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2015年月6月7日
罪の源流
(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:17〜25)
『よく指導の任に当たっている長老は、二重に尊敬を受けるにふさわしいとしなさい。みことばと教えのためにほねおっている長老は特にそうです。聖書に「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない。」また、「働き手が報酬を受けることは当然である。」と言われているからです。長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:17〜19)

   御言葉を教える長老に、尊敬する気持ちを持てなければ、その人の言葉を素直に聞くことができません。イエス・キリストの郷里の人々は、「彼は大工の息子じゃないか」と言って、イエス様の言葉を尊ぶことができませんでした。尊敬できなければ、その人の語る言葉すら侮ってしまうのです。
   御言葉は、私たちの心を生かす食物です。私たちの魂は、神の言葉を食べて初めて成長し、喜びや満足を得ることができます。人は神から離れて、体の満足によって心を満たそうとしていますが、それらの喜びはすぐに過ぎ去ります。私たちが、虚しさ、恐れ、不安を抱くのは、神の言葉を食べていないからです。ですから、御言葉を食べて心の健康を保つことができるように、自分自身のために、御言葉を語る長老に尊敬を持って接しなさいと教えられているのです。
   また、リーダーというものは、とかく批判にさらされやすいものです。これらの批判を軽々しく受理してしまうと、人々が御言葉を聞かなくなってしまいますから、慎重にしなければなりません。

『罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。私は、神とキリスト・イエスと選ばれた御使いたちとの前で、あなたにおごそかに命じます。これらのことを偏見なしに守り、何事もかたよらないで行ないなさい。また、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:20〜23)

   なんでもかんでも人前で罪を責めて人々を恐れさせれば良いわけではなく、ここで教えられている罪とは、間違った教えを語り分派分裂を作る罪に対してです。当時はまだキリスト教の基礎が完成していなかったために、様々な混乱がありました。それをパウロが軌道修正して教会の基礎を作ったわけですが、これに反発する人々もいました。そのような間違った教えに対しては、人々の前で明らかにするべきです。
   按手とは、特別な神の権威が授与される象徴的な儀式です。軽々しく権威をあたえたり、教職者につけたりしてはいけません。また、悪事に加担せず、自分の体をきよく保たなければなりません。私たちの体には、神のいのちが宿っていますから、遊女と交わったりしないで、体を大切にしなさいと教えられているのです。
   ぶどう酒は薬用であり、この御言葉によって飲酒が許容されているわけではありません。当時は、水の浄化施設などありませんから、水を媒体にして多くの病気が広がりました。それを防ぐために、少量のぶどう酒を用いなさいと言われているのですから、この御言葉は薬を服用することを勧めていると理解すべきです。
   キリスト教の中には、イエス様は病人をいやしてくださるのだから、病院や薬を使うのは不信仰だという極端な理解が、たまに存在しますが、信仰とはそういうものではありません。神を信頼し、神に感謝することが大切なのであって、何かを禁止したり、○○ねばならないという律法でしばったりすることは、信仰に反するものです。神は、人を通して働くこともなさいますから、薬や医者を用いて病を癒されることもあります。神に信頼し、感謝することが何よりも大切です。

明らかな罪とあとで明らかになる罪

『ある人たちの罪は、それがさばきを受ける前から、だれの目にも明らかですが、ある人たちの罪は、あとで明らかになります。同じように、良い行ないは、だれの目にも明らかですが、そうでないばあいでも、いつまでも隠れたままでいることはありません。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:24〜25)

   罪には、今の時点で罪だとわかる罪と、今はわからないけれど後から罪だとわかる罪があります。同じことをイエス様は次のように語っておられます。

『同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。』(新約聖書 マタイの福音書 7:17)

   ここで、「良い」「悪い」と訳されている原語は、それぞれ「アガトス(内側が清い)」「カロス(外側が良い)」「サプロス(腐った)」「ポネーロス(圧迫されて苦しむ)」という言葉が使われています。つまり、この御言葉は、「内側が清く神を愛する心を持つ者は良い行いができるようになるが、心を神に向けない者は、つらさに苦しみ、つらい行いをするようになる」という意味です。人を憎んだり嫉妬したりしたくないと思いつつも、心の中にそのような思いが生じてつらくなったり、したくないと思いつつ悪いことをしてしまう経験は、誰もが持っていると思いますが、それは、内側の悪、すなわち神との関係がうまくいっていないことが原因なのです。
   人間は目に見える悪い行いを罪と考え問題にしますが、イエス様は、心の中に悪い木があるから悪い行いという実を結ぶのだと言われました。私たちはつい悪い実を摘み取る作業に追われてしまいますが、原因は悪い木にありますから、いくら摘み取っても、次々悪い実がなります。実ではなく木に原因があることを理解しなければ、いつまでも自分を変えることはできず、つらい中で生きていくしかありません。問題を解決するには、神との関わりを変えなければならないのです。
   罪は川の流れと似ています。人々は、激しい流れを見ると氾濫しないように防波堤を作ります。私たちの心の中は、皆、同じように罪が流れており、罪があふれると怒りや争いを生みます。しかし、良い行いを保っている人であっても、心に防波堤を作って自制しているだけで、心の中は皆同じ罪の流れを持っています。
   イエス様の解決は、川の氾濫を食い止めることではなく、罪の流れそのものを解決してくださいます。川の流れは上流に行くほど細くなり、最終的には地面から水が染み出ている程度の湧水であったりします。この小さな湧水がいくつか集まって流れとなり、川が形成されています。罪も同じように、初めは罪とも気づかないような小さなものが源流です。この流れが大きくなって氾濫し、人々を苦しめているのです。

私たちを苦しめる罪の源流

『また、いばらの中に蒔かれるとは、みことばを聞くが、この世の心づかいと富の惑わしとがみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。』(新約聖書 マタイの福音書 13:22)

   良い実を結ばない原因、すなわち罪の原因は、御言葉を食べられないことにあります。神の御言葉が食べられない人たちは、魂に喜びがないので、見えるもので喜び、結果的につらさを感じ、良い実を結ぶことができません。御言葉を食べられないのは、世の心づかいと富の惑わしが御言葉をふさぐからです。これが罪の源流です。富の惑わしが罪の源流であることはまだ理解しやすいと思いますが、罪とは似ても似つかないように見えるこの世の心づかいが罪の源流だとは、いったいどういうことでしょうか。
   この世の心づかいとは、思い煩いのことではなく、人によく思われようとする思いのことです。私たちは皆、人からよく思われたいと思っています。ですから、人から良く思われている人と自分を比べて、あの人のように愛されたいと願います。ここから、「なぜ自分はあの人のように愛されないのか」という思いが生まれ、嫉妬が生まれ、憎しみや争いに発展して自分をつらくさせる感情が生まれます。意地悪や殺人という行いに至ります。
   私たちの心を支配している罪の源流は世の心づかいにあります。これがあなたを苦しめ、世の中の悪人もこれによって悪事を働いています。こう言われてもまだ、私たちは人から良く思われることが悪いことだとは思えません。しかし、これが罪の源流なのです。

『その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』(新約聖書 マタイの福音書 16:21〜23)


   ペテロの言葉だけを聞くと、イエス様を愛し、イエス様のためを考えて忠告したように思われます。しかしイエス様は、ペテロが人の目を気にしてこう言ったことを見抜いておられました。当時のペテロは、イエス様の弟子であることで人々から尊敬を受けており、万一イエス様が失脚するようなことがあれば自分の立場はどうなるんだと、自らの保身のために、「そんなことはあってはならない」とイエス様に忠告したのです。そのためにイエス様は、人からどう思われるかを第一とするその罪に対して「下がれ、サタン。」と言われたのです。
   「人からどう思われるだろうか」これがこの世の心づかいです。あなたは、ものごとを考えるとき、人からどう思われるかという基準に支配されていないでしょうか。嫌われるのではないかという恐れを抱いたり、良く思われたいと思って相手の期待に応えようと頑張り、期待に応えられないのではと恐れたり、頑張ったのに認めてもらえないと怒ったり、もっと頑張っている人や認められている人に嫉妬を覚えたりする生き方をしていないでしょうか。このような恐れ・不安・怒り・嫉妬は、自分自身をつらくさせ苦しめます。このつらさの源流は、「人からどう思われるだろうか」という世の心づかいなのです。
   自分が世の心づかいによって生きているかどうかは、自分で確認することができます。これが、明らかになっている罪であり、罪の源流です。

あとから明らかになる罪

   世の心づかいは、川に例えるなら湧き水のようなものであり、その下にさらに目には見えない流れが存在します。人間の場合は、それは無意識の中にあり、世の心づかいという思いを引き出しています。

『死のとげは罪であり、罪の力は律法です。』(新約聖書 コリント人への手紙第一 15:56)

   古典ギリシャ語の文法に則ると、この原文は動詞がなく主語と述語を入れ替えた、非常に意味を強調する文体になっています。これが、パウロが手にした結論であり、福音の奥義なのです。罪とはこの世の心づかいであることは、先に述べましたが、それは死のとげ、すなわち死がもたらす恐れから発しているということです。
   聖書では、創世記に初めて死という言葉が出てきます。これは、神との結びつきを失い、神との関係が断たれることです。神の愛が見えなくなることと言い換えることもできます。人間は神によって造られ、もともと神の愛の中で生きていました。ところが、突然惜しみない愛を注いでくれていた親が見えなくなったら、子どもは一体何を感じるでしょうか。不安以外の何物でもありません。私たちの魂の親は神様です。人は神のいのちによって造られ、神の愛の中で生きていました。それが罪によって見えなくなり、私たちの心の中は言いようのない不安で満ちています。自分は何者か、何のために生まれたのかということも同時に見失ってしまったのです。これが死の恐怖です。
   今、人は生まれながらに神の愛が見えないという死の恐怖の中に生きています。魂はこの恐れを取り除くために、平安を求め、愛されることを求めます。しかし、神を知らない人間が愛を求める先は人間です。こうして、どうすれば人に愛されるか人の目を気にするようになり、人々が価値あると思うものを手に入れようとするようになりました。このようにして、人から認められほめられると安心し、自分が何者かなんとなくわかったような気になった人間は、どうすればもっと幸せになれるかと、人から愛され認められる生き方を追求するようになったのです。
   しかし、良く思われるために相手の期待に応えようとすると、相手の言葉が自分をしばる律法になります。律法とは人をしばる規定のことです。私たちは、いろんな人に良く思われようとして、それぞれに合わせた律法に仕えようと必死になり、さまざまな律法にしばられて自らを苦しめるようになってしまったのです。これが、「律法が罪の力である」ということです。
   このように、この世の心づかいという人の目を気にする生き方(=罪)は、すべて神との関係が絶たれて神の愛が見えなくなった恐れ(=死のとげ)から始まっています。現実には、それは律法となって私たちを苦しめています。死のとげこそ、私たちが気づくことができない後から明らかになる罪なのです。


罪からの解放

『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』(新約聖書 ヘブル人への手紙 2:14〜15)

   私たちがつらさを感じる原因はすべて、神に愛されていることが見えなくなった恐怖に行き着きます。これが死の恐怖です。この恐れを消し去ろうとして、人からの愛を求め、自分が何者なのかを求めようとするのですが、それは、人に愛されようと律法にしばられるだけで、真の平安にいたることはありません。そこで、イエス・キリストが、私たちを苦しめる罪から私たちを解放するために十字架に掛かり、愛を示してくださったのです。

『神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:9)

『愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 4:18)

   あなたを苦しめているのは、神の愛が見えないという死の恐怖です。そこからあなたを解放するために、イエス・キリストは私たちのためにいのちを差し出して、「あなたを愛している」と言っておられます。あなたのためにいのちを捨てるという、これ以上の愛はありません。この十字架のまったき愛を受け入れるとき、恐れは締め出されます。あなたの問題の解決は、あなたが神に愛されていることを気づくことしかありません。人を造ったのは神ですから、神は私たちが苦しんでいる原因をよく知っておられます。神に愛されていることがわからないから、人の目を気にして苦しんでいるのです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:9)

   神が罪を赦すとは、罰を与えないという意味ではなく、癒すという意味です。あなたが罪を言い表すなら、神に愛されていることがわかり、恐れを締め出すことができるのです。つらさを感じる時、罪を差し出して祈るならば、私のために十字架にかかられた神の愛が見えるようになり、恐れが締め出されます。神は、死の恐怖から私たちをきよめてくださいます。
   もしかしたらあなたは、つらいのは自分のせいではないから、私には罪はないと言うかもしれません。しかし、聖書ははっきりと誰もが罪を持っていると教えています。

『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。』(新約聖書 ヨハネの手紙第一 1:8,10)

   私たちは皆人の目を気にして生きています。これが罪です。そのために、つらさを感じているのです。しかし、神の言葉の中に生きていれば平安しかありません。人の言葉にすがって生きようとしていること、神のことを思わないで人のことを思っていることを赦してくださいと祈るとき、あなたは神に愛されていることがわかり、あなたの心は癒されます。神が自分のためにいのちを捨ててくださったことを、素直に信じることができるようになり、良い実を結ぶ者となれるのです。今、心を開いて、神様に罪を差し出す祈りをささげましょう。