幸せにしません。なぜなら、これらの願望の始まりは、神との関わりが断たれた死の恐怖が原因だからです。イエス・キリストは、『一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるため』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:15)に、この世に来て下さったと、聖書に書かれています。
   聖書が教える死とは、肉体の死のことではなく、神との関係がないことです。アダムとエバが悪魔にだまされた時以来、人の中に死が入り込み、私たちは生まれながらに神を知らない状態で生まれてきます。私たちは本来神と共に生きるように造られており、神に愛されるために造られました。それなのに、その神が見えず、神の愛が見えないのは、たとえようもない不安・恐怖なのです。その不安と恐怖を解消するために、人は人の愛を求めるようになりました。その結果、人から良く思われるためには、その人の期待に応えなければと、自分を拘束する律法が生まれたのです。また、永遠なる神と切り離されたことにより、私たちの体は永遠ではなく死ぬものとなりました。死という恐怖を感じて、人は初めて「生きたい」という強い願望を持つようになりました。こうして人は、安心と長生きのために富を求めるようになりました。しかし、どんなに長生きしても、行きつくところは死です。
   キリストは、幸せになろうと思って間違ったものを求めている私たちのためにこの世に来られ、「私はあなたを愛している」と伝えるために十字架にかかられたのです。そして、キリストを信じる者には永遠のいのちを与えて下さいました。その永遠のいのちは、肉体が滅びる時に、朽ちない身体となって明らかになるのですが、すでに私たちの内側に存在しています。今私たちが、永遠のいのちをいただき、神との関係を回復して神の愛が見えるようになり、死の恐怖から解放されているにもかかわらず、いまだに死の恐怖の奴隷として生きているのはなぜでしょうか。それは、しがみついていた偽りの願望を手放すことができずに、今なおそれを達成しようと求めているからです。多くの人が、クリスチャンになっても神にゆだねるべきものをゆだねることができずに、葛藤しています。神は、あなたが偽りの願望を捨てて、真の自由を手にしてほしいと願っておられます。

恵みによって強くなるとは

   私たちが偽りの願望を放棄しなければ、恵みによって強くなることは出来ません。あなたが真の自由を手にして平安を手にできるのかは、自分の願望をどこまで放棄できるかにかかっています。

1.仕える者になれ

『キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:21)

   イエス様が十字架にかかる前の晩、最後の教訓として語られたのは、互いに仕え合うことです。そして、イエス様ご自身が弟子たちに仕えるところをお見せになりました。神は旧約聖書から一貫して、仕える者になるように教えています。それは、仕えることによって自分の間違った願望を抑え込むことができるため、神が強く働き、自由になることができるからです。ところが、多くの人が、仕えると自由が奪われると考えて、仕えることを望みません。

『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 5:22)

『子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:1)

『奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。』(新約聖書 エペソ人への手紙 6:5,7)

    聖書は、まず妻が夫に従う者になるように教え、子どもは両親に従うことを教えています。奴隷とは、仕える相手を持つすべての人を指します。 誰もが従う相手を持っているのは、従うことは、偽りの願望を抑える有効な手段だからです。その結果、神の恵みが強く働き、真の自由を得ることができます。若者は、親は自分の自由を奪う存在であり、親に逆らえば自由が手に入ると思うものです。しかし、従うことは自由を得させる神の知恵なのです。

2.すべてのことを感謝する

   すべてのことに感謝すると、自分の願望を抑えることが出来、誤った願望に支配されて苦しむことがなくなります。

『しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか。」と言えるでしょうか。』(新約聖書 ローマ人への手紙 9:20)

   自分の願望が強いと、「神がいるならどうしてこんなことになるのか」と、感謝どころか神に文句を言うことが多くなります。感謝とは、神に言い逆らうのをやめることです。聖書は神に言い逆らう者に対して、「あなたは神より偉いのか?」「あなたの判断は神より正しいのか?」と問いかけます。
   旧約聖書に登場するヨブは、多くの患難に出会って神につぶやきました。すると、神はヨブにこう言われました。「お前は何者なのか。すべてを知っているのか。なにがわかるのか。自分がどこからきてどこに行くのか知っているのか。」この言葉にヨブは目が覚めました。知ったつもりになって神に文句を言うとは、自分はなんと愚かだったのかと。こうしてヨブが自分の願望を放棄したことで、神はヨブを完全に支配し、立ち直らせ、これまでの二倍の祝福を与えました。このことによってヨブは、真の自由と平安を手にしたのです。
   私たちは自分が何者なのかもわかっていません。神に造られたものであるにも関わらず、人を裁くあなたは何者なのか、あなたはえらいのか、と神は問われます。神の前ではだれも偉くありません。パウロは、様々な肩書を持ち、人々の尊敬を集めていました。しかし、「自分は何も持っていない。私の中にいるのはキリストだけだ。」と悟ったパウロにとっては、人の目には素晴らしいと映るあらゆるものがちりあくたと同じでした。自分を誤って理解し、傲慢にならないために、感謝する人になりましょう。どんなつらい出来事にあっても神に感謝することで、私たちの中にある誤った願望を抑えることが出来ます。

3.自分の弱さに気づく

   もしある日突然、誰もいない無人島にいたとしたら、あなたは、必ず「神様助けて下さい」と祈るはずです。祈らないと不安で仕方がない――これが人間の本来の姿です。無人島では、財産も過去も何の役にも立ちません。弱さとは、自分はただ神に頼るしかない存在だと気づくことです。この弱さに気づいた時、人は強くなります。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:9〜10)

   パウロは、何もできない時こそ私は強くなれるから、私を弱くしてくれる病気や災いを甘んじて受け入れると言っています。自分を弱くするものは災いではなく宝です。神なしでは生きられない弱さに気づいた時、人は強くなります。その弱さを見えなくさせているものが、自分が握りしめている願望です。自分の願望を達成し、人からほめられ、認められることで、自分の力で何とかなると考えるようになり、神に頼ることをしなくなってしまうからです。自分が握りしめている願望が自分を苦しめ、自分が奴隷になっていたことに気づくことを、キリスト教では「砕かれる」という言い方をします。砕かれて神の愛を知ることができれば幸いです。
   人は神を自分の延長で考えるものです。どうすれば成功するか、どうすれば人から良く思われるか、それが幸せだと考え、これを与えてくれるのが神なのだと考えています。しかし、人の考えの延長に神はいません。人間の考えの先にいるのは人が作った神です。人間の考えによって神を知ろうとしても、そこに神はおられないので、神によって強くなることはできません。私たちは、神とは今の自分を生かし、今の自分の願望をなんとかしてくれる方だと考えますが、本当の神がなさることは、今のあなたを殺し、本来のあなたを生かすことです。つまり、間違った願望を取り除き、神によって造られた本当の自分を生きることができるようにすることです。

『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』(新約聖書 ガラテヤ人への手紙 2:20)

   パウロは、自分が十字架で死んで、自分の中に自分がいなくなり、キリストによって生かされるようになった結果、自由を手にし、強くなったと証しています。彼は、自分の中に生きているのは自分ではなく神だけなのだと悟り、神と共に生きるようになった時、真の平安、真の自由を手にしたのです。しかし、多くの人は自分を放棄せず、十字架で死ぬことをいやがるために、自由を手にすることが出来ません。自分の弱さを無視して、見えるもので幸せになろうとして神に祈っても、そこに神はおられません。神は、あなたの願望があなたを苦しめていることに気づき、それを十字架につけるようにと語っておられます。
   人間は、キリストのからだの器官として造られました。ある人は足、ある人は手という具合に、それぞれが神の体の一部だということです。手や足はどうしたら自由になれるでしょうか。体から切り離して勝手に生きることが自由なのでしょうか。いえ、神から離れた私たちは結局何もできません。その自分を隠すために、人から良く思われることや富や学歴や地位を前面に出して自分を覆い、自由になったつもりになるのですが、そんなものは自由ではありません。手や足が自由に生きられる場所、それは本来の体につなぎ合わされるしかないのです。体につながって生きる時、手は本来の姿を取り戻し、自由になれます。
   あなたが本当の自分を取り戻して自由になれる方法は、神と一つになることです。あなた自身が死ぬことです。手は、勝手な生き方をする自分が死んで、体の一部になった時、何でもできるようになりました。さらに体が守ってくれるから安心して生きて行くことが出来ます。これが、神が私たちに語りかける福音なのです。
   私たちはこの手と同じです。すでにキリストと結びついているにもかかわらず、神と離れていた時と同じように、自分の願望を満たそうとして神の言うことを聞かない生き方をすると平安はありません。それゆえ神は、「あなたの間違った願望を十字架につけて、自分に死になさい。」と語っています。そして、手が死んで初めて身体の意思が伝わるように、キリストが私の中に生きているという事を知り、自由を味わい、平安を得るのです。
   私たちに必要なものは絶望する勇気です。その勇気がないために、辛くなると何かに逃げてしまうのですが、もしあなたが絶望する勇気を持てば、神に頼るしかない自分に気づき、自分の中にはキリストしかいない、私は神に愛されていた、私は死んでキリストが私の中に生きていたと気づくのです。私たちは、絶望する勇気が必要です。どうかつらさに出会ったら絶望して、神なしでは生きられない自分に気づいてください。自分の中に神がおられるという恵みに気づき、恵みに生きて、恵みによって真に強くなりましょう。何かに逃げずに、絶望する勇気があれば必ずそうなります。私たちは絶望によって、真の自由を手にし、平安に包まれます。