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2015年月5月31日
望みを神に置く
(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:1〜)
『年寄りをしかってはいけません。むしろ、父親に対するように勧めなさい。若い人たちには兄弟に対するように、年とった婦人たちには母親に対するように、若い女たちには真に混じりけのない心で姉妹に対するように勧めなさい。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:1〜2)

   パウロは、弟子のテモテに対して、牧師としてどのように人々に接するべきか、それは第一に愛を持って人々と接することだと教えています。どんな言葉を使おうとも、私たちが人と接する時に相手に伝わるのは感情です。そして感情は、同じ感情を相手から引き出します。つまり、怒って相手を説得しようとすると怒りが伝わり、それは相手の怒りを引き出します。ですから、愛を持って接することが最も重要なのです。
   当時は男性が戦地に行くような事情もあり、教会の中でやもめの問題が大きくなっていたようです。このような聖書箇所を読む時は、「自分はやもめの問題とは無関係だ」と読むのではなく、この教えにいたる聖書のものさしを読み取り、神の基準を知りましょう。

『やもめの中でもほんとうのやもめを敬いなさい。しかし、もし、やもめに子どもか孫かがいるなら、まずこれらの者に、自分の家の者に敬愛を示し、親の恩に報いる習慣をつけさせなさい。それが神に喜ばれることです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:3〜4)

   子どもたちには、親を大切にする習慣を教えましょう。血のつながった血肉の親を大切にするのはもちろんですが、魂を与えてくださった天の父に感謝することも忘れてはなりません。神はご自分のいのちを使って、私たちの魂をお造りになりました。肉親と神の両方に感謝する習慣を身につけましょう。

『ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげていますが、自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。彼女たちがそしりを受けることのないように、これらのことを命じなさい。もしも親族、ことに自分の家族を顧みない人がいるなら、その人は信仰を捨てているのであって、不信者よりも悪いのです。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:5〜8)

   この模範はやもめに限った事ではありません。正しく生きているクリスチャンは皆、望みを神に置きます。自堕落なクリスチャンは、自分のことしか考えず、家族を顧みません。
   信仰とは、神を信頼し、愛する心です。目に見える兄弟を愛さない者は目に見えない神を愛することはできません。この世で関わる人達を愛することができなければ、神を愛することはできないのです。信仰が成長するとは、ただ口で「神を愛します」ということではなく、神を愛し、人を愛するという両面が必要です。ですから、家族を愛さないクリスチャンは、信仰を捨てているようなものだと言われているのです。

『やもめとして名簿に載せるのは、六十歳未満の人でなく、ひとりの夫の妻であった人で、 良い行いによって認められている人、すなわち、子どもを育て、旅人をもてなし、聖徒の足を洗い、困っている人を助け、すべての良いわざに務め励んだ人としなさい。若いやもめは断りなさい。というのは、彼女たちは、キリストにそむいて情欲に引かれると、結婚したがり、初めの誓いを捨てたという非難を受けることになるからです。そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。ですから、私が願うのは、若いやもめは結婚し、子どもを産み、家庭を治め、反対者にそしる機会を与えないことです。というのは、すでに、道を踏みはずし、サタンのあとについて行った者があるからです。もし信者である婦人の身内にやもめがいたら、その人がやもめを助け、教会には負担をかけないようにしなさい。そうすれば、教会はほんとうのやもめを助けることができます。』(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:9〜16)

   パウロが問題に取り組む基準は、人々に福音を伝えることです。クリスチャンは、自分が救われさえすればそれで良いのではなく、神の恵みを伝えていく勤めがあります。この観点に立ち、ひとりでも多くの人が救われるために、人から非難されるような生き方をしてはいけないという基準でパウロは指導しています。この勧めを自分自身のこととして受け止め、非難されることのない生き方を目指しましょう。


神に望みを置くクリスチャンとは

『ほんとうのやもめで、身寄りのない人は、望みを神に置いて、昼も夜も絶えず神に願いと祈りをささげています…』(新約聖書 テモテへの手紙第一 5:5)

   あなたは神に望みを置いているでしょうか。なぜ、望みを神に置く生き方が大切なのかを知るために、神が人を造った目的までさかのぼって考えてみましょう。
   神とは、父なる神とイエス・キリストと聖霊の3人の神様のことです。この3人の神様は、一つの意志を共通して持っておられ、人格は一つです。つまり、私たち人間の側から見れば、神はお一人であり、このことを三位一体と言います。3人の神様は、互いに絶対的な信頼関係にあり、互いを補い合う関係にあります。
   神様は、人をご自分に似せて造ろうと言われました。つまり、神の絶対的な信頼関係を築ける者を造られました。絶対的な信頼とは、相手が何をしようが、どのような状況になろうか、相手を信頼し、助けることに生きがいを感じるということです。聖書は、この「絶対的に信頼しあう関わり」のことを「愛(アガペー)」と呼びます。日本語の「愛」は「関わり」を意味します。ですから、愛の反対は無関心です。愛の反対は憎しみだと考えがちですが、憎しみもひとつの関わり方を表すため、愛のひとつの形と言えます。この愛の中で、絶対的に信頼しあう関わりのことを、聖書では、ギリシャ語でアガペーと言っています。この「アガペー」という言葉は、当時一般的に使われていた愛を表す言葉ではなく、絶対的に信頼する愛を表す言葉として聖書のために作られた言葉です。
   神は私たちを友と呼んでおられます。神は、神が互いに信頼し合っておられるように、人と信頼し合い、愛の輪を広げていきたいと願って、ご自身に似せて人を造られたのです。ですから、神は何があってもあなたを愛し続けます。あなたがどんなに悪いことをしようとも、道を外れようとも、いつでも信頼するのが愛です。その愛のゆえに、ご自分から十字架にかかって愛を示し、私たちがどんな状況になっていようとも愛し続けておられます。
   自分みたいな人間をどうして神が信頼するのか、どこに価値があるのか、あなたがどう思おうと神様はあなたを信頼することをやめません。なぜなら、あなたの中には神のいのちがあるからです。あなたの魂は、神のいのちを分けて造られたものです。私たちの中に神ご自身がおられて、神のいのちがあるので信頼するのです。問題は、神のいのちが、罪によって正しく機能していないということです。人間が罪を犯すのは、本来の姿ではなく、後から入り込んできた罪という病気によるものです。
   人間は、誰かに悪いことをされると、こんな奴信用できない、赦せないと思ってしまうものではないでしょうか。人はなかなか人を信頼することができません。しかし、聖書は次のように教えます。

『そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。…」」』(新約聖書 マタイの福音書 18:21〜22)

   イエス様が何度でも赦しなさいと教えているのは、イエス様ご自身が、何度でも赦してくださる方だからです。なぜなら、神様はあなたを信頼しているからです。神様は、あなたを信頼し愛しているので、あなたの罪を背負って、あなたのためにいのちを与えることすら惜しまないと言って十字架にかかってくださいました。イエス様にとって、私たちは信頼するに値する者であり、いのちを捧げても惜しくない者です。私たちを信頼しているので、何度でもチャンスを与えるのが当然なのです。ですから、私が赦すから、罪を言い表しなさいと教え、私がその重荷を下ろしてあげるから、自分で負うのはやめるように教えています。神は、人と互いに信頼しあう関係を作りたいから、まずは神が私たちを信頼してくれているわけです。


あなたは神を信頼できるか

   神はすでに私たちを信頼してくださっていますから、人が神を信頼できれば、神が人を造った目的は達成します。ところが、多くの人が神を信頼することができません。神の存在すら否定し、なぜ神がいるならこんな事が起こるのかと言います。
   神を信頼するとは、何があっても、どのような状況になっても、神の言葉を信じることです。神は、私たちを幸せにする神の国を約束してくださいましたが、信頼を育てるために、ご自分の姿を現すことはなく、目で見える神の国をこの地上に作りません。私たちが信じることによって、それらを自分のものにできるようにしておられます。
   見えるところが改善され、願いがなんでも叶うなら信頼するというのは、信頼ではありません。今見えるところがどうであっても、神は必ず約束を守ってくださると信頼するのが本当の信頼です。神は、どのような中にあっても神を信頼する信仰を求めて、あえて沈黙しておられることがあります。姿を見せず、この世界の事柄に関与しない神を信頼するかと、神は問うておられるのです。
   神が求めておられるのは絶対的な信頼です。旧約聖書のヨブ記は、そのことを教えています。神は、あなたの罪を何度でも赦し、何度でもチャンスを与え、励まし続けてくださいます。それは、あなたを絶対的に信頼しているからであり、「あなたはどうか?」と問うておられるのです。
「本当のやもめで身寄りのない人は望みを神に置く」と語られている通り、「神様がそう言われるなら信じます」と、ただ神の言葉に希望を持つ生き方こそ、神を信頼する生き方です。私たちがクリスチャンとして目指すべき生き方は、どのような状況であってもつぶやかず、神の言葉を信頼して生きることです。


望みを神に置く信仰

1.つらさを感じたら神に助けを求めて祈る

   つらい時、困難に出会った時、神に祈れるようになれば幸いです。困難に出会った時こそ、信仰が試されて、真に神を信頼できるようになるチャンスです。神に祈ることによって、困難のたびに神に感謝するようになります。困難にぶつかったときやつらい時、何よりも先に「神様、助けてください」と祈れるようになりましょう。

2.祈りの結果を信仰で受け取る

『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』(新約聖書 マルコの福音書 11:22〜24)

   望みを神に置くとは、神に祈って求めるものはすでに受けたと信じることです。
   見えるものに望みを置く生き方をする人は、見える状況が良くならないとつぶやき、文句を言います。そうではなく、見える状況がどうであれ、神が約束したことは必ず実現すると信じ、必ず実現するのだからすでに与えられたのと同じことだと、信仰で受け取ることが神に望みを置く生き方です。
   神が人に望んでおられることは、何があっても絶対的に信頼しあう関係を築くことです。神の側はすでにあなたを信頼し、何度でも赦し、失敗を責めません。私たちがすべきことは、神が与えてくださった信仰によって、見えるところがどうであれ、祈ったことはすでにかなえられたと心に描き、その結果を信じて受け取ることです。

3.自分の弱さに気づく

   自分が弱いことに気づいたら、誰でも神にしがみつかざるを得なくなります。自分の弱さに気づかず、もっと自分でなんとかできると思っているために、神を信頼することができないのです。人は、自分を良く見せようとする鎧を着て、弱い自分を隠して生きています。そのため、自分でも自分の弱さに気づいていません。しかし、自分の本当の姿に気づくなら、自分の弱さに気づき、必死に神にしがみつかざるを得ません。ですから、神は、私たちが自分の弱さに気づくように導かれます。このことを、聖書は「砕かれる」と表現します。
   世界の有識者に、この千年間で近代社会に最も影響を与えた出来事は何かと尋ねたところ、グーテンベルグが印刷機を発明し聖書が印刷されたことが1位に挙げられました。それまで聖書は、教会の一部の指導者のみが読むことを許され、一般の人が聖書の言葉を知る機会はまったくありませんでした。しかし、聖書が印刷され、誰でも聖書が読めるようになったことで人々の中にあったものが開花し、ルネッサンスが起こり、民主主義の思想が生まれ、世界が大きく変わりました。
   この聖書を翻訳し、誰でも読めるようにしたのが、宗教改革を行ったルターです。しかし、本来ルターには、改革を起こす意図はまったくありませんでした。ルターは、自分の罪に苦しみ、どうすればこの罪が赦されるのか、ただそれだけを求めていたのです。彼は修道院に入り、徹底的に懺悔し、罪が赦されるために有効だと言われる伝統的な苦行や教えをことごとく実践しましたが、少しも心に平安が得られませんでした。そんな時、聖書を読むことが許され、ローマ書の御言葉に目が開かれます。彼は御言葉によって、行いによって罪が赦されるのではなく、ただ神を信じる信仰によって赦されるのだということを知ったのです。こうして、熱心に聖書を読むようになったルターは、なぜ教会は聖書と異なることを教えているのが疑問に思い、95の質問をあげました。この質問状が大きな問題となり、ルターは教会への反逆者として追求されましたが、彼は神の言葉を信じ、信仰の基とするのは聖書のみという立場を貫きました。その結果、世界は神の言葉に目覚め、変わっていったのです。
   ルターは、ただ自分の弱さに苦しみ、必死に神を求める生活をし、神に到達しました。誰でも自分の罪を見つめるならば、なぜ自分はこんなに弱い人間なのかと、弱さに苛まれます。そんな時、神を信じる信仰によって赦されるのだと気づいたら、なんと素晴らしいことでしょうか。弱さに気づくだけで、神を信頼できるようになります。ですから、神は私たちが握っているものを手放させ、弱さに気づくように導いておられます。その意味において、患難に出会うことは幸いだと言うのです。
   神に望みを置くとは、神を信頼することです。神に祈り求め、神から得られる答えを心に描いて喜び、自分の弱さに一日も早く気づきましょう。あなたが心から神を信頼する者になる時、神が人を造った目的が達成します。神はあなたを愛し、信頼しておられます。あとはあなたが神に答えるだけです。