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2015年月6月28日
確信のある人生
(新約聖書 テモテ人への手紙第二 1:1〜)
いのちの約束と平安の計画

『神のみこころにより、キリスト・イエスにあるいのちの約束によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、愛する子テモテへ。父なる神および私たちの主キリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安がありますように。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 1:1〜2)

   キリスト・イエスにあるいのちの約束とは、 『信じる者は永遠のいのちを持つ』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:47)という神の約束です。あなたを救おうとして差し伸べておられる神の手をつかみ、心を開いて神の恵みを受け取るならば、神はあなたに、滅びることのない永遠のいのちを与えてくださいます。

『わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。』(新約聖書 ヨハネの福音書 6:54)

   「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」とは、心を開いて御言葉を受け入れるという意味です。良い行いによって救われるのではなく、ただ心を開いて神にすがることだけが、死の世界から脱出する方法です。こうして永遠のいのちを持つ人は、神が終わりの日にその人をよみがえらせてくださいます。
   また、パウロはよく手紙の冒頭で、「恵みとあわれみと平安があるように」と語ります。「恵み・あわれみ・平安」の順には意味があります。神の救いを受け、永遠のいのちを得た私たちに、平安を与えることを神は計画しておられるのです。

『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。』(旧約聖書 エレミヤ書 29:11)

   人は、何かとつながらなければ生きられないように造られています。水(H2O)という物質が安定するために、水素原子(H)と酸素原子(O)が結びつかなければならないように、人は、神と共に生きなければ安定できません。
   ところが、悪魔が蛇を使ってアダムとエバをそそのかし、人の中に死が入り、神と私たちを遮断する壁ができてしまいました。そのため、不安定な状態になった人間は、代わりに結びつくものを求めるようになりました。
   神のいない世界には、人と物しか存在しません。こうして人間は、人につながることや、富を持つことで、安心を得ようとするようになってしまったのです。しかし、それらのものから得られる平安は、真の平安ではなかったことを私たちはよく知っています。このお金がなくなったらどうしよう、人から良く思われなくなったらどうしようという不安がいつもつきまとうのは、見せかけの平安です。神は、そのようなものを追い求めるのはやめて、今握りしめている人や物を手放し、神の手を握りしめなさいと語っておられます。神はあなたに、本来の真の平安、すなわち、神とつながることで得られる平安を得る計画を持っておられるのです。
   何に結びついて生きようとするか、それが私たちの人生にとっての問題です。真の平安、それは神の手をしっかり握ることです。

『あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』(旧約聖書 エレミヤ書 29:12〜13)

   あなたが神を求め、御手をさしのべておられる神を見つける時、あなたはこの世のものとはまるで違う神の平安を得ることができます。これが、あなたに平安を与える神の御計画です。


信仰の継承

『私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 1:3〜5)

   テモテの一家は信仰が継承されている家族です。クリスチャンは、自分が救われておしまいではなく、信仰が継承されるように子どもを育てることが第一の勤めです。子どもがこの世でどんなに成功しても、永遠のいのちを失ったらいったい何になるでしょうか。この世のものは、死んだらすべて消え去ってしまいます。そのようなものは、初めから偽物なのだと聖書は教えます。真のいのちを得るには永遠のいのちをいただくしかありません。神を信じる者は死んだあとも天国で永遠に生きることができます。信じない者は滅びます。親が子どもに継承すべきもの、子どもに残すべき最大の遺産は信仰です。


神の賜物

『それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。
神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。
ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 1:6〜8)


   パウロの按手によって与えられた神の賜物とは、一緒に伝道する力のことです。それは、具体的には次のような賜物です。

『彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」』(新約聖書 使徒の働き 1:4〜5)


『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、たしの証人となります。』(新約聖書 使徒の働き 1:8)

   バプテスマとは「浸す」という意味です。イエス様は、まもなく弟子たちは聖霊に満たされる体験をし、それによって力を得て伝道するようになるから、それまではとどまっているようにお命じになりました。聖霊によって力を得なければ、伝道することはできないからです。その後、ペンテコステの日に、エルサレムにとどまっていた弟子たちに、聖霊に満たされてこれまで自分が使ったことのない言葉を語るという出来事が起こりました。

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』(新約聖書 使徒の働き 2:1〜4)


   異言で祈るというこの出来事を通して弟子たちは、これまでとは別人のように大胆に伝道するようになりました。パウロがテモテに再び燃え立たせるように言っているのは、この賜物の事です。この賜物をもう一度呼び起こして、私と一緒に伝道してほしいとテモテに語っているのです。聖霊のバプテスマは、本来勇気を持って伝道するために与えられた賜物です。福音を語るのが恥ずかしいと思ってしまう時、神に与えられた賜物を呼び起こして祈るならば、伝道することができるようになります。信仰を継承するためにも、まず自分自身が聖霊に満たされましょう。


確信のある人生

『神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。
私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると確信しているからです。
あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい。そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第二 1:9〜14)


   イエス・キリストは、私たちを死から贖い出し、永遠のいのちを与えてくださいます。これは、イエス・キリストの初めからの約束で、この約束が実行されるのは、ただ神の恵みによるものです。この世には永遠は存在せず、滅びと絶望しかありません。この死という壁を神が打ち壊し、私たちを神の国に移せるようにしてくださったのです。
   パウロが、福音のために受ける苦しみを恥とは思わないのは、神が必ず守って助けてくれるという確信があるからです。あなたはそのような確信を持って生きているでしょうか。確信なく生きている人は、風見鶏と一緒で、いつも周囲に流されてしまいます。しかし、神に確信を持って生きる人は、自分の道が見えていますから、どんな風が吹いてこようとも自信を持って進むことが出来ます。
   確信を持って生きるか、確信のないまま不安の中で流されながら生きるか、それは各自の選択です。パウロが、迫害されても苦難にぶつかっても、進んでいくことができたのは、確信をもって生きていたからです。確信を持つにはどうすれば良いのでしょうか。

1.信仰に生きる

   信仰とは、神の言葉を信じることです。李登輝氏やリンカーン等、逆風の中で大事業を成し遂げたクリスチャンの先人たちは皆、自分を支える御言葉を持っていました。 あなたも、何があっても絶対にこの御言葉は間違いのない真実だと信じられる神の言葉を求め、自分の人生の支えとなる御言葉を持ちましょう。それが、確信ある人生の土台です。

2.健全な教えに従う

   確信の土台となる聖書の御言葉を正しく理解することが大切です。御言葉を私的解釈してはなりません。

3.良いものを守る

   一人一人にゆだねられている良いものを守ることによって、私たちは確信ある人生を送ることが出来ます。良いものとはいったい何でしょうか。
   私たちは、通常良いものと言うと、神から与えられた賜物や秀でた能力等、人々から良く思われるものを思い浮かべ、それを維持しようと頑張ることが、良いものを守ることだと思いがちです。しかし、そうではありません。聖書は、人にとってはおろかに見えたり、恥だと思われたりするものこそが、実は良いものなのだと教えています。イエス・キリストは、初めて公の場でメッセージを語った時、次のように言われました。

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。』(新約聖書 マタイの福音書 5:3〜4)


   心が満たされないことや、悲しむことは、通常誰もが嫌がる状況です。ところがイエス様は、そのような状況こそ幸いであり、患難や試練に出会ったら喜べと教えています。なぜなら、そのような状況に陥ると、人は神にすがるしかないからです。それこそが素晴らしい宝なのです。聖書は、私たちが想像する良いものや、神はこうあるべきだと想像して作った偶像などは、まったく良いものではないと否定しています。

『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 1:18)

   十字架の言葉とは、イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかり、三日目によみがえったという出来事のことです。人の罪を背負うことも、よみがえることも、理性で考えるとありえないし、ばかげたことです。人間の知性は、どうしたら成功するか、どうしたら富を手にできるかを求めています。それが人間の考える救いです。ですから、世の人にとっては、十字架の言葉はおろかなものです。
   しかし、おろかに思える十字架の言葉にこそ、私たちの力があります。神にすがるしかない時、私たちは自分の弱さがわかるようになり、十字架の言葉がわかるようになります。十字架は私のためであり、これが神の力なのだとわかるようになるのです。私たちにゆだねられた良いものとは、神なしでは生きられない弱さのことです。

『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』(新約聖書 コリント人への手紙第二 12:9)

   人は自分の弱さを恥だと考えて隠そうとします。弱さを隠し、自分は立派な人間であり、まわりに頼らなくてもこれだけのことが出来る、と自分の長所を養い育てようとするものです。しかし、そんなものは何の役にも立たないし、誇りでもありません。私たちが誇るものは、神なしでは生きられない弱さです。これこそ、パウロが見つけた「良いもの」です。この弱さを知ることによって、神から離れることが出来ず、神に守られて確信ある人生を生きることが出来るのです。この弱さを聖霊によって守るように教えられているのです。
   自分の長所を誇ったところで、神にとって益となるものはなく、何の得にもなりません。神にとって大切なことは、あなたが自分の弱さに気付くことです。神にすがるしかない自分に気付くこと、その弱さが、神とあなたをしっかりと結びつけます。それが私たちひとりひとりに確信ある人生をもたらします。そして、その確信が力となって、あなたの人生を変えていくのです。
   自分の弱さに気付くこと、それが人生を変える秘訣です。自分はダメな人間だ、どうしようもないと感じてしまう時、その中にこそ素晴らしい宝があるのです。神に頼るしかない自分に気付くならば幸いです。神にすがるしかない時、聖書の言葉があなたの確信になります。その言葉があなたの人生を変えるのです。